拝啓、普通が嫌いな僕達へ【リメイク版】
当時も今も、この作品が私の全身全霊をかけた小説です。
憂鬱な月曜の朝。ほとんどの人間はこの時間と格闘して、見事に勝利を収めなければならない。
「さっき見た時は四時だったのに、もう七時か……」
目覚まし時計を見て、ため息を吐く。
二度寝は気持ちいいが、あっという間に時間が過ぎてしまうのが問題だ。あと三時間も寝れると思って眠りについたのに、体感的には三十分も寝た気になれなかった。
寒さに耐えながら布団を出て、洗面所へと向かう。
鏡を見ると、そこにはいつもと変わらない、つまらなさそうな顔をしている自分がいた。いや、寒さも相まってかいつもより酷い顔をしている気がする。
どうにかして普通の人らしく、生き生きした表情にならないかとニッコリ笑顔を作ってみるが、これが意外と難しい。普段使っていない表情筋を使っているから、頬がピクピクする。
少しして、頬がピクピクしないベストポジションを見つけた。頑張ってキープしてみたものの、その出来栄えはゾンビが笑ったみたいで最悪だった。子どもが見たら、トラウマになるんじゃないかってレベル。
これは手がつけられない、どうしたものか……と、顎に手を添えて考える。数秒唸っていると、妙案を思いついた。
鏡を母だと思えばいいのだ。
一度、頬をほぐす。それから深呼吸して、僕は“母”に笑いかけた。
すると、そこには先程のゾンビとはかけ離れた、優しく笑う普通の男子高校生の姿があった。
◇
さて。寝坊もせず七時に起きたとは言え、人間の朝というものは忙しいもので。
いい笑顔が出来て満足した僕は、習慣となった動きをいつも通りの時間を使って進める。
人間は、変わらないものに安心感を持つ生き物だ。習慣、思考、環境、常識……ありとあらゆる事柄で共通の認識を確認し合って“普通”に生き、それを他人に強要して生きている。
学校の規則とか分かりやすいかな。きちんとした理由もない規則に縛られ、“普通”なら守る。“普通”、生徒ならこの規則は守らなければならない。とか。
もっと言えば、葬式で大笑いしないとか、結婚式で腹踊りしちゃいけないとかかな。
少しデリケートな部分に触れておくと性別とか。最近理解されてきてるようだけど、それでもまだ多くの人が普通、性別は男か女の二択だと思っている。
ある一定のマナーは除いて、それ以外の暗黙の了解だったり規則だったりは、僕らを“普通”に縛り付けるためのものに過ぎない。
小学生の頃から教わる“みんな違ってみんないい”なんて言葉は、奇麗事でしかないんだ。
そんな事を考えているうちに、支度が終わった。習慣となった動きは無意識でも出来る。僕にとっては嬉しい限りだ。
さて、支度も終わったことだし、これ以上考えるのはやめよう。一日が更に憂鬱になるだけだ。何も考えず、ただ普通に生きればいい。
僕は行ってきますと母に言ってから、いつも通りの時間に家を出た。
◇
今日は体育と日本史の小テストが山場だな。
電車に揺られながら、ぼんやりとそんなことを考える。“体育”と“テスト”という単語だけでお腹いっぱいだ。……学校休もうかな。
体育は特に苦手だ。運動神経が平均以下で、まず、ボールすらまともに受け取れない。
え、普通に生きてないって? 君らの思う普通は、学校の中でも陽気な人間の普通だ。僕の言う普通は、陰気な人間の普通だよ。
だから、体育の成績が最下位付近でも何か言われたりはしない。“まあ、陰気な奴はそれが普通だよな”って納得されているから。陰気な僕には、有り難い免罪符だ。
あ、因みに言っておくと、勉強に関しては平均くらいだ。人並みに勉強して、平均的な成績を残していっている。
話を戻すが、今日は体育と日本史の小テストが山場なのだ。
さて、どうやって乗り切ろうか……と考えてみるが、勿論というか案の定というか、当然これといった策はない。何を考えたって、結局は体育は無心で参加するしかないし、小テストはそれまでに勉強するまでだ。
ため息を一つ落とす。
人間が、どうしようも無いことをどう乗り切るか無駄に考えるのは、もうやるしかないと諦めるためにあるのだと、僕は思う。仮病を使って学校を休もうとしたり、その時間だけ保健室に行こうとしたり……他にもいくつか案はあるものの、実際に行動することは出来ない。なぜなら、それは自分の中では非日常であって、普通ではないから。
だから、僕もこうして諦めたのだ。
ん? ……待てよ。
ふと、ある事を思い出す。どうやら僕は大事なことを忘れていたらしい。どうしてこんな一大イベントを忘れていたのだろう。忘れていたのなら、せめてその時が来るまで思い出さなくてよかったのに。
身体がすーっと冷えていくのを感じる。
「今日、演説するんだった……」
最悪だ。と呟き、顔を覆う。
演説の内容は、英語で最近のニュースについての意見を述べるというもので、まさに今日がその演説の日なのだ。
一応、準備期間はあったので準備自体は出来ている。だが、違う。そういう問題ではないんだ。みんなの前で発表するという行為そのものが苦手で、僕が最も問題視しなければならないことだ。
学校休もうかな、と再度考える。が、当然、普通の高校生代表のような僕には途中で電車を降りることも、学校をサボってどこかで遊ぶ勇気もなく、学校への道を真っ直ぐとぼとぼと歩くこととなった。
この時、家に帰っていればこんな異常な光景を目の当たりにすることは無かったんだろうな、と少し、いやかなり後悔してる。
「藤咲……お前、何をしてるんだ……?」
さっきまで淡々と数学の授業をしていた先生が、この異様な光景に耐えられなくなったのか、遂に指摘の言葉を発する。
僕含め、クラスメイト全員も随分前から気にしていたからか、先生の言葉に便乗して、一斉にある一点を見つめた。
「何って……授業聞いてるだけですよ? まあ、ついでに机に座ってリコーダーも吹いてますけど」
きょとんとして目を丸くした後、藤咲と呼ばれた女子生徒は言った。
何でもないような顔のまま、ソの音でリコーダーを一度吹く。
「あのなぁ……」
そこまで言うと、先生は一旦言葉を切り、呆れたように左手を額に当てて首を振った。おそらく、ここまでくるとどこからツッコめばいいのか分からないのだろう。
