【短編版】処刑された令嬢のしあわせペット生活
「リリー。あなたとの婚約を破棄する」
その言葉を聞いたのがいつなのか、時間の感覚を失って久しいわたしには分かりません。
つい一週間ほど前だったような気もするし、一年以上昔のことだったような気もします。
日の差さない牢獄に、ずっと閉じ込められていたせいでしょうか。
でも、それももうすぐ終わります。
「リリー・ガブリエラ・フォン・シュトロイゼル。
王家への反逆を企てた罪により、火刑に処す。
懺悔の言葉はあるか」
「……いいえ」
無実です、と訴えたところで意味はないのでしょう。
わたしの死は、父の政敵であるコンフェクト公爵家の望みでしたから。
父も母も兄も、とうに処刑されました。
最後のわたしがどれほど無実を訴えたところで、それが覆ることはありません。
殿下から婚約の破棄とシュトロイゼル公爵家の取り潰しを伝えられてからずっと、わたしは神に祈り続けていました。
どうか、無実の罪が晴らされますように、と。
神は全てをご存じなのですから、私たちが無実であることも知っておられるはず。
きっとそれを証明して下さると、思っていました。
薪が積み上げられて、火がつけられました。
雲一つない夕焼け空に、幾筋もの煙が立ち上っていきます。
殿下や陛下の無感情な瞳が、殿下の新たな婚約者――コンフェクト公爵令嬢の嘲りの目がわたしを見つめていました。
火が両足を包んだ時、わたしは理解しました。
神などいない、奇跡は起こらないのだと。
「たすけて、たすけてください! だれか!」
この際、悪魔でもなんでもいい。ここから助けて欲しい。
熱い、痛い、苦しい、どうしてわたしが、わたしたちが。
息をする度、肺が焼かれるような苦しみが襲いました。
父も母も兄も、こうして死んだのでしょう。
叫び続けていると、耳元で大きな羽音がしました。
同時に、右肩に微かな重みが加わります。
なんとか動く首を曲げてそちらを見ると、銀色の羽が美しいフクロウがわたしの肩に止まっていました。
「助けてやろうか」
ずっと望んでいた言葉に、わたしは必死で頷きました。
黒みがかった赤い瞳が微かに細められます。
「だが、それには対価が必要だ。
悪魔は無償で願いを叶えることはしないからな。
お前は何を望み、何を差し出す?」
普段の私なら悪魔と言葉を交わすことすら厭ったでしょう。
でも、その時のわたしはこの苦しみから逃れたくて仕方ありませんでした。
「この痛みを、苦しみを、とめてください! たすけてください!
なんでもさしあげますから、どうか!」
悪魔と契約する事への嫌悪感や、神への罪悪感はありませんでした。
神は助けてくれないのですから。
「分かった。お前の痛みと苦しみを取り除いてやる。
代わりに魂をもらうが、いいな?」
はい、と頷いたか頷かないかのうちに、わたしは意識を失っていました。
目が覚めると、真っ白な天井が目に入りました。
身体の下には同じように真っ白なシーツが敷かれています。
牢獄では望めなかった清潔な空間に、安堵がこみ上げました。
「目が覚めたか」
先程のフクロウと同じ声に振り向くと、見知らぬ男性と目が合いました。
予想と異なる姿に驚くよりも先に感嘆のため息がもれます。
それほど、目の前の男性は美しい方でした。
一つの欠点もない端正な顔立ちに、すらりとした身体。
月の光を集めたような銀色の髪と黒みがかった赤い瞳は、どちらもわたしが今まで見たことのない色合いでした。
美しい人は大勢知っていますが、この男性ほど綺麗な方は見たことがありません。
その時、ふと男性が微笑みました。
「火傷の方は、問題なさそうだな」
それで、ようやく我に返りました。
そうです。わたしは火あぶりにされて、自分が助かりたいばかりに悪魔と契約したのでした。
あの後、わたしはどうなったのでしょう。
慌てて自分の身体に目を落とすと、そこには予想していたような醜い火傷の跡は一つもありませんでした。
手入れをされてきた真っ白な肌が続いています。
胸元、腕、腹、それから足……え?
「え?」
思わず声が出ました。
もう一度、よく確認します。
胸元。腕。ここまではいいです。
お腹、下腹部、太もも……何故、服に覆われているはずの部分がこんなにもはっきりと見えるのでしょう。
それでようやく気がつきました。
わたし、裸です。
顔を上げると男性が面白そうにわたしを見つめていました。
そうです、男性です。
……わたしは、恥も外聞もなく悲鳴を上げました。
「なんだ、いきなり。どこか悪いのか?」
突然悲鳴を上げたわたしを見て、男性はたいそう驚いたようでした。
心配そうにこちらに近づく男性に首を横に振って、シーツを身体に巻き付けます。
それでようやく、心が落ち着きました。
考えてみれば、わたしは焼かれたのです。当然、ドレスも燃えたはず。
使い古した布に手足を通す穴を開けただけの代物をドレスと呼べるのか疑問ではありますが、それはひとまず置いておきましょう。
ドレスが燃えたのなら、わたしが裸なのは当然です。
それ以外の意図は、この方にはない……はずですよね。
「あ、あの」
「どうした? 具合が悪くなったか、それともどこか痛むか?
