つよつよ姉の求婚勝負にもやし文官の同僚が挑んでしまった
「また勝ったそうだよ」
侍従から差し出された紙片から視線をあげて、ウエルハイズ第一王子殿下がニコニコしながら仰った。
「さようでございますか」
第一王子付の侍女である私は手を止めて、ほんのりとした笑みを口元に浮かべて頷く。ちらりと周囲に目を遣れば、同僚の侍女や側近の小さな苦笑が目に入る。何も見なかったことにして、私は書類の分別作業に戻った。
今殿下が勝ったと仰ったのは、常勝無敗との誉れ高い王宮騎士であるメイリア・オブライエンのことだ。私ことジュリア・オブライエンの姉である。
勝ったといってもこの国は現在周辺国との関係は良く、戦争などではない。
『嫁に欲しければ私に勝て』と豪語する姉に群がる求婚者たちを対戦により蹴散らしているのだ。
姉は凄腕の騎士ではあるが、見た目はとても可憐で美しい。マロンブラウンの細く柔らかい髪に若草色の大きな目、野外で訓練しても日焼けしない白くきめの細かい肌。背が高く均整がとれメリハリのきいたボディ。軍服の中が筋肉で詰まっているとはとても思えないがそんなことを知っているのは妹である私だけだ。それに気さくで笑顔がチャーミングで、明るい性格は周囲をも和ませる。
けれどどれだけ見目が麗しかろうと、それだけでメイリアに求婚者が集まるわけではない。
うちは代々続く由緒正しい騎士爵の家系。通常騎士爵は一代限り、子に継がれることはない。オブライエン家は一族に騎士を多く輩出していて、王家の信頼も篤い。オブライエン家に生まれて王宮騎士になれれば、それだけで騎士爵を賜ることができるほどだ。もちろんメイリアも騎士爵を受けている。なのでその夫となれば自動的に准貴族の身分を得ることになる。残念ながら私はメイリアほどの武芸に才能はないが、この王家からの信頼厚い家系のおかげで王宮の侍女として出仕することができた。しかも今年度からは貴族位のない騎士の娘として破格の、第一王子付に異動になった。事情を知らないものが聞けば眉を顰めるであろう大抜擢ではあるが、オブライエン家のものだと名乗れば納得してもらえる。
もちろん侍女などより騎士として出世を目指すならオブライエン家と繋がるのは近道になる。オブライエン家直系長子メイリアの夫となればなおさら。
なのでメイリアには求婚者があとを絶たないことになるのだが、ここにひとつデメリットがある。
顔良し容姿良し性格良しの姉メイリアはオブライエン家の血を濃く継いでいるため、国、ひいては王家への忠誠心がとても強い。騎士の見本といっていい。けれどその強い忠誠心のため、メイリアは中途半端に騎士や騎士爵目当ての求婚者を許さない。姉が望むのは姉と同等以上の国家への忠誠心、オブライエン家の誇り、それから騎士としての強さだ。
メイリアは半端なく強い。私が騎士への道を断念したのは姉が異常に強かったせいもある。
男性がほとんどを占める騎士学園で学年主席を維持したまま卒業し、最年少で王宮騎士になり騎士爵を受勲、五年経った今では中隊長に出世している。オブライエンの家名など関係なくメイリアは騎士としてとても優れているのだ。
そのメイリアを射止めるためには、メイリアに勝たなくてはならない。
そこらへんのへなちょこ貴族の次男三男が、准貴族位狙いで挑んだところで勝てるわけもない。オブライエン家の家名目当ての下位騎士も歯牙にもかけられなかった。これにより求婚者はメイリア・オブライエンその人を欲する男性に自動的に限られた。けれど未だ実力者だらけの未婚の騎士たちの誰も、メイリアに勝つことができていない。いつの間にかメイリアの前には求婚者だけでなく腕試しの挑戦者まで現れるようになってしまったが、無敗記録を伸ばし続けている。