それでも先生は、自分の役割を果たすべく口を開いた。
「そんな授業の聞き方、普通に考えてダメだろ? 今までどうやって学校生活を送ってたんだ……」
確かに。
こんなに目立つ人なら、今までにも似たような騒ぎは何度もあったはず。それなのに、藤咲を見たのは今日が初めてだ。“藤咲”という苗字も聞いたことがない。
何故だろう? と一瞬疑問に思うが、その答えは簡単だった。僕の推測になるが、おそらく藤咲が今まで学校に来ていなかっただけなのだろう。
暫く学校に来ていなかったせいで、自由な感覚が残っていたのだろうか。なら、きっとこれから何度か指導されていくにつれて治るに違いない。だって、それが当たり前で、普通なのだから。
初めて注意されたのなら苛立ちを表に出すかな? 暴れだしたりして。
普段は見ることの出来ない非日常をほんの少し夢見ながら、藤咲を見る。そして、それは周りのクラスメイトもそうなのだろう。彼女の名字が、あちこちからヒソヒソと聞こえてくる。
藤咲は、先生の発言を聞いてピタッと動きを止めた。それから、先生の発言が引っかかったのか、はたまた気に入らなかったのか、俯いて「普通……?」と呟いた。
藤咲の声で、ざわついていた教室が静まり返った。彼女への意見や予想などをあれやこれや言っていた女子生徒らも、話を止めて彼女に注目している。
不思議なもので、藤咲の作り出す沈黙に誰も声を出せなかった。張り詰めた空気が漂っていて、なぜだかそれに逆らうことができない。
沈黙と教室中の注目を得た藤咲は、僅かに肩を揺らした。どうしたのだろうと不思議に思っていると、肩の揺れは彼女の口から漏れた笑い声と共にどんどん大きくなっていき、彼女はまるで身体の内側から湧き上がる興奮を抑えるように再び顔を上げ__
「__ウケる」
先程聞いた時よりずっと低い声で、そう言い放った。
思わず息が止まる。女子生徒の“ウケる”とはもっと高い声で会話を盛り上げるための相槌ではなかったのか。
藤咲は左手に持ったリコーダーを少しの間見つめてから、ニチャァ……と音が出そうなほど汚い笑顔を浮かべる。それから、躊躇なく窓に向かってそのリコーダーを投げつけた。
女子生徒らの短い悲鳴が聞こえ、窓が砕け散る衝撃に備えようとクラスメイト全員が身構える。
……が、幸いにも窓は開いていた。
リコーダーはグラウンド目掛けて宙を舞い、物理法則に逆らうことなく淡々と地面に落ちていく。
冷静に考えれば、学校の窓ガラスは三~五倍の衝撃強度を持った強化ガラスだ。仮にリコーダーが投げつけられたとしても、窓が割れるとは考えにくいし、砕け散るなんて以ての外だった。
それなのに“絶対に窓が割れる”とクラスメイト全員に確信させるほど藤咲の迫力と殺気は本物で、彼女の行動に唖然とし、立ち尽くしていた先生は無力でしかなかった。
藤咲は、慌てて窓の外を確認している先生や教室の困惑した様子など全く気にかけない様子で、ふぅ。と呑気に息を吐き、鋭く刺すように何かを睨みつけた。
何を睨みつけているのか僕にはさっぱり分からないが、目先にいる先生ではないことは確かで、もっと遠くにある大きな何かを睨みつけているような気がした。
「どういうつもりだ。藤咲」
数秒してから、ピンと張り詰めた空気が壊れてしまわないよう、藤咲に向き合って慎重に問いかける先生。この空気感を壊せば、何をするか分からない。そう考えて先生は声を荒げないのだろう。賢明な判断だと思う。
だが、そんな先生の問いかけに藤咲は答えず、必然的に沈黙が続いた。
誰かが固唾を呑む音が聞こえる。僕も含め、教室全体がこの静寂に緊張していた。
その緊張は言うまでもなく藤咲が原因で、今先生と対峙している彼女が一番緊張感を纏っているからだ。誰も彼女の放つ緊張感に逆らえない。それは先生も例外ではな__
「あははははははは!!」
僕の思考を塗り潰すかのように笑い声が響き渡る。
この時、藤咲が纏っていたと思われていた緊張感は、彼女自身の大笑いによって裏切られてしまった。
堰を切ったように笑い続ける彼女に、戸惑いながらも制止しようとする先生の声は教室に認めらない。教室は、彼女の狂気に満ちた笑い声のみだけを讃え続ける。
その時、僕は悟った。
僕達を蝕んでいる、この強くて抗うことの出来ないような緊張感は、決して彼女の纏っていた緊張感に影響されてのものではないのだと。
平然と普通では受け入れられないような奇行をしたかと思えば、普通なら抱くこともないであろう殺気を放ってみたり、その殺気で生まれた緊張感をも裏切って大笑いするそれは、まさに狂人以外の何者でもない。
そう、僕達は教室に突然姿を現した狂人に対して、本能的に恐怖を覚えて警戒し、緊張しているんだ。
「あはははは____」
恐怖と緊張で染まりきったこの空間を嘲るかのように、藤咲は笑い続けた。
◇
結局、あの異様な空気はチャイムの音によって救われた。それから、騒ぎを聞きつけた先生らが数人教室に来て、藤咲は生徒指導室に連れて行かれた。彼女が大人しく教室を出てくれたのが、不幸中の幸いだった。
「ねえ、さっきのやばくない?」
彼女が居なくなった途端に、さっきの出来事についての話をみんなが口々にし始める。内容はどれも同じようなもので、彼女の異常性を誰もが指摘し、批判していた。まあ、それが普通の反応だよな。クラスメイトの会話を盗み聞きしながら、一人頷く。
胸に手を当ててみると、まだ心臓はいつもより大きく拍動してはいるものの、恐怖心や緊張感はかなり和らいでいた。そして、それはみんなも同じだったのだろう。藤咲について話すことで、先ほどの光景を“異常”だと再認識して、この出来事をつまらない日常の思い出の一ページにしようとしていた。そのためか、教室は徐々にいつもの穏やかな雰囲気を取り戻していった。
十分休みが残り三分で終わろうとしていた時、藤咲は戻ってきた。
その事実は僕にとっても他のクラスメイト達にとっても予想外なもので、全員が一斉に彼女に注目する。排除されたと思っていた“異常”が、帰ってきたのだ。当然、誰も喋ろうとはしない。
というより、あれだけの行動をしたのに、たった七分で指導が終わったのか? 普通は、どんなに上手く言い訳してもそんなに早くは解放してもらえないだろう。集まった先生の人数と、事の重大さから察するに、複数人の先生に指導されたはず。それなのに、一体どうやって……。