おかしいな。ちゃんと治癒を掛けたはずなんだが……」
小さく呟かれたその言葉に、ほっと胸をなで下ろしました。
治療してくれたということは、やはりこの男性はいい方なのです。
ちょっと女性の心に疎いだけで。
「その、申し訳ないのですが服をお借りしてもよろしいでしょうか」
「服?」
「ええ。このままではその、裸……ですので」
恥ずかしさのあまり徐々に消え入りそうになる声をどうにか振り絞って訴えると、その方は不思議そうに首をかしげました。
「必要あるのか」
「え?」
一瞬、聞き間違いかと思いました。
……聞き間違い、ですよね?
「必要ないだろう。お前は俺のペットなんだから」
「……ええと」
つまり、どういうことなのでしょう。
いえ、言葉の意味は分かります。私がこの方のペットになったのですよね。
でも、ペットという言葉は人間に向けられるものではないはずです。
その時、以前少しだけ読んだ小説の内容が脳裏を過ぎりました。
愛人をペットのように愛玩する男性のお話です。
もしかして、小説と同じことがわたしの身にも起きようとしているのでしょうか。
結婚前に、それも殿下以外に身体を許すなど許されない行いです。
少し前なら、この場で舌を噛み切っていたでしょう。
……ですが、それがなんだというのでしょう。
わたしは自分が助かりたいが為に悪魔と契約して、魂を売り渡しました。
それはこの国で……いえ、世界でもっとも忌まれている行為です。
婚前交渉を行なうよりも、人を殺すよりも蔑まれる行為。
何をされても、私が今より堕ちることはないでしょう。
そう考えると、不思議と落ち着きました。
困った様子でわたしを見つめる男性を見上げて、その赤い瞳をじっと見つめます。
「……申し訳ありません。
シュトロイゼル公爵家の長女とはいえ、わたしはもう落ちぶれた身。
苦しむことなく生かしていただけるのであれば、お好きなように扱っていただいて構いません。
たとえ、この身が穢されようとも」
「言われるまでもなく好きなように扱うつもりだが……穢す?」
「はい。わたしの……その、貞操を」
さすがに恥ずかしくて口ごもってしまった言葉を聞いて、男性が面白そうに笑いました。
「なるほど。お前は犬猫に欲情するのか」
「はい?」
何故そのような話になるのでしょう。
首を傾げると、男性が呆れた様子で口を開きました。
「お前はペットだと言っただろう。普通、ペットに欲情する奴はいない。
だが、お前は自分が穢されると考えた。
つまり、ペットを穢す発想を持っているということだ。
だからお前は、人間がよくペットにする犬や猫に欲情するのかと考えたんだが……違うのか?」
「違います!」
そのような特殊な嗜好は持ち合わせていません。
思わず声を荒げてしまったわたしを見て、男性がくすくすと笑いました。
「そうだろう。俺も同じだ」
柔らかな声が掛けられると共に、髪がそっと撫でられます。
いやらしさの欠片もない、慈しむような手でした。
「誰だって、自分のペットは可愛がるものだ。
心配はいらないさ。これからたくさん可愛がってやるから」
なあ、俺のかわいいペット。
その声は、とても優しいものでした。
「……一つ、お伺いしてもよろしいですか?」
「ああ。なんだ」
「わたしは確か、悪魔と契約したはずです。
魂と引き替えに、苦痛から解放して欲しいと。
それなのにわたしはここにいる……どういうことなのでしょう」
悪魔に魂を捧げた者は地獄に堕とされる。
それは司祭様から常々お話しされていたことでした。
地獄はとても恐ろしいところで、そこに堕とされた魂は火に焼かれる苦しみを永久に味わうのだとか。
……わたしがされていたことと、あまり変わりませんね。
そう考えると、何故契約したのかと不思議に思えてきます。
ほんの一時炎に焼かれることと、永久に炎に焼かれる苦しみを味わうこと。
冷静に考えれば、後者を選んだほうがより苦しみが長引くことは明らかです。
ですが、あの時のわたしは後先のことなど考えていませんでした。
ただ今の苦しみから逃れたかったのです。
それから遠ざかった今、己の行為がいかに軽薄だったかが身に染みます。
けれど、わたしがいるこの場所は地獄とはあまりにもかけ離れていました。
清潔なベッド。広い部屋。少女好みの可愛らしく上等な調度品。
室内を満たす仄かに甘い花の香り。
ここが地獄だと言われても、信じる者は誰一人いないでしょう。
わたしの問いかけに、男性は不思議そうに瞬きをしました。
「ああ。お前は間違いなく契約した。だからここに連れてきたんだ」
「では、あなたが悪魔なのですか?」
「ああ」
男性が静かに頷いて、唇の端を吊り上げました。
たったそれだけの仕草なのに、ぞっとするような冷たさを感じます。
何を言えばいいのか分からず戸惑っているわたしを見て、男性がくつくつと声を上げて笑いました。
「大方、悪魔は醜悪だとか契約したら地獄に堕とされるだとか聞いたんだろう。
なあ、俺のかわいいペット。悪魔と契約したら地獄に堕とされるなんて、どうして言えるんだ?
