感謝の形
「ここは……」
平民がいる場所ではあるが、ここは王都だ。
建物が建ち並び、無数の商店がしのぎを削る。
向き合ってお礼を言おうとしたレベッカは戸惑った。
なぜか、当然のようにエスコートされて、レベッカはシャルルの腕をとらされている。細身に見えるのに、案外に逞しい二の腕だ。
シャルルは慣れた様子でジャンに馬車を任せると、諸外国の要人が泊まっていそうなホテルの銀色の扉をくぐった。
それではお世話になりました、と告げて平民街の家を探すつもりだったレベッカは違和感に首を傾げた。
これではまるで『ヴァレリアン夫妻の週末のお出かけ』のようだ。
「こちらだ」
と言うヴァレリアン公爵シャルルは外套と帽子でいつもより顔かたちが隠されてはいたが、十分に男前だ。
レベッカは、絵になるなあと思いながらシャルルについて行った。
「あの? どちらへ?」
どうみても平民街には見えない。
戸惑うレベッカに、シャルルの方でも戸惑っていた。
「今日は朝食を外で食べる。昨日、クロエが伝えてくれていたと思ったのだが」
形の良い眉がひそめられている。
高身長のシャルルがそうすると、一見威圧的に見えるが、本人にそのつもりはない。
しかし、レベッカはそれよりも『外で着飾って朝食を食べる』という非日常で頭がいっぱいだった。
「ああ、いえ! 大丈夫です」
昨日はシャルルの隠し部屋騒動で、混乱していた。
メイドたちに何かを言われていたかもしれないが、ろくに覚えていない。
(それにしても公爵っていうのはこんなふうに朝ごはんを食べることがあるの……? 別世界だわ)
レベッカは驚愕した。
なんの気無しに寄越されたメニューの様子がおかしい。
(モーニング・ティーが十二種類もあるわ……? ティーって私の知ってる飲み物のティーよね)
レベッカの脳裏で、ティーカップを持った十二種類の動物がぐるぐると円を描いてワルツを踊り始めた。
レベッカがよく知っているのは、実家のひび割れかけたガラスコップに入った水である。
公爵家に来てからは、優美な曲線の芸術品のようなカップが出てくるため、割ってしまわないように緊張して飲んでいてあまり味が分からないが、芳醇な香りが溢れる飲み物だということは分かった。
ただ、いかんせんその高貴な香りに緊張するので、レベッカは普段はシトロンを入れた水をもらっている。
水呑み百姓ならぬ、水飲み令嬢なのだ。
モーニング・ティーの中で一番上に書かれている『アーリーモーニングブレンド』というのに決断したレベッカは、その右側に小さく書かれた値段に目を見開いた。
(えっ? ティーの値段が、10ギル?)
10ギルといえば、それなりの食堂で一食食べられるくらいの値段である。
それが、飲み物だけの価格。
(それなら、目玉焼きでもたのんだあかつきには)
ふと隣の料理の欄を見ると、案の定気が遠くなりそうな値段で、レベッカは困りきって公爵を見た。
「あの」
「どうした? 口に合いそうなものがないか?」
「いえ、まあ、そうなんですが、そうではなく……」
今朝はあまり食欲がない、と告げると、公爵はふむ、と口元に手をあてて少し考えた。
給仕に幾つかオーダーしたシャルルは、居心地悪げなレベッカを見て
「馬車に酔ってしまったか?」
と尋ねた。
「いえ、そうではなく、あまりにも豪奢なレストランなので圧倒されていました」
シャルルはひとたび瞠目したが、少し柔らかく視線を落として
「突然すまなかった」
と穏やかな声で言った。
「少しでも貴方に日頃の礼をしたいと思ったのだ」
「えっ? なぜです。私は何も」
「婚約をしたら迷惑なアプローチが減った。それだけでも俺のメリットは大きい。それに使用人たちから聞いている。レベッカ嬢は質素倹約な生活をし、控えめで、更には庭仕事までしていると」
レベッカの顔から血の気が引いた。
「出過ぎた真似をして、申し訳ございません」
「いや。折れたロゼッタも見事に治してしまう手腕があると。若い庭師が感心していた」
そこで朝食が運ばれてきた。
ふわりとした白いパンと、こんがり焼けた小さな卵焼き、そして黄色の透明な皿に入った薄切りハムのサラダ。食用の花が幾つか飾られており、彩りが美しい。
美しいが、これが一口でどのくらいの値段なのかを考えるとぞっとする。