一方、藤咲はというと、先程と同様に周りの視線を一切気にする様子もなく、自分の席に座った。
……いや、座ろうとしていた。
藤咲が座る直前、僕は不運にも彼女と目を合わせてしまった。本能が一刻も早く目を逸らせと警鐘を鳴らす。だが、僕は彼女の瞳に囚われて硬直のみを続け、その結果、数秒間見つめ合うことになった。
__あぁ、終わった。
僕を見つめたまま絵に描いたようにニッコリと笑う彼女を見て、僕はひそかにそう思った。
◇
「あ、やっぱりここにいた」
昼休み、屋上で弁当を食べているところに藤咲が現れた。彼女はなにやら上機嫌そうに笑顔を浮かべているが、僕の気分はたった今どん底に陥った。最悪だ。
やっぱり目をつけられてしまったのか……と、思わずため息が漏れた。藤咲は、そんな僕の様子なんかお構いなしで、「ぼっちのお弁当タイムは、やっぱりトイレか屋上が普通だよね」と、笑顔のまま言った。
彼女の“普通”という言葉が、妙に嫌味っぽく聞こえた。大体、今日初めて話す相手に普通は“ぼっち”とか言うか? 彼女は他人に配慮して喋ることが出来ないのだろうか。
僕は、少し苛立ちを覚えながら「何か用?」と尋ねる。勿論、用がないなら早く僕の前から姿を消してくれ。という意味だ。
僕の言葉に、藤咲は笑顔を崩さないまま声を落として言った。
「君、普通が嫌いでしょ」
息を吞む。
そう言われてようやく、彼女が僕の本性に鋭い言葉のナイフを向けていることに気づいたのだ。
「どうして? 僕は誰よりも普通だよ」
思わず顔を背ける。その時点で、僕は彼女の言葉を本当には否定出来ずにいた。
「誰よりも普通でいることに努めてる、の間違いでしょ? だから誰よりも普通が嫌いなんだよね」
知ってる知ってるー。と、隣に座りながら流すように言われ、僕の小さな抵抗は無意味に終わる。
このままでは、これまで必死に繕っていた本性が暴かれてしまう。そう身構えたが、藤咲は僕の予想を裏切って言葉のナイフを収め、口を開いた。
「私も普通が嫌いなの。仲間だね」
驚いて彼女を見ると、藤咲は、自らに敵意がないことを示すかのように優しい笑顔を浮かべていた。それから、手に持っていた焼きそばパンを頬張り始める。
そんな姿を見ていると、あの教室の一件の時と同じ人物とはとても思えないほど藤咲は普通の女子高生だった。
「君の言葉通り、君は誰よりも普通だね。普通が嫌いなのに、どうして?」
まるで、世間話をするかのように質問される。僕にとってはかなり踏み込んだ質問なのだが、藤咲の表情を見るに、彼女にとっては世間話感覚なのだろう。なんだか、変に身構えている自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「……一口に言えば、親が普通や常識に固執するタイプの人だから。それに、普通じゃないなんて、この世界が許さないじゃないか」
僕の意見はいたって平凡で、ありふれていて、普通だ。でも、それはどうしようもないほどに変えようのない事実だった。
現に藤咲の教室での行動は、普通を嫌う彼女の“主張”としては受け入れられず、普通では理解できない“奇行”として認識され、生徒指導室に連れて行かれた。
それに、世の中に蔓延っている“普通”に背けば、この世界に僕の居場所なんて__
「居場所が無くなるのが怖い?」
僕の思考を読むかのように、藤咲が言った。少し驚いて藤咲を見ると、彼女はなんでもないように続きを口にした。
「私の親も一緒だよ。勿論、世界からの風当たりもそれ相応にきつい。……でも」
そこまで言うと、藤咲は僕の肩に手を置いて耳元に口を近づけた。それから、「全部裏切るのって、普通に縛られて息を殺すよりずっと気持ちいいよ」と囁いた。まるで、悪魔が堕落へ引きずり落とそうとするような、甘い声で。
耳が心地のいい痺れを持つ。
呆けている僕を横目に、藤咲は満足したように立ち上がった。心が、思わずこのまま彼女に連れ去られそうになる。このまま、彼女と一緒に普通を捨ててしまおうか。そう思ってしまうほどの高揚感が僕を包んでいた。
……でも、その心と比例するように、自分を新しい世界へと連れて行こうとする彼女に苛立ちを感じた。だって、腹立たしいじゃないか。ずっと諦めていた“普通じゃないこと”に、こうもあっさりと希望を持たせられたんだから。
「強いんだね、君は」
僕は彼女に掴まされた希望から目を背け、自嘲気味の笑みをこぼす。
僕は弱い。希望を掴まされても、それを苛立ちのままに突き放してしまうほどに。それに、きっと僕はこのまま変われない。だってそうだろ? 変われるなら、とっくに変わってる。突然現れて騒ぎを起こせる彼女と僕は違うんだ。誰もが藤咲みたいになれるわけじゃないんだ。
おそらく、ありったけの悪意がある発言になっただろう。しょうもないプライドだな、と心の底から自分に毒づく。
そんな僕の抑えることを知らない悪意を感じてか、藤咲は僕に背を向けて静かな声で言った。
「そんなことないよ。私は、ただ逃げてるだけだから」
風が冷たかったせいだろうか。彼女の背中は、少しだけ寂しそうに見えた。
傷つけただろうか……と一瞬だけ良心が痛む。だけど、よくよく考えれば、最初に馴れ馴れしく話しかけてきたのはあっちなわけで。ついでに、これがきっかけになって話しかけて来なくなるんなら願ったり叶ったりだ。と、モヤモヤした気持ちに無理やり蓋をした。
……まぁ、そんな少しの罪悪感も、これから藤咲と関わることが無くなるという淡い期待も、このあと全て無駄だったと思い知らされるんだけど。
◇
時は放課後。僕ら生徒は、ようやく学校から解放される。
あの後の授業は、藤咲の奇行に度々驚かされることはあれども、幸い一限目の数学ほどの騒動はなかった。恐らく、昼休みの間に先生達で話し合って、あまり刺激しない方針にしたのだろう。藤咲も自分のやりたい事が出来ればそれでいいらしく、リコーダーを外に投げたり狂ったように笑ったりすることもなかった。
大体、彼女は__。
そこまで考えて、そろそろ自分の頭が回らなくなってきていることに気づく。