何故、地獄が恐ろしい場所だなんて断言できる?
一度地獄に堕とされてまた戻って来なければ、そんなことは言えないはずなのに」
「……それは……」
答えられませんでした。
男性の言葉はもっともに感じられましたから。
口ごもるわたしの髪を撫でながら、男性が目を細めます。
「人間の考えた悪魔観なんて、所詮は人間に都合よく出来た幻想だ。
面白くはあるが、今のお前には必要ない。
必要なのは、俺がお前の飼い主になったという事実だけだ。
分かったな? 俺のかわいいペット」
男性の言葉が、声が、わたしの耳を通って身体の隅々にまで浸透していきます。
気がつけば、わたしは大きく頷いていました。
「はい、主様」
と、そんな言葉まで添えて。
「お前はかわいいな。本当に」
気に入って頂けたのでしょう。
満足げに頷いた主様の指先が、わたしの首元をするりと撫でました。
「名前を決めないとな……リリーでいいか」
「はい」
呼ばれ慣れている名前ですから、文句はありません。
もっとも、主様の提案でしたらどのような名前でも……。
「それとも、ガブリンにするか? ゴブリンっぽくてかわいいと思うんだが」
「リリーでお願いします」
さすがに、そんな人間離れした名前は嫌です。
「なら、お前はリリーだな」
わたしの返答に、主様が怒る気配はありませんでした。
もともと、本気ではなかったのでしょう。
見た目のわりに案外、冗談がお好きなのかもしれません。
なんにせよ、もうわたしはリリー・ガブリエラ・フォン・シュトロイゼルではなく、単なるリリーになりました。
シュトロイゼル公爵家の長女でも、殿下の婚約者でもありません。
そう思うと無性に胸が暖かくなるような、そんな感じがしました。
――さて。
「あの、主様」
「なんだ」
「服を下さい」
わたしの要求に、主様はとても不思議そうに首をかしげ……いえ、これでは先ほどと同じです。
先ほど主様がおっしゃった理屈で言うのなら、わたしはペットの犬や猫に服を着せようとは思いません。
ですから主様も、わたしに服を着せようなどと思わないのでしょう。
犬猫が裸でも、誰もおかしいとは思いませんから。
「でも、わたしは人間です。人間は大体服を着ています。
むしろ、服を着ていない方が不自然だと思うのです」
「そのままの方が自然でいいと思うんだが……お前が望むのなら仕方ないな」
わたしの訴えに主様は腑に落ちない顔をしつつも頷いてくださいました。
主様が指を鳴らした途端、色とりどりのドレスがわたしの元に降り注ぎます
デザイン、素材共にどれも素晴らしいものばかりです。
「さて、どれがいいか。
お前は愛らしいから、なんでも似合うな」
悩む主様の姿に、胸が暖かくなるのが分かりました。
きっと、その言葉に何の裏もないせいでしょう。
今までも「可愛らしい」「綺麗だ」と褒められたことはあります。
でも、それらの言葉には必ず目的がありました。
もちろんそれは貴族社会で生きる者として当然のことなのですが、だからこそなんの裏もない純粋な褒め言葉が嬉しかったのです。
「……薄紅色がいいか。いや、淡い黄色もいいな。
リリー。お前はどっちがいい」
主様の言葉を噛みしめているうちに、吟味は最終段階に至ったようです。
見せられた二枚のドレスにはどちらも素晴らしいものでした。
薄紅色のドレスはふんわりとした薄い生地が何枚も重ねられた、可愛らしいもの。
淡い黄色のドレスは艶のある生地に真珠をあしらった、少し大人っぽいもの。
どちらも、わたしが普段選ばないようなデザインや色合いのドレスでした。
いつもはもっと落ち着いた色とデザインを着せられますから。
そこにわたしの意思はほとんどありません。
あるのは公爵家令嬢として、殿下の婚約者としてふさわしいかどうかだけです。
ですから、自分の好みだけで服を決めるのは久々……いえ、初めての体験でした。
「ええと……」
悩むわたしを、主様は根気強く待って下さいました。
早くしろと急かすことも、こっちでいいだろうと決めることもありません。
いっそ決めて下さったら楽なのにと思う反面、自分の意思で選ぶことが楽しくもあります。
「……こちらにします」
結局、悩みに悩んだあげく薄紅色のドレスにしました。
おとぎ話のお姫様のようなデザインはわたしには少し可愛らしすぎるかとも思いましたが、どうせ誰に見せるわけでもないのだからと思い切ってみたのです。
「リリーの赤い目に似合う色だな」
わたしが選んだドレスを見た主様は、そう言ってにっこりと微笑みました。
それから、ドレスをわたしに着せ……。
「あの、主様」
「どうした」
「自分で、着ます……」
さすがに、男性にドレスを着せていただくのは恥ずかしくて無理です。
わたしの言葉に、主様が首を傾げます。
「お前の要望は出来る限り叶えてやりたいが、着られるのか?」
……着られません。
自分一人でドレスを着たことなど、ないのですから。
牢獄に入れられていた間の着替えは自分で行なっていましたが、あれはそもそも単なる布でした。
ドレスのようにボタンや装飾がたくさんついたものとはわけが違います。