というわけでその妹の私は、年齢序列的に姉が片付くまで縁談をまとめることができず、侍女として順調に出世しながら嫁き遅れへのカウントダウンがはじまっている。先ほどの周囲の苦笑はそのせいだ。
騎士爵の娘なので特に社交界に出るわけでもなく、仕事も楽しいし環境にも恵まれているし、偶に姉に負かされた男性やその家族や幼馴染や親友や婚約者などが言いがかりをつけに来たりはするが、基本はメイリア自身で対処しているし、なにかと親戚が多く在籍する騎士団や、官僚たちも気にかけてくれている。私が第一王子付になったのもそこらへんを考慮していただいたからだ。とてもありがたい。
今更自分の縁談についてはあってもいいかな、くらいの考えだ。別に生涯侍女でも構わない。王家にも覚えめでたいオブライエンの名はいずれメイリアが何とか継いでくれると思う。……多分、いつか。
ちなみに昇爵の話は何度も常にあった。父もその兄弟姉妹も祖父の代も、爵位が高くなければつけない騎士団の役職への打診とともにすすめられてはいたのだが、オブライエン家の返答はいつも『世襲とすることで自己研鑽を怠ることがあってはならない』だ。常に自分の地位は自分の力で勝ち取るのだ。
私みたいに武芸に向いていないものは自分で身を立てるか縁談を探すしかない。家名のための政略結婚はありえないし、家名を利用させることもあってはならない。その教えは幼いころから叩き込まれているので、私に異論はない。でもその選択肢も姉メイリアの進退が決まらないことには進まない。降り注ぐメイリアへの縁談が私の立場にも少々影響してしまうのだ。
被弾した言いがかり、嫌がらせのうちの数件は、今だから笑って話すことができるものの、当時は騎士団総出での捕り物になったり、王家しか知りえない一族を巻き込んで今も口外無用となっているものもある。たかが騎士爵、けれどその歴史は王家ほども古いのだ。
かすかな衣擦れの音に顔を上げれば、殿下が椅子にかけながら少し姿勢を変えたようだ。時計を確認すると少し早いが、お茶の支度をしたほうが良いだろう。手元の書類を軽くまとめて席を立つ。執務室に備えられた簡易なキッチンに向かうと、殿下の側近のディセが後をついてきた。今日のお茶菓子はディセが買ってきたものだ。今人気のパティスリーの、見た目も華やかな焼き菓子のはず。おすすめのお茶でも聞いてきたのだろうか。
彼の家も我が家と同じく古い文官の家系で、王宮内での発言力のために伯爵位をいただいている。力がすべての騎士団とは違い、文官はいくら歴史と知識の積み重ねがあっても地位も必要だ。足元をすくわれるネタは少ないほうが良いだろう。相手が脳筋ばかりとは限らないのだ。私も過去のごたごたの時には何度かディセの知略にお世話になったものだ。
「ジュリア、……その」
紅茶用のカップを温めるのを手伝ってくれながら、ディセはいつもの快活な口調ではなく、少し俯きがちに口ごもっている。
具合でも悪いのだろうか。
お茶の支度の手伝いなんかより、休んだほうが良いのでは。
普段と全く違う様子に心配になるが、ディセは意を決したようにぐっと顔を上げ、眉を寄せながら私に囁いた。
「メイリア嬢の今回の勝利を聞いて、とてもほっとしているんだ」
「今回こそは負けるかもしれないって言われていたものね」
今回の挑戦者は、腕試しではなく、久しぶりの求婚者だった。留学帰りの子爵令息で、騎士になってまだ日が浅い。でも実力はメイリアと互角ではないかと言われていた。年回りも良く、艶やかな黒髪のイケメンだという噂。侍女の私は騎士団に滅多に用もないので、子爵令息の姿を見たことはない。
「それで、なんだが」
相変わらず歯切れが悪い。何か悪いものでも食べたか、お茶菓子選びに失敗でもしたのだろうか。