月曜日はどんなにいい一日だろうと、学校がある限り全てが憂鬱そのものだ。当然、放課後になる頃には疲労でどっと身体が重くなる。こんな日は早く帰って夕飯を食べて、風呂に入ってからさっさと寝る。それに限るな。
今日は、本当に疲れた。夕飯も要らないくらいだ。
母に、夕飯はいらないと連絡しようかと一瞬迷う。が、夕飯は食べなくちゃいけない。なぜなら、それが我が家のルールだからだ。
……風呂を明日の朝に回すことにしよう。
学校を出て暫く歩いてから、長いため息を吐く。
一応言っておくと、帰るのが面倒で出た溜め息ではない。確かにそれも面倒だが、それ以上に面倒な存在が隣にいるのだ。
「何でお前がいるんだよ……」
僕が“お前”と呼んだ相手は、昼間見た時と変わらない様子でニッコリと笑って言った。
「何でって……君と私は仲間。つまり、同志でしょ? っていうことは、一緒に帰るのは不思議なことでもなんでもないよね?」
いや十分不思議なことなんだが。というより、同志ってなんだよ。と、思わずツッコミそうになる。が、そんな気力もないので声に出すのはやめた。それに、ツッコんでしまうと彼女のペースに乗せられているようで嫌だった。
それでも最低限、自分の意思は伝えるべきだと判断したので、仕方なく口を開く。
「僕は一人で帰りたいんだけど」
「そんな! 遠慮しなくてもいいんだよ。ほらほら、短い足を止めるな少年」
ぴくっと眉が少し痙攣する。
こいつは、僕が何か喋る度にツッコミポイントを作る天才なのか? 遠慮なんて一切しないうえに、謎の少年呼ばわりが癇に障る。あと、短い足って普通に悪口だからな。
「ほら、あんまりゆっくりしてたら遅くなるし、さっさと帰ろうよ」
夕日に照らされた藤咲が、溶けそうなほど柔らかく笑う。それがあまりにも綺麗だったから、思わず数秒の間見惚れて固まってしまった。
……こんな流れで、こんなの見せられて、断れる方がおかしいよな。
「……分かったよ」
僕は、仕方ない感じをたっぷり醸し出すために大袈裟な溜息を吐き、再び歩き出した。
◇
__失敗した。
断れない状況だろうとなんだろうと、断ればよかった……。疲労からくる倦怠感とは別に、気分がどんよりとしていく。
それと同時に、僕と藤咲は“普通が嫌い”という共通点こそ持ってはいるものの、全くタイプの違うものだと改めて実感した。
僕には、急にバレエのようにつま先で歩き出したり、「これも別に普通か」と呟いたかと思えば、ブリッジの状態で歩いてみたりと、そんな奇行は死んでも出来ない。彼女を見ているだけでも恥ずかしいし、ヒヤヒヤする。
そして、そんな彼女はもれなく周囲からの視線を集めてしまう。一緒にいるのが恥ずかしくてたまらない。
「僕、電車だから」
駅前に着いた時、僕は側転して移動していた藤咲に言う。電車通学でよかったと、今日ばかりは心の底から思った。これでようやく彼女から解放される。
すると、彼女は嬉しそうに「私も電車」と返事した。
「え」
思わず声が出る。当たり前だ。普通じゃない彼女が公共交通機関を使って通学するなんて、有り得ないと思っていたから。
「ん? だから、私も電車通学だよ」
単純に聞き返したのだと思ったのだろう。非情にも、彼女は悲しい現実を二度も突きつけてきた。
……最悪だ。
本日何度目かの軽い絶望を味わう。これなら、一時間ずっと演説する方がよっぽどマシかもしれない。だって、演説をすることは普通で、異常として注目されているわけではなく、そういうものだから。彼女といると、異常として注目されてしまう。それは、これまで普通に生きることに徹してきた僕にとって、苦行そのものだ。
いっそのこと、徒歩で家まで帰ってしまおうか。とも思ったが、それは流石に遠すぎるので、諦めて藤咲と一緒に電車に乗ることにする。
電車では何をするのだろうか。と、身構える。だが、意外にも彼女は電車に乗るなりすぐにウトウトしだして、三分も経たないうちに眠りについた。
藤咲が普通の行動すると安心するな。あ、でも、華の女子高生が、今日話したばかりの男の肩にこうして無防備に頭を預けるというのは、実は普通じゃないのかも……。
左肩に重みを感じながら、苦笑いを零す。それから、肩に乗っかっている藤咲を、何の気なしに横目で見てみた。
藤咲は、他の女子高生のように髪を巻いたわけでも、軽い化粧もしているわけでもないのに奇麗に見える。そんな、自然的な美しさがあった。今は眠っていて見ることは叶わないが、生命的な力強さが宿った瞳も、彼女の美しさの一つだろう。奇行にさえ走らなければ、きっと別の意味で注目されたに違いない。
あぁ、でも……。
所々に寝癖を見つけて、苦笑いとは別の種類の笑みが零れる。いくら奇麗だとしても、髪くらいは梳かした方がいいかもしれないな。髪質自体は、おしゃれに無頓着な僕が見ても分かるほど奇麗だ。きっと、しっかり手入れをすれば、モデルにだってなれるんじゃないだろうか。
……まぁ、本人は望まないと思うけど。
「絶対に嫌だ」と駄々をこねる藤咲を想像して、肩を竦めた。
夕日のおかげか、穏やかな空気が僕らを包んでいる。
そう言えば、今日知り合ったばかりの藤咲に対してこんな風に思う僕も、大概変なのかもしれない。藤咲に影響されたのかな。
「ふぁーあ」
眠っている藤咲を見ていると、欠伸が出た。
僕も寝ようかな。そう思い、重くなってきた瞼を閉じる。
それから少しの間、優しい時間が流れた。
◇
「次は〇〇駅、〇〇駅」と、車掌の声がする。その声を聞いた瞬間、藤咲は飛び起きた。ついでに僕も目を覚ました。
「私、ここで降りるから。またね」
そう言い、軽く手を振って側転しながら電車を降りていく藤咲。そんな彼女の姿を、僕はただただ呆然と見送ることしか出来なかった。
……狐につままれたような気持ちだ。
電車が走り出して数十秒経ったくらいで、ようやく頭が働き始める。
さっきまでの穏やかな時間は、一体何だったのだろう。
側転しながら帰るなんて、異常だよな。去り際の藤咲を思い出して、思わず苦笑いする。やっぱり、僕には到底出来そうにない。
少しだけ、藤咲を“普通の女子高生”だと思ったせいだろうか。改めて彼女と僕が違う場所にいるということを認識して、気分が沈む。どうしてこんな気分になるのだろう。僕は、彼女のような奇行に走りたかったのだろうか……側転したいとは思わないんだけどな。