コルセットを締めなければ少しは楽かとは思いますが……。
黙り込んだわたしを見て、主様が再びドレスを手に持ちました。
あんなに素敵だったドレスが、今は一種の拷問器具のように見えます。
いえ、ドレス自体は今も変わらず素敵なのですが……。
「何が嫌なんだ?」
「だ、男性に着替えを手伝っていただくのは、その……はしたないことですから」
「裸でいるよりか?」
そう言われれば、その通りです。
……分かっては、いるのですが。
口ごもるわたしを見て、主様が「ふむ」と頷きました。
「男性体でなければいいんだな」
「は、はい……」
女性であれば、なんの問題もありません。
侍女に着せられるのは慣れていますから。
でも……そこまで手間を掛けさせるのはどうなのでしょう。
主様はわたしの裸を見ても欲情しないとおっしゃっていました。
そして「服を着たい」というわたしの願いも叶えて下さいました。
その上更に侍女を用意して欲しいというのは、少し我儘です。
頭では分かっていても、羞恥心が邪魔をして実際に口に出すことはなかなか出来ませんでした。
ですが、このままでは主様を困らせてしまいます。
その時、微かな衣擦れの音が耳に届きました。
ドレスの裾が床にこすれる音です。
不思議に思って顔を上げて……驚きました。
「これなら問題ないだろう?」
目の前には主様ではなく、上品な貴婦人がたっていました。
一つにまとめた銀色の髪と新雪のように白い肌の美しい方です。
驚くわたしを見て、貴婦人が黒みがかった赤い瞳をにこりと細めました。
主様はどこにもいなくて、代わりにこの女性がいる。
……それが意味することは一つです。
「……主様、ですか?」
「ああ」
そう言って、貴婦人は優雅に微笑みました。
薄紅色のドレスをそっとわたしにあてがいます。
今の主様に着替えを手伝っていただく抵抗はもちろん全くなくて、わたしは言われるがままにドレスに腕を通しました。
ボタンを留めたりコルセットを軽く締めたりと、主様のたおやかな手が忙しく動き回ります。
まるで手品のように鮮やかな手つきに見惚れていると、いつの間にかすっかり姿が整えられていました。
「……ふうん。なるほど、なかなか似合ってるな。
何も着ないのもいいが、これはこれでまた印象が変わって見える。
素敵だ、リリー」
そう言って、主様がそっとわたしの髪を梳きました。
どうやら、服の着用は認めていただけそうです。
「ありがとうございます。
……ところで、主様。主様は女性と男性どちらなのですか?」
「普段は男性体だ。この方が動きやすいからな。
そもそも、悪魔に性別なんてない」
そう言って主様が指を鳴らすと、貴婦人の姿が黒い影となって溶けました。
すぐに影が形を変えて、男性の主様の姿になります。
「女性体は華やかでいいんだが、昔からこの姿を使ってるからもう慣れててな。
まあ、女性体の方がいいなら着せ替えの時はあっちになるさ」
「申し訳ありません」
「少しの間だし、そんなに手間でもない。女性体の練習にもなる。
それに、ペットのお願いはできる限り叶えてやりたいからな」
とろけるような笑みを浮かべて、主様がわたしの頬を撫でました。
わたしはどうやら、いい方に飼われたようです。
それから、わたしは主様に可愛がられながら暮らしました。
可愛がるといっても、いやらしい意味ではありません。
綺麗なドレスを着せられたり、髪を結って頂いたり、一緒に庭をお散歩したり……。
「首輪代わりだ」と言われて主様につけて頂いたアンクレットはわたしの宝物です。
まさにペットのような扱いでしたが、それを嫌だと感じたことは一度もありませんでした。
意見を尊重されたのも、素直に褒められたのも、失敗した時に心配して頂けるのも、初めてでしたから。
だから、そう。仕方のないことなのです。
主様を見るたびに頬が熱くなるのも、触れられる度に心臓が高鳴るのも、「俺のかわいいペット」と言われるたびに嬉しさと同時に苦しさを覚えるのも。
叶わない恋だということは、初めからわかっていました。
ペットに欲情する飼い主がいないのと同様に、ペットに恋をする飼い主もいませんから。
だから、叶える気は初めからありませんでした。
ただ、主様と一緒にいられればそれだけでしあわせでしたから。
まさか、それさえも出来なくなる日が来るとは思ってもいませんでしたが。
事が起きたのは、お仕事に出かけられた主様をお屋敷で待っている時でした。
全く知らない悪魔が、屋敷に入ってきたのです。
『人間なんて、本当は触りたくもないんだけど……。
生きたまま連れて行くのが契約だから、仕方ないよね』
嫌そうな顔で吐き捨てた悪魔に魔法を掛けられて、昏倒したことは覚えています。
目を覚ました時にはここにいました。
背にあたる冷たい壁。全体に漂うじっとりと湿った空気とかび臭い匂い。
窓一つないので何も見えませんが、ここのことはよく知っています。
わたしが処刑前に閉じ込められていた牢です。
「まさか、また入れられるなんて……」
わたしを浚った悪魔は、契約だと言っていました。