貴族の生まれではあるものの、心優しい使用人たちの温情で生きながらえてきた身のレベッカとしては、フォークの進みが遅くなるのも無理はなかった。母が健在だった幼い頃の記憶を必死に手繰り寄せて、カトラリーを使う。
食後のプチ・ケーキだの何だのを追加注文されそうになるのをかたくなに阻止して、レベッカは一仕事終えたような気持ちで店を出た。
さて、今度こそ別れの挨拶を、と思ったレベッカは、再び馬車に乗せられた。
「昨日のことなのだが」
シャルルが切り出した。
「ええ、承知していますわ。その、つまり、あの隠れ家について」
「夜は動揺してしまって悪かった。見た物は他言無用にして欲しいのだ」
「もちろんです」
「貴方を信用していないわけではないのだが、少し……気恥ずかしい」
「あら、どうしてです」
「どうしても何も、気持ちが悪いだろう。大の男が甘い物だの花だのメルティの絵だの、そんなものに現を抜かしていたら」
「いえ? 全く。まどろんでいらっしゃるシャルル様が可愛らしいとは思いましたが」
ソファに体を沈み込ませるようにしてうつらうつらしながら読書をする姿は、猛禽類が羽を休めて一時の休憩をとっているような雰囲気があった。
「可愛……」
シャルルは絶句してレベッカを見た。
鬼の裁判官と言われている自分を『可愛い』と形容したことがあるのは、両親か昔からいる使用人たちだけだ。
幼い頃ならまだしも、成人した今の自分を愛らしいと言うのは、何か間違っている、とシャルルは思った。
だが、レベッカにそのような言い方をされるのは、悪くなかった。
これまで無数の女性に言い寄られてきたシャルルだが、レベッカはどの女性とも違う。
義母に強いられていた化粧や服を取り去ったレベッカは、抜群のプロポーションと色気、水に濡れた花のような美しい淑女然としていて、今や貴族令嬢といわんばかりの上品な姿だ。
それなのに、自分自身の放っている色気にはついぞ無頓着で、少女のように振る舞うこともある。
きっと、おそらく、年頃であれば持っているであろう恋愛への機微や異性を誘う手練手管も、誰よりも持っていそうな見た目であるのにもかかわらず、彼女はそういうものを一切知らない。
そんなレベッカに真っ向から「可愛い」と言われて、シャルルは思わず視線を逸らした。これでは自分が子犬か子猫のようだ。
シャルルの趣味は、ふとした出来心だった。
あまりの激務と精神的疲労から、最初は癒やされたいという一心で、昔の玩具を触ってみたのが始まりだった。
その後、自室にぬいぐるみを置くのもはばかられたので、庭の古い東屋に行ってみたところ、なんとなく落ち着いた。
秘密基地のようなつもりで色々と改装したり、庭を整えさせたりしているうちに、あんな仕上がりになってしまった。
どこからばれたのか、世間には、夜な夜な公爵が怪しい小屋で何かにひたっている、怪しい趣味があるのだと思われているようだ。
しかし、実際シャルルが好んでいるのは、鞭でも拷問器具でもなく、可憐なロゼッタや疲労した脳を元気づけてくれる目にも鮮やかな菓子なのだ。
激務のシャルルの一日の疲れを癒やしリセットするあの隠れ家は、確かに必要なものだった。
非難されることも覚悟していたのに、レベッカが自分の趣向を受け止めてくれた。
ここのところ何年も感じていなかったような類いの温かい気持ちを感じて、シャルルはゆっくり息を吐いた。
目的地に到着し、馬がいななく。
レベッカの細い手を手袋越しにとる。
エスコートするのは初めてではないはずなのに、シャルルの胸はなぜか一瞬どきりと跳ねた。
(心筋の病の予兆であればまずいな……近いうちに主治医に診て貰おう)
と、シャルルは考えつつ、レベッカに言った。
「すまないが、今日はこれから俺は王城で用事がある。後はジャンに護衛を任せる」
「はい、お気になさらず。ありがとうございました。貴重な経験のできた日々でした。公爵様のご健勝を心からお祈り申し上げ……護衛?」
「令嬢が喜ぶことはあまり私には分からないのだが、服でも靴でも宝石でも、好きなものを買うと良い。この辺りの店ならばだいたい馴染みだ」
レベッカは目を見開き、口をはくはくさせていた。
シャルルはジャンに向かって軽く手をあげて、王城へと歩みを進めた。