そんなことを考えていると、僕の降りるべき駅にもうすぐ着くというアナウンスが鳴る。
__このままずっと、電車に乗っていようかな。一瞬、小さい反抗心のような気持ちを抱いたが、そんな事をする勇気はやっぱり僕にはなかった。
結局、いつも通りだ。僕はため息を吐いて、普通に電車を降りた。
やっぱり、藤咲は強い。
ふと、歩きながら負け犬のような気持ちで思う。
藤咲は自分の行動について「逃げているだけ」と言ったが、僕には逃げることすら出来ない。逃げるのにも強さが必要なのだ。彼女はそれに気づかないほど、当たり前に強さを持っている。それを、まるで弱さのように言えるくらいには。
羨ましいし、妬ましい。彼女と行動を共にすると、ついつい自分と比較して劣等感を感じてしまう。
「あー、あー、あー」
思考を遮るように声を出した。ついでに、頭をぶんぶん振る。
これ以上考えるのはやめよう。と、自分の心の影を誤魔化すように家の扉を開けた。
「あら、蒼。おかえりなさい」
いつもの様に、母が微笑を浮かべて出迎えてくれた。
「母さん、ただいま」
母に合わせて微笑を浮かべる。きっと母の目には、優しく笑う息子の姿が映っているのだろう。今朝、鏡の前で見た普通の男子高校生の姿が。
「もう夕飯出来てるから、早く着替えてらっしゃい」
いつもより早いなと思ったが、藤咲と帰ったせいで自分の帰宅時間が遅れていたことに気づく。いつもなら咎められるのだが……今日は機嫌が良いのだろうか。
「うん、分かったよ」
返事をして、すぐに二階にある自分の部屋に入る。それから、部屋着に袖を通す。そういえば、二階に上がる時にハンバーグの匂いがした。今日の夕飯はハンバーグなのだろう。
リビングに降りると、やはりテーブルの上にはハンバーグが並べられていた。
「それじゃあ、食べましょうか」
母がそう促すので、頷いて椅子に座る。
「いただきます」
「いただきます」
二人で合掌し、箸を持つ。
「美味しいね」
いつものように一口目をしっかり味わって、料理の感想を言う。
「そう、よかったわ。今日は学校、どうだった?」
「普通だよ。いつも通り」
本当は、とんでもない事ばかり起こって大変だったけどね。と思いながらも、それを説明するのは骨が折れるため、普通に返答する。
「それは何よりだわ」
それから、お隣さんがどうしたとか、最近の天気が悪くて洗濯物が干せていないだとか、もはやテンプレのような会話が続いた。母の話を聞くのは楽でいい。内容に興味はないが、適当に相槌を打つだけでいいから。
「それでね__」
母の言葉を遮って、さっきまで可愛らしい動物の報道をしていたニュースキャスターが、殺人事件についての報道をしだした。ニュースキャスターの声の雰囲気が一変し、僕も母も思わず耳を傾けてしまう。
どうやら、アパートで夫が妻を殺したらしい。何十ヵ所も刺し傷があって、目も当てられない状態とのことだ。
「人殺しなんて物騒ね。それに、結婚までした相手を殺すなんて……異常だわ」
と、ニュースの内容を一通り把握した母が口を開いた。そうだね。と、特に考えず返事をしながら、警察に連行されていく殺人犯を見る。
彼の目はいっさいの光も受け入れないほどに黒く、虚ろであった。でも、どうしてか僕を強く惹き付けた。……彼の目の奥に、何かがあるような気がしたからだろうか。
彼にも、何か事情があったのだろう。よくあるパターンで言えば、何かに耐えられなくなったからそれを伝えるための主張として行われたのが殺人だった……とか。
でも残念なことに、彼の殺人という主張の仕方は許されなかった。なぜなら、それが普通で、当たり前だからだ。それゆえに彼の主張は掻き消され、非難の声ばかりを受けることとなってしまったのだ。世間に訴えるには、人を殺してしまうような精神状態になっても、“普通”に許されるように主張という名の心の叫びを聞かせなければならない。
じゃあ、もし彼が誰かに頼るような形で普通に声を上げていたのなら、世界は彼を受け入れ慰めてくれたのだろうか。何もかもが上手くいったのだろうか。
おそらくそんな事もないんだろうな。と、すぐに浮かんだ可能性を否定する。きっと、気のせいだとか、そのくらい耐えろとか言われて終わるんだろう。もしかすると彼は、人殺しに至る前に誰かを頼ったのかもしれない。残酷なことに、世界は普通に生きない人間を嫌い排除しようとするが、必ずしも普通に生きる人間に対して寛大で優しいというわけでもない。
それにもし、彼が“普通”の枠組みに収まっていたとしても、それは僕達とは違ったのかもしれない。簡単に言えば、育った環境によって認識が歪んで形成され、人を殺すことを当たり前だと思ってしまっているとか。育った環境がまともでも、独立してから関わってはいけないような人と関係を持ってしまったという可能性もある。
僕らの言う“普通”なんてものは、環境や他人によっていとも簡単に形を変えられてしまう。それに加えて、人間は自分の“普通”を自らの意思で変えるのは極めて難しい。逸脱してしまった思考回路も、本人にとってはありきたりな考えで、常識だ。それが間違っているなんて、自分で気づける方が珍しいだろう。
だから、この予想が当たってたら……と思っただけでゾッとした。
「蒼、顔色が悪いけど何かあったの?」
母の言葉で我に返る。
いつの間にか、黙って考え込んでしまっていたようだ。
「大丈夫。少し考え事をしていただけだよ」
笑って答える。
「そう? あまり思い詰めないで、何かあったら頼りなさいね」
その言葉を聞き終わると同時に、食事を終える。
それから、「ご馳走様」とだけ言って、逃げるように自分の部屋に行く。もう今日は、これ以上笑えない気がした。
……僕は母に思ったことを言わない。いや、正確には言えなくなったんだ。
母は、自分の思う普通に他人が反することがどうしても許せない人だ。例えば、さっきの報道であった事件について考えていたことを言えば「どうしてそんな事を考えるの? 普通じゃないわ」と怪訝そうな顔をするだろう。もっと酷ければ、精神を病んでいるのだと、カウンセリングまで受けさせられる可能性がある。
そんな面倒なことは御免だから、僕はいつからか口を閉ざした。普通への嫌悪感にも蓋をして、誰よりも普通でいることに努めた。