でも一体、誰が何の目的で悪魔と契約したのでしょう。
その時、扉の向こうで微かな足音が聞こえました。
こちらへ近づいてきているのか、次第に音が大きくなるのが分かります。
扉が開きました。
「……リリー・ガブリエラ・フォン・シュトロイゼル」
暗い牢の中、聞き慣れた声が響きました。
三歳の時に婚約して以来、ずっと傍で聞き続けた声です。
「……殿下」
最後に見た時より幾分かやつれた姿で、殿下が目の前に立っていました。
顔色が悪く、いつも丁寧に手入れされていた髪は少し傷んでいるように見えます。
何より、常に凜とした光をたたえていたその瞳には明らかな疲労が浮かんでいました。
「リリー。あなたの掛けた呪いを解いてくれ」
一瞬、殿下が仰る意味が理解できませんでした。
呪い、とは何のことでしょう。
尋ねると、殿下が不愉快そうにわたしを睨みつけました。
「この期に及んで嘘を吐くのか。
病が流行り始めたのは、あなたを処刑してからだ。
そして火刑の最中、あなたが何かを叫んで消えたことはあの場に立ち会った全員が目撃している。
呪いでなければ、この奇病はなんだというのだ」
分かりません。
そもそも国内で奇病が流行っていることも初めて知ったのですから。
そう言うと、殿下は苛立った様子で国内の状況について説明してくださいました。
現在、この国では「火の病」と呼ばれる病気が流行っているそうです。
全身を焼かれるような苦しみと、身体中に広がる火ぶくれのような水疱からそのように呼ばれているのだとか。
症状が進行すると皮膚がどんどんただれて……まるで全身に火傷を負ったときのような姿になるのだそうです。
病そのもので死んだ方はあまりいないそうですが、その痛みに耐えかねて自ら命を絶たれる方が大勢いるのだと言っていました。
この国でも周辺諸国でも、自殺は禁忌とされています。
神からいただいた命を自らの意思で絶つことは殺人にも等しい罪なのだそうです。
それなのに自殺者が多くでるということは、それだけ苦しみが強いということなのでしょう。
最近では苦痛を和らげる果実が流行して自殺者は減ったそうです。
ただ、今度はその果実の中毒になる方が大勢出てしまっているのだとか。
かといってそれを完全に取り締まれば、今現在高まっている王家への反発が爆発しかねない。
それで陛下や殿下は大変苦労されていると、そういう事情のようでした。
「これでもまだ、白を切るつもりか」
話し終えた殿下がそう言ってわたしを睨みました。
ですが残念なことに、殿下の望む答えは返せそうにありません。
わたしが望んだのは復讐ではなく、自身の救済です。
復讐を願う余裕すら、当時のわたしにはありませんでしたから。
「わたしは、呪ってなどいません」
「……そうか」
殿下が目を伏せました。
理解して頂けたのでしょうか。
その時、二人の男性が牢に入ってきました。
この先の展開を、わたしは知っています。
「あなたを殺せば呪いは解けるはずだ。
だが、かつての婚約者を即座に殺すのも忍びない。
改心の機会を与えよう」
妙に芝居がかった仕草で殿下が言いました。
疲れ切っていた男性たちの目が希望に輝きます。
「殿下、わたしは」
「このようなことはしたくない。だが、国のためだ」
それからは、以前受けた拷問の繰り返しでした。
以前と違うのは、主様と結んだ契約のおかげで痛みも苦しみも感じないことでしょうか。
どんなに鞭で打たれても痛みはありませんし、水に沈められても苦しくありません。
気が付けば、わたしの身体は無数の傷や痕で覆われていました。
鞭で打たれた肌は剥けて手足は欠け、細い針を刺された左目は見えなくなっています。
主様は、こんなわたしでもかわいがってくださるでしょうか。
「……お前達は一度下がれ」
呪いを解くと言わないわたしに痺れを切らしたのでしょう。
殿下がそう言って、作業していた方々の退出を命じました。
初めは渋っていた――それはそうです。わたしは悪魔の眷属と思われているのですから――二人でしたが、再度強い口調で命じられて渋々といった様子で部屋を出ていきます。
それを見送った殿下が、近くにあった暖炉に魔法で火を付けました。
暖炉と言っても粗末なものですが、おかげで冷え切った空気が少し暖かくなります。
静かに歩み寄った殿下が無言のまま私の側に跪きました。
「殿下」
かろうじて動く首を持ち上げて、殿下を見つめます。
光の加減によって色が変わって見える殿下の目は、今は暗い灰色に見えました。
きっと、光があまりない場所にいるからでしょう。
殿下の返事はありませんが、期待はしていなかったので別に構いません。
これからする問いかけに答えてさえ頂ければ、それでいいですから。
「どうしてこのように、無駄なことをするのですか?」
「……言ったはずだ。
かつての婚約者であるあなたを殺すのは忍びないから……」
「殿下は一度、わたしを殺しました。
その殿下が何故、今になってためらうのですか?」
わたしの言葉に、殿下が唇を固く結びました。
気づかないと思われていたのでしょうか。