「……メイリア嬢の次の勝負に、立候補した」
「は?」
私の微妙に大きくなった声と、ティーカップを取り落とした食器の当たる音が同時に響いた。静かな執務室にはじゅうぶんな音量だったので、ディセは慌てて片手でカップを受け止めて、もう片手で私の口をおさえた。温めていたカップはお湯を切ったばかりで、無造作につかんだ手は熱かったのだろう、再び落ちそうになったカップを私から手を離して両手でそっと持ち直した。ディセも文官の端くれ、この第一王子執務室にあるティーカップの価値は知っている。てのひらの軽い火傷よりカップは優先されるべきものだ。
「死にたいの?」
あわあわしながらティーカップをワゴンに置いているディセの肩越しに、殿下がこちらを向いているのが目に入った。公務中の殿下の邪魔をしてはいけない。私はひそひそ声でディセを問いただした。
「そんなわけない」
ディセも声を潜めながら、首を振る。あの姉に、剣術なんか学園の必修学科以外でやったこともないはずの素人が勝負を挑むなんて、暴走する馬車の前に生まれたての子ネズミを置くようなものだ。運が良くて蹴り飛ばされて、悪ければ踏みつぶされる。自殺行為以外のなんだというのか。
「でも、黙って見ていても絶対に手に入らない。目の前で奪われるのを見ているだけしかできないのは、嫌だと思ったんだ」
そう言い切ったディセの顔は真っ赤で、セルリアンブルーの瞳は夢見るように潤んでいる。声がこころなしか震えているのは、勝負への緊張なのか、他の理由なのかわからない。
初めて見たディセのそんな顔を目の前にして、私は胸の前で手を組んだ。
ひどく胸が痛くて苦しくて、声が出ない。
急激な体調の変化は風邪でもひいたのかもしれない。ディセに感染させてはいけないので、離れてもらったほうがいい。
「ディセ、あの、私」
絞るようにして声を出してみると私の声も震えていた。気持ちが悪い。
武家に育った私は基本健康優良児で、普段は風邪一つひかない。なので体調不良には滅法弱いのだ。怪我みたいな原因がわかっているものは痛みを我慢すればいいけれど、なんだかわからない急な胸痛や立ち眩みなどは経験していないので恐怖感がある。
「ジュリア、ずいぶん顔色が悪いけれど、どうした?」
気が付くと殿下が目の前まで来ていた。
どうしたと聞かれても自分にもこの体調の変化がわからない。うつるものだったらここにいてはいけない。もしも殿下に感染させてしまったら一大事だ。
ゆるく首を振ると、ディセが私の肩をぎゅっと掴んだ。ひょろひょろの文官のくせに、やけに力強い手の感触に妙に安心した。
「本当に真っ青だ。きみは──」
「ディセ、ジュリアを医務室へ。このまま今日は帰ってもらって構わないから」
普段の私の有り余る健康っぷりを知っている殿下とディセもびっくりしたようだ。私は慌てて姿勢を正して、そっとディセの手から身体を離した。
「大丈夫です。でも少しだけ具合が悪いかもしれません。うつる病でしたらいけませんので、今日は失礼してもよろしいでしょうか」
ディセの付き添いはいらない。風邪をうつしてはいけない。
せめて医務室まで送るというディセを固辞して、一人で医務室に向かったが、数分歩いただけで胸の痛みも気持ちが悪いのもよくなっていた。
念のためと医務室で医師の診察を受け、異常なしとの診断をもらったが、許可も出ているし、今更執務室に戻るのも気まずいので、そのまま帰宅することにした。
医師を疑うわけではないが、何かの大病の前触れだったらと思うと少し怖い。普段健康な分、私にとって病はとても恐ろしいのだ。