誰も“僕”を知らない。
でも、それで良かった。“僕”でいるより、“普通”でいる方が、ずっと生きやすかったから。
そんな時に彼女が……藤咲が現れたから、今日は珍しく舞い上がってしまったんだ。どうしたって彼女のようにはなれないのに。
僕はこれまで通り、“僕”ではなく“普通”で生きていくつもりだ。だから、この醜い劣等感や嫉妬心も押し殺していよう。その代わりに、誰よりも普通に抗っている彼女を見ていよう。
明日は何をしてくれるのだろうか。
この日、僕は少しの希望を抱きながら眠りについた。
◇
それからの藤咲との日々は、“普通”とは随分とかけ離れたものになった。
教室でダンスを踊ったかと思えば、サバイバルゲーム(僕を巻き込んで)をしてみたりと、とにかく騒がしくて異常だった。しまいには、朝の電車で「大音量で音楽を聴くなんて普通もいいところ!」と言ったかと思えば、アダルトビデオを大音量で聴きだして……あれは恥ずかしいにも程があった。その後、僕まで一緒に車掌に怒られて散々だった。
そんな藤咲とも、まともに会話がすることは多々あった。昼休みにご飯を食べながらとか、奇行に走る前の短い時間とか。
彼女と時間を共にするうちに、彼女について色々知った。先生や一般人には堂々としてるのに、何故かクラスメイトと接する時は内気になること。帰りの電車では必ず寝ること。それなのに、絶対乗り過ごさないこと……あ、あと、彼女が犯罪に手を染める気がないという事も知った。曰く、「捕まれば少年院で過ごすだけじゃん。普通に」とのことらしい。この時は、理由が藤咲らしくて思わず笑った。普段あまり笑わない僕が大笑いしたせいか、藤咲が目を丸くして驚いていた。彼女の、鳩が豆鉄砲をくらったような顔が強く印象に残っている。
僕自身も、自分がこんなに笑える人間だということを知らなかった。
会話を重ねて、お互いにある程度知った仲になってきたからだろうか。騒がしいし、巻き込まれて面倒なことも多くあるのに、そんな彼女と過ごす日々を悪くないと思っている自分もいた。自分の嫌いな“普通”をちょっとやり過ぎなんじゃないかと思うくらいに、生き生きと壊してくれる彼女を見るのが、まるで自分の出来ないことを代わりにやってくれているようで好きだった。太陽のように明るく強い彼女の傍にいると、それに影響されてか、僕自身も少しだけ明るい気分になれたんだ。
だから、日を追うごとに強く心を蝕む嫉妬心も、劣等感も、これからの彼女との日々を思えば我慢できた。
「ねえ、蒼くんも一緒にやろうよ」
帰りの電車のことだった。藤咲は突然、僕に言った。いつもならすぐ眠るのに、珍しい。
彼女が僕を誘うのは、これで二回目だ。初めて昼休みに話した時と、今。彼女はこれまで、どれだけの奇行に走っていても、一緒にしてくれと僕を誘うことはなかった。
「……珍しいね、そんなこと言うなんて」
驚きを口にする。
「そう言えばそうだね。でも、蒼くんが一緒にやってくれるといいなーとは常日頃から思ってるよ」
彼女がそう思ってくれていることに、少し鼓動が早くなる。嬉しい。いつも巻き込まれてはいるものの、それは彼女の傍にいる僕のせいであって、彼女の意思ではないと思っていたから。
彼女のように自由になりたい。普通を壊したい。このまま頷いていまいたかった。……でも、現実はそんなに甘くない。どれだけ藤咲と一緒にいても、僕はあの日から何も変わってなかった。
「嫌だよ」
少し笑って言った。きっといつもの気まぐれで僕を誘ったのだ。なら、冗談のように軽く返答するのが無難だろう。
「そうだよね」
やっぱり冗談だったらしい。藤咲も、僕と同じように微笑を浮かべて言った。それから、何もなかったように眠りについた。
◇
僕にとっての非日常が何週間か続いたある日、藤咲が初めて学校を休んだ。
正直、意外だった。彼女は自分の運動能力を高めていたり、勉強を狂ったようにしていたりと、“普通”を壊すための基礎を固めている、真面目な一面がある人だったから。それに、体調不良なんて、普段の彼女のパワフルさからは全く想像もできなかった。
藤咲も人間なんだな……と、失礼極まりないことを思う。
彼女のいない授業は、まるで元の色を取り戻すかのように淡々と進んでいった。
先生もクラスメイトも最初は彼女の不在に驚きを隠せずにいたが、やがて、すぐに慣れて“普通”を作っていく。彼女の近くに居すぎたせいなのか、僕は、そんな光景が気持ち悪く感じられた。もしかすると、友達が学校を休んだ時、こういう気持ちになるのかもしれない。これまで友達のような存在がいなかったから、知らなかった。
ぼんやりと過ごしていると、いつの間にか昼休みになった。思わず、藤咲の席を見る。……今日は、久しぶりにボッチ飯だ。
彼女のいない日常は、こんなにつまらないものだっけ。屋上に向かいながら、そんなことを考える。彼女が僕の中で大きな存在になっていることに気づくと同時に、自分の気持ちが他人によって左右されている事実を知って少し腹が立った。
勢いよく屋上の扉を開けると……。
「……藤咲?」
そこには彼女がいた。
「あぁ、蒼くん」
僕を見つけて、藤咲は笑った。これまで見たことないような、辛そうな顔で。
それから、彼女は自身の顔に触れて、
「こんな顔、普通に辛そうだよね。そう、普通。こんなの普通……」
普通じゃだめなのに。と、吐くように言葉を零した。
……どう見ても、いつもの藤咲と違う。それは一目瞭然だった。でも、僕は一体なんと声を掛ければいいのだろうか。どうしたの? 大丈夫? いや、どの言葉もこの状況には相応しくないような気がする。
「私達は、普通が大嫌い」
ポツリと、僕がかける言葉を決めあぐねている最中に、藤咲が呟いた。
彼女の言う通り、僕達は普通が嫌いだ。行動に違いはあれど、その共通点があったからこそ、今まで多くの時間を共に過ごすことができた。
「でもね……」
そこまで言うと、藤咲は言葉を切った。
嫌な予感がした。これ以上、彼女に喋らせてはいけないような……そんな気がしたのだ。
藤咲。そう言おうと口を開いたが、もう遅かった。
「普通を嫌うことなんて、普通なんだよ」
彼女の言葉に、頭を鈍器で殴られたような感覚に陥る。