目的のためなら、自分の感情は切り捨てる。
殿下はそういう方です。
わたしを殺して国が救われるのなら、とうにそうしていたでしょう。
しばらく黙り込んだ後、殿下は小さく息を吐き出しました。
「……あなたは本当に、頭がいい」
殿下がわたしをじっと見つめました。
あまり気持ちのいい姿ではないと思うのですが。
「火の病が流行したとき、同時にシュトロイゼル家が冤罪を着せられたのではないかという噂が広まった。
あなたは神の敬虔な信者だった。
そのあなたを陥れたことで神が怒り、国に罰を与えたのだと……そう囁かれるようになった」
いえ、その可能性は全くないと思います。
もし本当に神がわたしを愛して下さっていたのなら、主様が来てくださる前に救って下さったでしょうから。
「おかげで、王家への信頼は地に落ちた。
病への対応が後手に回ったこともあってな」
だから、わたしが悪魔の眷属だという噂を流したのでしょうか。
神の罰ではなく悪魔の呪いによって病が流行したことにすれば、わたしを処刑した王家の判断は間違っていなかったことになります。
既に亡く、公爵家という後ろ盾すら失っている者の噂を流すことくらい、王家が抱えている諜報員なら簡単でしょうから。
わたしの問いかけに、殿下が小さく頷きました。
「しかし、そんなことをしても根本的な解決にはならない。
病を治す方法を探り、情報を集め――たどり着いたのが、悪魔だった」
殿下の目が苦しげに細められました。
「無論、悩みはした。
王太子である私が悪魔に協力したなどと知られては、例え呪いが解けたところで国は救われないだろう」
悪魔との契約は最も忌むべき事とされています。
民も貴族も周辺諸国も、それを行った殿下を責めはしても賞賛はしないでしょう。
例えそれで国が救われたのだとしても、その事実を認めてしまえば教会の権威は地に落ちますから。
それで殿下は、わたしが悪魔の眷属になって国に呪いを掛けたことにしたのでしょう。
術者を殺して呪いが解けたことにすれば、病が急に治っても不審には思われません。
それどころか「悪魔の眷属を殺した」という功績さえ得られますから。
どんな状況においても、自身にとって最適な答えを選ぶことの出来る殿下らしい選択だと思いました。
「――それを、あなたが言うのか」
わたしの感想に、殿下が静かに呟きました。
こちらを見る顔に表情はありません。
その時、暖炉の方からぱちぱちと何かが爆ぜる音がしました。
殿下がゆっくりと立ち上がり、そちらへ向かいます。
何故か、とても嫌な予感がしました。
「あなた自身に罪はない。
いや、悪魔と契約したことはもちろん罪だが……仕方のないことだと思う。
だが、国の為だ。
あなたも元は公爵家の令嬢。貴族や王族が民によって支えられ、それ故に民を守らねばならないことは分かるだろう」
そう言いながら戻ってきた殿下がわたしの前で立ち止まりました。
右手には金属で作られた細い棒が持たれています。
先端に付けられた十字架を象った印は、赤く熱せられていました。
殿下の左手が、血ですっかり固まってしまったわたしの髪を掴みます。
近づけられた印が発する熱が肌に伝わりました。
とても熱いです。
そして何より……怖いです。
わたしは痛みを感じません。苦しみも感じません。
死ぬこともありません。
ですから、恐れる必要はないはずです。
それなのに何故、これほど恐ろしく思えるのでしょう。
そのつもりはないのに、身体が小刻みに震えます。
殿下が小さく息を漏らしました。
同時に、近くで止められていた印が更に近づけられます。
室内に響く声が自分の悲鳴だと気がついたのは、印が離されてからでした。
痛みはありません。
ただ、顔の左半分に焼けるような熱さが残りました。
「……大丈夫そうだな」
印を置いた殿下が呟いて、懐から何かを取り出しました。
琥珀色の液体が入った透明な瓶です。
ラベルも何も貼られていないので液体がなんなのかは分かりません。
瓶の中身がわたしに振りかけられました。
冷たくて、粘性のある液体です。
とても嫌な匂いがしました。
前に……処刑前に嗅いだ匂いです。
「リリー。どうやらあなたは痛みも苦しみも感じないようだ。
その様子だと、死ぬこともないのだろう」
「……はい」
「だが、それは肉体の話だ」
殿下の手から小さな炎が現れました。
その火が、燃え移って。
「精神は何も感じないわけにはいかないだろう」
勢いよく燃え上がった炎が、わたしを包みました。
皮膚が膨れて、肉が焦げる匂いがしました。
叫んだ際に吸い込んだ熱気で喉が焼けたのか、声も出ません。
処刑されたときは痛みと苦しみで分からなかった身体の変化に恐怖が沸き上がります。
「あなたの不死は先天性のものではなく、悪魔に望んだ結果だ。
それなら、死を望ませるほどの恐怖を与えればいい。
すまない。あなたが死んでくれないと、国は救われないんだ」
殿下の言葉は聞こえていても、その意味を理解することは出来ませんでした。
気が狂いそうな恐怖の中、心の中で何度も同じ言葉を繰り返します。