ディセの用意したお菓子を食べ損ねたことに気が付いたのは、自室で部屋着に着替えたあとだった。人気店のお菓子のはずだったのに、とても惜しいことをしてしまった。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
「ハウイエル伯爵子息に勝負を申し込まれたわ」
メイリアお姉さまが茹でた鶏肉を細かく千切りながら言うのは、ディセのことだ。
私はまたなんだか胸が痛くて苦しくなった。もしかして不治の病かもしれない。直接私に言うにはショックな内容だから、医師が気を使って知らせていないだけなのかも。
「ジュリア?」
お姉さまが手を止めて私を見る。とても驚いた顔をしているのにやっぱり美人。
夕食後のお茶の時間、両親は武人らしく早寝早起きで既に寝室に引き上げている。私はお茶に小さな焼き菓子、お姉さまはお茶菓子のかわりにいつもの茹でたササミを裂いている。こだわりがあるらしく、茹でるところから口に入れやすいサイズに裂くところまで、全部自分でやっている。これはメイドや料理人の仕事ではないそうだ。
肉を裂いていた手を拭って、お姉さまが私の隣に座る。両手で顔を包まれた。
「どうしたの。ひどい顔色よ」
姉も私と同じく元気すぎて病に抵抗力がない。心配する姉の顔色も悪くなってくる。
あまりの心細さに涙がこぼれそうになった。
「わからないの。胸の病気かも」
「胸? 痛いの? 苦しいの?」
「痛くて苦しい。どうしよう。お姉さま」
「待って。お医者様を呼んでくるわ」
「いいの。お医者様は」
王宮で診てもらったときはすぐに良くなったし、重い病なら私には告げられない可能性もある。少し様子を見たいと言えばお姉さまは渋々ながら頷いて、とにかくまずはお茶を飲みなさいと促してきた。あたたかいお茶はほどよく甘く心地よくて、不安な気持ちを溶かしてくれた。
「ねえ、ジュリアはイレイヴ子爵子息と会ったことはある?」
少し落ち着いた様子の私を見て安心したのか、お姉さまは席を立って、いつものようにトレーニングの準備をし始めた。
私は首を振る。イレイヴ子爵子息は今日お姉さまと勝負した方のはず。私は面識がない。
「とても強い方で、最初にわたしのことを見くびっていなければ負けていたかもしれないわ」
「お姉さまが負けるなんて」
「それくらい強かったのよ。それにとても誠実な剣で、きりっとした美丈夫でもあったわ。負けても良いかと思ったのははじめてよ」
親指だけで身体を支えて腕立て伏せをしているお姉さまが、強いと褒める子爵令息に少し興味が湧いたが、深く考えないことにした。
「今までジュリアの意見も聞かずに勝負してきたけれど、今後は聞いたほうが良いのかしら」
「私はお姉さまが選んだ方に不満はないです」
「じゃあ、次のハウイエル伯爵令息に、わたしは勝っても良いの?」
「……お姉さまが、負けることなんて万に一つもないじゃないですか」
相手は騎士ではなく、王子付の文官だ。たとえお姉さまが両足を骨折していたとしても、椅子に座ったままで勝ってしまうだろう。
「わたしが負けたら、ジュリアは花嫁になれるのよ?」
「そんなことのために、お姉さまの騎士道を曲げて欲しくはありません」
どんな戦いにも相手を敬い、手を抜くことはしない。メイリアお姉さまの騎士道でもあり、我がオブライエン家の誇りでもある。それに勝るものなんてない。
それに、ディセはお姉さまに求婚したのだ。何かの奇跡が起こってお姉さまが負けたとしても、私がディセの花嫁になれることはない。
そうだ、私はディセの花嫁になれないのだ。
思いが至ると胸の痛みがぶり返してきた。
これは病ではない。多分、初めての、恋の、失恋の痛みだ。だってディセのことを考えた時だけ、こんなに胸が痛くなる。物語で読んだことがある。本当に、こんなに胸が痛くて苦しくなるなんて。
私はディセに恋をしていたのだ。