「どれだけ普通から逃れようとしても、普通は、いつも傍にいる。何をしてもきっと、それは誰かの普通になってしまうんだ。むしろ、逃げようとすればするほど普通は存在感を大きくして、それで、どんどん私を呑み込もうとする」
逃げたって無駄なんだ。と、藤咲は僕のなしえなかった行為や、普通を嫌う思考まで、あっさり否定した。
彼女の言いたいことは十分理解しているつもりだ。たとえ、僕が平均を普通だと思っていても、誰かにとってはそれ以下が普通だったり、それ以上が普通だったりする。人によって普通は違うわけで、それを全て回避して裏切ることはできない。
「世界に呑み込まれそうで、毎日辛いんだ」
俯いて、苦しそうに笑う藤咲。
僕の目に映っていた藤咲は、普通から逃げながらも人生を楽しんでいるように見えていた。 いつも笑顔で引っ張ってくれていたから。僕が出来ないことを、全部あっさりとやってのけていたから。
……僕にとって、彼女はヒーローで、希望そのものだったから。
だから、僕は今の藤咲を許すことが出来なかった。
何だかんだ楽しんでるくせに、僕より強いくせに、自由なくせに。何でそんなお前が、不幸そうな顔するんだよ。藤咲に出会ってからずっと感じていた彼女への醜い劣等感や嫉妬心が、抑えきれないほど膨れ上がっていく。
……おそらく、魔が差したのだろう。悪意をぶつけてやりたくなったんだ。初めて彼女に誘われた、あの日のように。
「__普通なんて、どこにもないよ」
風が吹く。妙に暖かくて、気持ち悪い風。
「普通なんてどこにもない?」
藤咲は、震えた声で聞き返す。
「そんなわけないよ。そんなものは奇麗事で、この世界に飲み込まれた“普通”の人間が言う言葉だ」
彼女は顔を上げて、力が抜けたように笑っていた。その表情からは、『君だけは、同じだと思ってたのに。お前も、そうなのか』と、悲痛な叫び声が聞こえてくるようだ。
いつかのニュースで見た、殺人犯のような黒くて絶望した瞳が、僕の言葉を待っている。
「……僕は」
口を開く。
それから、まるで罪悪感から逃れるように目を逸らして言葉を続ける。ずっと僕の心にあった言葉を。
「僕は、誰よりも普通だよ」
そう、言い捨てた。
「そっか……」
藤咲の顔は見れない。いや、見ない。
「そうだね」
今、彼女の顔を見てしまえば、事の責任が全て自分のものになってしまう気がした。
「蒼くんは、普通だね」
ごめんね。と、藤咲は一言謝って歩き始めた。足音がどんどん遠くなっていく。
「ま、待って……!」
そう言って顔を上げた時、既に藤咲の姿は無かった。彼女が目の前から呆気なく消えたことが、何故か虚しい。
もしかすると、僕はまた、身勝手にも期待していたのかもしれない。僕の言葉を飄々と受け流して、「なんちゃって」と、また普通を壊していってくれる彼女の姿を。あの優しい笑顔で、僕のどうしようもなく醜い感情を救ってくれる……そんな姿を。
でも、これはこれで、よかったのかもしれない。
昼休みも放課後も付きまとわれずに済むし、奇行の数々に巻き込まれる心配もない。ただ、前のように普通に戻ればいいだけなのだから。取り立てて僕がすることと言えば、藤咲の奇行を遠くから眺めるクラスメイトAになることくらいだろう。
きっと最初から、これが最適解だったんだ。遅かれ早かれ、どうせ僕は藤咲を傷つけた。早めに離れることが出来て、むしろよかったのかもしれない。
うん。これでよかったんだ。
その日は当然、放課後に藤咲から声をかけられる事もなかった。普通に帰って、普通にその日を終えた。
◇
僕の思った通り、その日を境に藤咲との関わりはなくなった。僕は普通の道に戻ったし、藤咲の方も、変わらずに問題行動を繰り返していた。
ただ、予想外の変化が一つだけあった。今までは藤咲を憧れの対象として見ていたが、“ただの異常なクラスメイト”として見るようになったからか、これまで完全自由で楽しく生きていると思っていた彼女が苦しそうで、触れただけで壊れてしまいそうな危ういものに見える時が多々あった。その度に、あの屋上での彼女の苦しそうな表情が脳裏をよぎった。
……もしかすると、僕が気づいていなかっただけで、彼女は元からそうだったのかもしれない。
屋上で昼ご飯を食べながら、ふと、初めて話したことを思い出す。
僕は、あの日も藤咲に悪意をぶつけた。その時寂しそうに思えた背中は、藤咲の独りで普通から逃げる寂しさ、どんなに逃げても逃げられない辛さを物語っていたのだろうか。彼女が僕に付きまとっていたのは、普通が嫌いな仲間を見つけて、少しだけ孤独感が紛れていたからなのかもしれない。
だから、藤咲は苦痛の悲鳴を上げながら、唯一の仲間である僕に助けを求めてきたんだ。ずっと独りで抱えていた苦しみから、救ってほしくて。
……でも、僕は自分のポケットに隠し持っていた言葉のカッターで彼女を刺したのだ。己の欲に従って、深く、深く。かつての彼女が向けてきた言葉のナイフほど、鋭いものではなかった。彼女のように余裕を持った言葉ではなく、精一杯の言葉だったから。……それが致命傷になるほど、藤咲は弱っていたんだ。
最低だな。と、自己嫌悪の念に駆られる。
僕は、なんてことをしたのだろう。しかも、気づくのがあまりにも遅すぎる。藤咲と最後に話した日から、既に一ヶ月が経っていたのだ。今更、彼女が自分の話を聞いてくれるとは、到底思えない。
にも関わらず、僕は今、藤咲に謝罪の意を伝えたくて仕方なかった。人は自分勝手なもので、普通は、心から自分の非を認めると相手に謝りたくなるんだ。
そして、それよりも強く、彼女を“普通”の呪縛から解放したいという思いがあった。危うい彼女を見るのはもううんざりだったし、自分も“普通”と決着をつけたかった。
どうすれば彼女を……僕を救えるのかは、もう知っている。ずっと前から、奇麗事として何度も教えられていた。それは、何度も僕や藤咲が思い知っていたことで、目を逸らしていたことだ。
この気持ちを伝えるべく、僕は、放課後に屋上へ来るように書いた手紙を藤咲の机の上に置いた。彼女が来るまで何時間でも、何日でも待つ覚悟で。
彼女だけを戦わせるのは、もうやめにしよう。
◇
「__普通から無様に逃げてる私を笑うためにわざわざ呼んだの?」