主様、あるじさま、たすけてください。
「リリー!」
ずっと求めていた声と同時に、身体を覆っていた熱が消えました。
ひんやりとした清涼な風に包まれると同時に、重かった身体が軽くなります。
顔を上げると、銀色の髪が見えました。
「あるじ、さま……」
「リリー、リリー。もう大丈夫だ」
そう言って、主様がそっと抱きしめて下さいました。
低めの体温と薬草の香りに、それまでの恐怖が少しずつ薄れていきます。
「すぐに来てやれなくて悪かった。
怖い思いをさせたな」
大丈夫です。痛みも苦しみも、ありませんでしたから。
来て頂けただけで十分です。
そうお伝えしたかったのに、声が詰まって何も言えませんでした。
涙が後から後からこみ上げてきます。
これでは、主様を余計に困らせてしまいます。
謝ろうと顔を上げると、その前に主様の指がわたしの唇にそっと触れました。
小さく首を横に振られて、開きかけた唇を閉じます。
「いい子だ、リリー。よく頑張ったな」
「……はい」
私の返事を聞いて、主様が満足げに微笑みました。
燃やされて短くなってしまった髪を優しく撫でられます。
少し残念です。毎日、主様が丁寧に梳かして下さっていたのに。
「また伸びるまで、どのくらい掛かるでしょうか……」
「長くとも短くとも可愛いとは思うが、お前が望むなら後で伸ばせる」
それなら、伸びるまで短いままでいるのもいいかもしれません。
もちろん、後で毛先を整える必要はありますが。
「……それが、あなたの主か」
背後から、冷ややかな声が掛けられました。
殿下です。
すっかり忘れていました。
振り返ろうとするのを止められて、主様の胸元に引き寄せられます。
無理に振り返る必要もないので、そのまま主様に身体を預けます。
出来れば、早く終わって欲しいです。
わたしの服は引き裂かれたり燃えたりしてほとんど原形を留めていないので以前抱えて頂いたときよりは軽いでしょうが、それでも多少の重さはあるはずです。
お疲れの主様に、これ以上負担を掛けるわけにはいきません。
それなのに主様の腕から降りたくないと抱きついているのはわたしの我儘なので、あまり強くは言えませんが……。
「ああ、そうだ。
それで、自分が何をしたのか分かっているんだろうな?」
「分かっている。殺したくば殺すがいい。
悪魔と戦い、命と引き換えに病を治した……という筋書きでも周囲は納得するだろう。
火の病が治り、民が苦しみから解放されるのならそれでいい」
殿下の言葉に、主様が「ほう」と感心したような声を漏らされました。
「ずいぶんと国民思いなんだな」
「当然だ。わたしは次期国王。
この国の全ての民に対して責任がある」
「そうか。それなら、お前の願いを叶えてやる」
そう言って、主様が指を鳴らしました。
特に何かが起こった気配はありません。
ただ……とても甘い香りが漂いました。
「火の病に対する治療薬だ。
効き目は少し薄いが、三日ほど継続して食べればそのうち治る。
よかったな。対価を支払わずに済むぞ」
主様の言葉に、殿下が息を呑む気配がしました。
わたしが苦痛を取り除く対価として主様に魂を捧げたように、悪魔との契約には対価が必要です。
殿下が何を捧げるつもりだったかは分かりませんが、軽い対価では済まされないでしょう。
国宝か、王国の一部か……あるいは民を何人か要求されるかもしれません。
それらを支払わずに済むというのは、殿下にとって良い知らせのはずでした。
国宝も王国の一部も民も、殿下にとっては大切な財産でしょうから。
対価をもらうはずだった悪魔は可哀そうですが……。
それに、悪魔の眷属が掛けた呪いさえ解くことのできる治療薬を開発したとなればこの国――エアトベーレの名も上がります。
悪いことはないように思えました。
ただ一つ、治療薬らしきものがどこにも見当たらないという点を除いては。
「そんなものがどこにあるというのだ」
「もう持っているだろう」
苛立つ殿下を見下して、主様がさも面白いといった様子で笑われました。
いつもわたしに向けて下さるような暖かな声ではありません。
嘲るような笑い声でした。
「からかっているのか!」
「まさか。
お前自身が治療薬なんだよ、王子様」
「………………私、が?」
殿下の声はこれまで聞いたこともないほど小さく、弱々しいものでした。
主様が満足げに微笑まれます。
「自らの身を削って国民の病を治す王子様……素晴らしいじゃないか。
ああ、安心しろ。
どこを食べられても死ぬことはないし、すぐに再生するようになってる。
今いる国民全ての病が治るまで、その魔法が解けることはない」
「……やめろ」
「外に出れば、お前の匂いに釣られて病人が集まってくるだろうよ。
わざわざ説明に時間を取られなくて済むようにしてやったんだ。感謝してくれ」
「やめてくれ!」
悲鳴じみた叫びが上がりました。
普段冷静で礼儀を重んじている殿下とは思えない声です。
「「国の為だ。
あなたも元は公爵家の令嬢。貴族や王族が民によって支えられ、それ故に民を守らねばならないことは分かるだろう」
……そう言ったよな?