お姉さまが勝てばディセの恋は実らず、まだ僅かながらにでも私にチャンスは残るだろう。でも、ディセは傷つく。折角勇気を出してお姉さまに勝負を挑んだのに。馬車の前の子ネズミみたいに、無力を思い知らされる。そんなディセを私は見たくない。それに私だってオブライエンの娘。わずかなチャンスが零れ落ちてくるのを待っているようなあさましい真似はしたくない。
ぽろぽろと涙をこぼしはじめた私に、お姉さまが腕立て伏せを中断して飛んできてくれる。
「ジュリア? 辛い? 痛いの? 何かしてほしいことはある?」
「お姉さま」
どうして、ディセは勝負なんか挑んだのだろう。
ディセが勝っても負けても私はずっと辛いのだ。胸が痛いまま。やっぱりこれは不治の病だったのだ。
「大丈夫、大丈夫よジュリア。あなたを無理にお嫁になんていかせないから。わたしが全部勝って、守ってあげるから」
お姉さまが優しく髪を撫でてくれるけれど、涙が止まらない。
勝って欲しいのか、負けて欲しいのか、それすらもわからなくて、私は小さなこどもみたいにお姉さまの胸にすがって泣いた。
泣きはらした赤い目はお姉さまが冷やしたタオルと温めたタオルを交互に目元に当ててくれて、朝には元通りの私に戻っていた。夕べは遅くなったはずなのに両親とお姉さまはもう王宮に出ている。騎士団の朝は早いのだ。
今日、ディセがお姉さまに負けることを考えると食欲は湧かなかったが、いつものようにもりもり食べないとメイドも料理人も心配させてしまうので、頑張って朝食を食べた。我が家の使用人も私たちが寝込んだ姿など見たことがないはずだ。食欲がないなどと言えばあっという間に騎士団に連絡され、医師が呼ばれるだろう。
昨日のこともあるので、少し早めに出仕に出ることにする。
机の上に出しっぱなしだった書類は誰かが抽斗に仕舞ってくれていたようだ。
「ジュリア、具合はどう?」
私に優しく微笑みかけるディセを見ると、胸が苦しくなって、張り切って朝食を食べ過ぎたと反省する。全部食べ切らなくても良かったのかも。
「おかげさまで、寝たら元気になったわ」
「良かった。あとで医師に聞きに行ったら大丈夫だと言われたけど、昨日は本当に心配だったよ」
安堵した様子のディセもまた、私が伏せる姿なんて想像もつかないのだろう。私自身も想像できない。
少し遅れて入室してきた第一王子殿下にも昨日の謝罪をし、体調を聞かれて安堵された。
逆に私よりディセのほうが元気がない気がする。今日はメイリアお姉さまとの勝負があるから、体調を万全に整えておかなければならないのに。
「今日はもうすぐディセの勝負があるから、一緒に応援に行こう」
「遠慮いたします」
絶対に見たくないので即行で返事をしてしまったが、殿下相手に大変不敬だと思った時にはもう言葉は口から飛び出したあとだった。
「ジュリア?」
「申し訳ありません殿下。でも私は同僚のディセが姉にボコボコにされるところを見たくないのです」
「どうして負けると決めつけるんだい?」
「勝てるはずがありません」
「ジュリア、メイリア嬢には弱点がある。ディセに勝機がない訳じゃない」
「姉は完璧です。弱点など」
「その勝機の鍵はきみが握っている。ディセの勝つところを見たくない?」
信じられないことを殿下は言うが、王族ならではの圧が信じられないとは言わせてくれない。
もし、もしも。
ディセが勝てば、お姉さまを手に入れる。
お姉さまの負けるところは見たくない。それにわたしの失恋も確定してしまう。
私の失恋なんて、ディセがお姉さまに勝負を挑んだ時点で確定していたのだ。ディセが負けて味わうだろう絶望に比べたら、羽みたいに軽い。だって私は自分の気持ちに向き合ってもいなかった。ディセみたいに無敵の姉に立ち向かう勇気も出していないのだから。
