礼には礼を
そして、その日が訪れた。
ヴァレリアン公爵シャルルは長い一日の後、家に戻ってきた。
今日は案件が立て込んでしまって無事に終わったのは奇跡に近い。
猪突猛進してくる狂信的な令嬢たちがいなくなったのが救いだ。
いたら絶対に終わっていなかった。
仕事に集中できるのは幸いだが、やけに神経が高ぶる。
最近は湯浴みをしても、うまく寝られないことがよくあった。
疲れすぎているのかもしれない。
シャルルの担当するのは国家機密に相当するような案件だ。
ここで罪人と判断されれば、次は国の中枢で審議される。
ヴァレリアン公爵家が王家に近い人間という理由で白羽の矢が立ったのだ。
先代の公爵──父は現在の王の従兄弟だった。
緻密な論理やデータがないと負ける。
気力を使い果たす仕事も、私欲まみれな人間たちの相手も、自分を取り巻く事実無根の噂も忘れて、ゆっくり花でも眺めたい。
あの、裏庭の秘密基地のような小部屋にこもって、糖分を摂るのはシャルルにとっての至福のときだった。
一応、自分もれっきとした成人男性である。
大の大人が砂糖やら花やらにうつつを抜かしているなどと知れたら、あまり外聞が良くない。
と、隠していたのが良くなかった。
いつの間にやら小部屋に令嬢を連れ込んで、悪虐の限りを尽くしているという噂が立っていた。
そんな娘は存在しないし、ともすれば仕事以外で家族や使用人以外の女性と会話すること自体がもう何年も無い。
ジャンは悪評に憤慨していたが、社交界に夢など見ていないシャルルは冷めた思いで
(放っておくに限る)
と思って放置しているのだった。
幼い頃から顔が整いすぎていたシャルルは、それが原因で誘拐されかけたことがある。
最初は身を守るために法律を学んだ。
血筋が役に立つならと国のために、仕事はがむしゃらに泥臭くやってきた方だ。
だとしても、時折、休みたくはなる。
体力よりも主に気力がすり減っていく。
遅い夕食を食べようとすると、レベッカからの言付けをジャンが持ってきた。
夕食の後、裏庭に来て下さい──。
(珍しいこともあるものだ)
シャルルは考えた。
この間、東屋の中を見られたときは血の気が引いた。
ただでさえ変態性欲だとか言われているのに、幼女趣味だとかなんとか、噂にまたありもしない尾ひれがついてしまうのではないかと思った。
だけど、レベッカは言いふらすようなことも、軽蔑することもなく、淡々とシャルルの趣味を受け入れてくれた。
(あまつさえ、可愛いなどと……)
そう思い出して、シャルルはなぜか赤面した。
自分でもなぜ顔があつくなるのか分からない。
だが、馬車の中で近付いてきたレベッカはとても良い香りがした。
香水のむっとむせかえるような嫌な感じではなく、自然で爽やかな甘い香りだった。
レベッカは、自分の背丈よりもずいぶん大きなシャルルに向かって、可愛いなどという衝撃的な台詞を言ってのけた。
でも、それを思っただけでなぜ顔がこんなに熱くなったのだろう?
首をひねりながら、パタパタといぶかしげに顔を手であおぐ主人を、ジャンは細目で見つめた。
(シャルル様、それは照れていらっしゃるのですよ! レベッカ様の言付けでレベッカ様を思い出されたのでしょう!? 恋かな? と思うのです!)
と、ジャンがあたかも黒魔道士のように祈っていると、念が届いたのかシャルルはジャンを呼んだ。
「ジャン」
「はい。シャルル様」
「この部屋は換気をしているのか?」
「は? あ、……はい。しておりますが」
「ああ、そうか。それならいいが、妙に暑かったので」
「……もう秋口なのに、暑い日もあるものですね」
ジャンは遠い目になりながら、食堂の窓をもう少し開けた。
顔面だけは一丁前なくせに恋愛経験値が五歳未満の男である。
これを一人で世間に放り出してはいけない。
ヴァレリアン公爵家に仕える使用人たちの共通認識だ。
(今回の、レベッカ様の『計画』とやらがうまくいくといいが)
ジャンはこの後に待ち受けている、レベッカの『サプライズ』とやらに期待した。
大丈夫だろうかと案じる気持ちはなきにしもあらずだが、エレーヌだけでなくクロエやクレマンにも了解をとっているし、中でもあの策略家のローラが一枚噛んでいるのだから、きっとやり通せるだろう。
気の良い執事のジャンは、
「たちの悪い風邪だろうか」
と思案しかかったシャルルに、違うと思いますよと言いながら、水を注いだ。