シャルルの見当違い
一方、公爵の日常は快適さに包まれていた。
「うーん……ここ最近は仕事がスムーズだ……!」
のびをしたシャルルは満足げに言った。
「なぜか分かるか。ジャン」
話を振られたジャンは、インク壺の蓋を閉めながら言った。
傍仕え兼、裁判官の秘書としての仕事を忠実にこなす彼は首を傾げた。
「それは、新手の惚気でしょうか?」
「違う」
「分かっています。言ってみただけです」
「まあ、完全に違うとも言い切れないかもな。婚約を公にしたら、俺に対する不快な接触が減った。終業後の待ち伏せや尾行も、昼飯の毒物混入も、通りすがりに飛びかかられることも、仕事中の執務室への迷惑な不法侵入もナシだ。最高だ。こんなに楽になるならもっと早く婚約というものをすれば良かった」
シャルルは自分自身がどう見られているか、ある程度分かっているつもりだ。
この顔が良くない。
本来のシャルルは血が出れば痛み、血が出ている人間を見たら心が痛む、極めて真っ当な人間なのだ。
それなのに、『氷の美貌』『完璧な彫像』『機械仕掛けの人形』と呼ばれだし、挙げ句の果てには『美麗な裁判官には人に言えない嗜虐的な趣味があるのだ』『加虐趣味があるので血も涙もない判決を出しても平然としているのだ』という悪意極まりない噂が広がった。
噂というのは否定すればするだけ吹き上がる、消えない小バエの塊のようなものだ。
と、いうわけでシャルルは、心に蓋をしている。
人間などくだらない。社交界などもっとくだらない。
レベッカも社交界とは一線を置いており、ちょうど良かった。
最近ではやたらと庭に出たがって、メイドを困らせているようだ。
そんなに外に出たいのだろうか。
(それはそうだ。いつまでもかごの鳥では、心が沈んでしまうだろう)
ヴァレリアン公爵シャルルは、これでもレベッカに感謝していた。
ひょんなことから婚約することになったが、可能ならもう少しこの関係を継続して欲しい。
正直に言えば、そのような身勝手な思いから、つけようと思えばすぐに手配できる護衛をまだつけていなかった。
婚約破棄を聞きつけたら、被虐癖のある不遜な者どもが一斉に大挙してくるに違いなかった。
鞭も蝋燭も縄も、シャルルには全く興味がないのに、いつからか噂が一人歩きして、シャルルの家はそういう物が集められた嗜虐の限りを尽くすおぞましい屋敷ということになってしまっている。
もういい加減にして欲しい。
シャルルが好きなのは、ロゼッタのような優美な花だ。
もっと言えばぼーっと花や草を見て、何も考えないで時を過ごしたい。
法律や人間の欲や、自分勝手な主張の数々から、離れて静かに心を落ち着けたい。
令嬢であるレベッカにとって、外に行きたいというのは何らかのストレスの発散に他ならないのではないか。
ヴァレリアン公爵シャルルは思いついた。
短い期間ではあるが、この快適さをくれた立役者のレベッカに感謝を示したい。
いや、しなければならない。
(伯爵令嬢が外に行く、となれば、やりたいことは一つだ)
次の裁判の準備をしながら、シャルルは同時進行で計画をしていた。
今週末の休みは、珍しく休日出勤するのをやめよう。
護衛はまだつけたくはない。
が、自分が週末護衛をすることはできる。
「ジャン。週末レベッカ嬢と出かける。手配をしておいてくれ」
優秀なジャンは、脳裏に穴の開いた麦わら帽子とほっかむり姿のレベッカがよぎったものの、主人の言葉をしっかりと聞き止めて、
「承知致しました」
と良い声で返事をした。