深く息をついた。
乾いたはずの涙が出そうになるのを、おなかに力を入れて耐える。朝ごはんをたくさん食べてきてよかった。私はまだ、頑張れる。
「見たいです。ディセの勝つところを」
「だ、そうだよ。ディセ。頑張らないとね」
殿下がディセに声をかけると、ディセは弾かれたように顔を上げた。その顔には蕩けるような笑みが浮かんでいる。こんな顔をされたら、応援せずにいられるわけがない。
「きみのために頑張るよ。ジュリア」
真っ赤な顔で私に囁くディセ。わたしがお姉さまの後でないと、婚活ができないことも気にしてくれていたのね。ありがたいけれど、暫くはそんな気持ちになれないと思う。
「挑戦者の権利として、勝負の方法はこちらに任せると同意してくれていたはずだよ」
「騎士に二言はありません。しかしこれは」
広い訓練場の真ん中に置かれているのは机が二つに椅子が二つ。机の上には白い筒のようなものがそれぞれ乗っている。
あの筒で殴り合うには、机の距離が離れすぎている。伸ばすのか、飛ばすのか。
明らかに動揺しているメイリアお姉さま。私もこんな勝負は見たことがない。
「勝敗は暗算で決める。机の上の紙には計算式が書いてある。制限時間内に正解数の多い方が勝ち。わかりやすいだろう?」
「暗算……だと……?」
腕っぷし勝負じゃないとは。あの筒は計算問題が書かれた巻物らしい。
お姉さまと同様、私もびっくりして思わずふらついてしまう。傍に立っていたディセが肩を支えてくれた。
殿下はにっこりととてもきれいな笑みを浮かべた。悪いことを考えているときの笑みだ。
「王宮騎士たるもの、兵士の数も数えられないと困るからね。問題は私が昨日夜なべして作った。どちらも同じものだが公正を期すため席はメイリア嬢に選んでもらおう」
今まで殿下がお姉さまの勝負に関わってきたことはないけれど、ディセは殿下直属の側近だから、面子もあって負けない方法を考えたのだろうか。
殿下もこんなこすい手を使ってまで、お姉さまのお嫁入を望んでいるのだと暗に示されて、私の気持ちが更に落ちていく。もう応援なんてしなくても、ディセの勝利は確定したも同じではないか。殿下が味方についているのだ。
完全無欠のメイリアお姉さまの唯一の弱点を、殿下はご存じだったのだ。
幼年期から教育を武技に全振りしたお姉さまは座学になると……。
騎士に二言はないとの言葉通り、黙って背筋を伸ばし、席に着いたお姉さまは、殿下の開始の合図からまばたき三つの間に、熟睡した。
巻物を開くことすらなかった。
隣の席ではディセがゴリゴリと問題を解いている。ちらっと見た限り初級の算術レベルのようで、居眠りさえしなければお姉さまにも解けるはずのもの。
「殿下、この勝負は……」
「ジュリアがディセの勝つところを見たいと言ったから、絶対に勝てる勝負にした。でなければいつも通り剣術勝負で、今頃はディセは救護室か病院だったね」
「私のせいですか」
殿下の残酷な言葉に私は俯くしかない。
自分で自分の失恋の背中を押したのだ。失恋しても、ディセを応援したかった。
「違うよジュリア。きみのせいではなく、きみのためだ」
時計を見ながら殿下は不思議なことを言い、少ししてから『止め』と合図をかけた。眠っていたお姉さまの目がぱちりと開いた。それから頭を抱えて机に突っ伏した。もうひと眠りでもするつもりなのか。
審判役がディセの回答を数問確認して、頷く。ディセは飛び上がるようにして立ち上がり、殿下に駆け寄ると両手で固い握手を交わして、くるりと向き直ると一呼吸して膝をついた。
私に向かって。
「ジュリア・オブライエン嬢。この勝利をきみに捧げる。俺の花嫁になってほしい」
え、私?