それなら、お前もそれを体現するべきだろう。
なあ、国のために命を捧げようとしたご立派な王太子様」
どうしてそれをご存じなのでしょう。
内心で首をかしげると、以前贈られたアンクレットが足首でしゃらしゃらと揺れました。
そこに込められた主様の魔力が、知らせてくれたのでしょうか。
わたしを抱えた主様が、ゆっくりと歩を進めました。
壁際に追い詰められた殿下が、剣を引き抜いてこちらに向けます。
「寄るな! 神に逆らいし者、穢れた悪魔!」
「そんな物騒なもの振り回したら危ないだろう」
まるで子どもに言い聞かせるような優しい声でした。
特に気にされた様子もなく、歩みが進められます。
金属が床に当たる音と共に、何かが崩れ落ちる音がしました。
振り返れば、殿下が床に座り込んでいました。
光を取り込んだせいか緑色に見える瞳が、怯えた色をたたえて主様を見つめています。
「私は……私はただ、民を救いたくて」
「殿下」
わたしの声に、殿下がこちらに視線を向けました。
今までは見下ろされてばかりだったので、こうして見下ろすのは新鮮です。
「よかったですね。民を救う手段が出来て」
「違う……私は、私はけっして、このようなことを望んだわけでは……」
よく分かりません。
殿下はいつも言っておられました。
民のためなら、ためらいなく身を犠牲にするのが貴族や王族のあり方なのだと。
そして先ほどもおっしゃいました。
わたしが死ぬことで国が救われるのだから、わたしは大人しくそれを受け入れるべきなのだと。
言葉は違いますが、要約すればそういうことです。
ですから、殿下は現在の状況を喜びこそすれ、決して悲しむべきではないと思います。
既に公爵令嬢でないわたしにそれを求めたのですから、現在も王族である殿下がそれを実行するのは当然です。
それなのに何故、嫌がっておられるのでしょう。
先ほどは、死すら受け入れようとしていたのに。
「殿下。
とても見苦しいです」
その言葉に、殿下が大きく目を見開きました。
わたしがまだ公爵令嬢だった頃、よく殿下に言われていた言葉です。
慌てたり、感情を露わにしたり、声を荒げるのは見苦しいこと。
確かにその通りです。
ですから、殿下。
「殿下も落ち着いて冷静に事実を受け入れて、にこやかに病を治しに行くべきではないでしょうか」
わたしの言葉に、主様がくすくすと笑われました。
何か、おかしなことを言ったでしょうか。
「いいや、お前は少しもおかしくないよ。リリー。
その通りだ。
まあ、この男はお前ほど賢くないから仕方ないさ」
主様が指を鳴らすと、殿下の姿が消えてしまいました。
どこへいったのでしょう。
「ここに置いておいてもそのうち匂いに釣られて患者が来るだろうが、それだと大変だろう?
だから、人が大勢集まっている王城前に送っておいた。
病人は労らないとな」
「主様は、優しいですね」
「そう言ってくれるのはお前くらいだよ、リリー。
どうも、他はなかなか言ってくれなくてな」
それはきっと、主様が優しいのは周知の事実だからです。
当然のことを言う機会はなかなかありませんから。
そう言うと、主様は嬉しそうに笑われて、わたしの額に口づけて下さいました。
「ひとまず用は済んだし、そろそろ帰るか。
怪我はある程度治したが、他にもないか確認しないとな」
「お疲れではないのですか?」
「ああ。かわいいお前のためなら疲れなんて感じないさ」
そう言って、主様が微笑みました。
「お前が無事でよかったよ。リリー。
家に帰ってお前がいないと分かった時は、気が気でなかった」
「申し訳ありません」
「何を謝る必要がある。
ペットに何かあったらそれを助けに行くのが飼い主だろう?
なあ、俺のかわいいリリー」
その言葉に、やさしい眼差しに胸が暖かくなりました。
同時に、諦めようとしていた思いがくすぶるのが分かります。
叶わなくても仕方ないと思っていました。
伝えられなくてもいい。傍にいられればしあわせだと。
でも、もう少しだけ……せめて、主様にペット以外の意味でも好きになって頂けるように頑張ってみるのもいいかもしれません。
「主様」
「ああ、怖かったな。よしよし」
強く抱き着くと、主様が笑いながら背を撫でて下さいました。
その手つきにはやはり、一欠片の欲も混ざっていません。
いつか少しでも優しさ以外の感情も混ざってくれればいいなと思いながら、主様に身体を預けて目を瞑りました。
今日もわたしはしあわせです。