見上げてくるディセは見たこともないくらい凛々しい表情で。
その背後からお姉さまの呪詛に似た呻き声も聞こえてきて。
「あんな文官モヤシごときにわたしの可愛いジュリアを……! 今度は正真正銘剣で叩き伏せるしか……」
物騒な声が聞こえないようにと、殿下が後ろから両手で私の耳を塞いで、そのまま頭を縦に振らせた。
殿下に抑えられた頭より胸のほうがきゅうっと痛くて、恋だと自覚していなかったら重篤な病気かと思ったかもしれない。でももしかして恋そのものが重い病なのかもしれない。
お姉さまには既に婚約者がいたことを知ったのはその日の午後。
お姉さまがなぎ倒していたのは私への求婚者だったことを知ったのもその日の午後。
そして、王宮内でそのことを知らなかったのは私一人だったということを教えられたのも同時だった。
はじめはお姉さまへの求婚を賭けての勝負だったのが、割と早いうちにお姉さまは騎士団長に求婚されて負けていたらしい。
第一王子殿下はお姉さまが負けたことだけ私に教えてくれなかったので、私はお姉さまがまだ無敗だと信じこんでいたのだ。騎士団長と一緒にいるお姉さまはよく見かけていたけれど、お仕事上のことだと思い込んでいた。私一生の不覚。
先日お姉さまと対戦した子爵令息があまりにもよくできたイケメンだったもので、危うくお姉さまが負けそうになったのを見て慌てたディセは対戦を申し込み、ディセの気持ちを知っていた殿下がディセが勝つよう勝負を仕込んでくれた。ディセは私に求婚したと知らないとは思っていなかったらしく、求婚戦の申込の話を聞いた私の様子がおかしくなったことに嫌われているのかと落ち込んだそうだけれど、私が帰ったあとに殿下に私一人が知らないと聞いて、絶対に勝ちに行くための作戦を練ったそうだ。
「どうして私にだけ教えてくださらなかったのですか」
殿下に抗議すると、面白そうだったから、と一言で返されて、私は権力の壁にやりかえすこともできず沈黙するしかなかった。悔しいのでしばらく殿下にお出しするお茶は二番目にお好きなものにする。一番お好きなヤグルマギクとスパイスを混ぜたお茶は封印しよう。
私より先に知ったディセが、私に何も教えてくれなかったことにも怒ってみたものの、私が早く帰ってしまった日に食べ損ねたお菓子を取っておいてくれたから許すことにした。あそこのお菓子は並ばないと食べられないので。日持ちするお菓子だったので、それはそれでおいしくいただいた。
ディセはディセで勢いでお姉さま経由で求婚してみたものの、私の反応がイマイチだったことで自信をなくしかけていたらしい。知らなかったのでそこは許してほしい。というか私が被害者だから。
いつものようにディセがお茶の支度を手伝ってくれる。
それまで気づいてもいなかった近い距離に、胸の鼓動が大きく早くなる。恋とは厄介なもので、自覚しても体調に不具合が出る。
勇気を出してお姉さまに挑んでくれたディセに応えるために、私もお姉さまと一戦交えてみようと計画していることはまだ内緒。
お姉さまほどの騎士にはなれないけれど、私だって騎士の家系の娘、多少の心得はある。騎士向きではなかっただけで。
我が家の脳筋は私にも確実に遺伝しているな、とこんな時に実感する。
けじめは大切だ。
ディセにだけ払わせては私が対等に立つことができない。
それにいまだに文官ごときと恨めしそうにしているお姉さまを黙らせるには、私が武力で制圧するしかないだろう。
「それでは、得物の制限なし、時間無制限、怪我、急所の打突、目潰しは禁止、勝敗はどちらかが気絶か参ったと言うまで」
ニコニコと楽しそうな第一王子殿下の宣言のもと、私とメイリアお姉さまが向かい合って立つ訓練場には、騎士団長を含む数人だけ。この勝負は非公開で非公式のものなので。
お姉さまがすらりと真剣を抜き放つ。いつもの訓練用の木剣ではお互いやる気が出ない。大丈夫、寸止めはお互い慣れている。怪我なんかさせない。
「こうして向き合うのは久しぶりね、ジュリア」
「お相手いただいてありがとうございます。お姉さま」
恋を知った私の力、お姉さまにも見ていただきましょう。
私はドレスのウエストリボンの隙間に忍ばせている暗器に指を添わせた。
ディセはまだ知らない。公務中の私が全身に暗器をまとっていること。騎士向きではない私は暗殺向きの才があるので、護衛も兼ねて殿下の側に上がっていること。
知られたら嫌われるかもしれないから、これはずっと内緒のまま。殿下にも口止めしてある。まあ、殿下は面白がって隠しているだけだけれど。
「はじめ!」
殿下の声が厳かに耳を打つと同時に、私とお姉さまは地面を蹴った。