屋上に行くと藤咲はもう来ていて、彼女は僕が来たのを確認するなり毒を吐いた。
「私が見苦しくて、惨めに見えるんでしょ」
「違うよ」
誤解されないよう強めに否定するが、藤咲は辛そうに僕を見つめた。あの日、僕が刺した心の傷を庇うように。
「無様でも、私は普通が嫌。誰かの当たり前に沿って生きたくないの。そんなつまらない人生を送るくらいなら、死んだ方がマシ」
無意味でもなんでも、逃げ続けるしかないの。と呟く彼女の声は、震えていた。よく見ると、脚も震えている。
そんな状態になってまで彼女がここに足を運んだのは、きっと、あの時と同じように僕の言葉を待ってくれているからだ。
僕は、口を開いた。
「藤咲の気持ちは理解してるし、僕も同じような気持ちを持ってると思う。……それでも、やっぱり普通なんてものはどこにもないんだよ」
そう言うと、藤咲は泣きそうな顔をした。きっとこの前も、最初に話した時も、そんな顔をしていたのだろう。
でも、今度はこのままで終わらせない。
「僕も含め、みんなが“普通”だと思い込んでいるものは個人の“価値観”で、本来、他人に強要するようなものじゃない。誰が迷惑と言おうが常識だと怒ろうが、僕達は僕達の価値観で生きていけばいいんだ」
そう言った僕は、笑っていた。
あの日、彼女が僕に違う世界を見せたように、次は僕が藤咲に違う世界を見せるんだ。この世界は、人間は、確かに“普通”に縛られている。でも、それに気づけたのなら、縛られずに生きることだって出来るんだ。
笑顔を崩さず、言葉を紡ぐ。
「だから、藤咲は藤咲の価値観に従えばいいんだよ。誰かの普通なんて無視して、自分の善悪に従えばいい。それが、藤咲という人間なんだから」
そうした方が気持ちいいよ。と、いつか彼女がしたように耳元で囁く。
「いい加減、“普通”に振り回されるのは飽きただろう?」
そう言い終わってから藤咲の顔を見ると、彼女は、あの日の僕のような顔をしていた。希望を、新しい世界を見たような、そんな顔。
そうだ。そのままその希望を掴んでしまえばいい。
僕は、そう思うままに彼女に手を差し出した。
だけど、藤咲は僕の手を取らなかった。
「自分の価値観なんて、いきなり言われても分からないよ……」
それは当然のことだった。藤咲は、これまで“普通”から離れた言動をすることだけに重きを置いて生きてきたから、自分の価値観に焦点を当てたことなどないだろう。それなのに、やりたい事をしろと急に丸投げされたら、確かに自信なんて持てるはずもない。
だから、僕も一緒に戦うんだ。
「これからゆっくり分かっていけばいいよ」
優しく言う。
確かに、聞く人が聞けば奇麗事に聞こえるかもしれない。それでも、この覚悟は紛れもなく本物だった。
「丁度、僕も自分の価値観をこれからゆっくり探していくんだ。仲間だね」
再び、手を差し出す。
大丈夫。もう独りになんてしない。してたまるか。
「……うん。ありがとう」
そう言って、藤咲は僕の手をそっと握った。僕は、彼女の手をぎゅっと強く握り返す。
「お礼を言うのは僕の方だよ。藤咲が居なきゃ、気づけなかった。ありがとう。藤咲のこと、これまで何度も傷つけたよね……本当にごめん」
僕の言葉を聞くと、藤咲は、握手している方とは反対の手で僕の額にデコピンした。
「ほんとに! 辛かったんだから」
「ご、ごめん」
その会話を最後に、少しの沈黙が訪れた。
「何、その顔」
そう言って、耐えきれなくなったのか藤咲がぷっと吹き出した。そこから堰を切ったように笑い始める。
「……そんなに酷い顔してるかな?」
しばらく彼女の言葉に驚いていたが、笑い続けている藤咲を見ていると僕まで笑いが込み上げてきた。
「なんで蒼くんが笑ってるの」
笑いながら彼女が言う。
「そんなの、僕も分からないよ」
そう答えて目尻の涙を拭う。こんなに笑ったのは、本当に久しぶりだ。
それから、僕達は二人で笑い続けた。
今日の夕日はいつもより温かくて、優しかった。
◇
あれから一週間、藤咲は学校に来なかった。
彼女にも、自分なりに受け止める時間が必要だと分かっていたから、不安には思わなかった。何なら、一ヶ月くらいは学校に来ないとさえ思っていた。
「おはよ、一週間ぶりだね」
藤咲に話しかける。
「おはよ。あんまり長く休むと、蒼が寂しいかなーって思って」
冗談めかしたように言う藤咲は、まるで憑き物が落ちたように明るく笑っている。
「今日からまたよろしくね。同志さん」
藤咲が手を差し出す。
「ああ、こちらこそよろしく」
僕は笑って彼女の手を握った。
見つめ合う数秒間、優しい空気が流れる。それが何だか気恥ずかしくてお互いに目を逸らしたが、話したいことがあったのか、藤咲は思い出したように口を開いた。
「あ、ところでこのグミ、コンビニで買ったんだけど……食べる?」
そう言って藤咲が一つ差し出してくるので、「ん、ありがとう。貰うよ」と何も考えずに受け取り、藤咲が持っている袋を見て、味の表記を確認する。
「…………ゴキブリ味?」
とんでもない味だ。一部の人はこの表記を見ただけで倒れそう。
「普通から逃げてる時に出会った味で、これがクセになるんだよね〜」
そう言いながら、躊躇無くゴキブリ味のグミを口に入れる藤咲。どうやら変な物に挑戦する機会が多かった彼女には変わった好みが出来ているらしい。
藤咲が言うなら……と、僕も意を決してグミを口に放り込んだ。
「あ、美味しい」
思わず声が出る。
意外にも、ゴキブリ味は美味しかった。いや、正確には美味しいわけではないんだけど、絶妙な不味さがクセになる。
「でしょー?」
と、自慢げに言ってグミを食べ続ける藤咲を見ながら、これから先、僕も変な物を好きになる機会が増えそうだな……と、苦笑いする。それも悪くないと思う辺り、やっぱり僕も普通のフリをしていた変人に過ぎなかったのだろう。
だから、こんなに穏やかな日を迎えられるなんて、思ってもみなかった。家では普通の息子、学校では普通の男子高校生……いつも気を張って、普通を演じていた。それは藤咲と一緒にいてもそうだった。彼女の奇行を見てすっきりしていても、僕自身は普通でいなければならなかったから。
あの出来事がなければ、こんな日は一生訪れなかっただろう。
「ありがとうな。藤咲」
「え? そんなに美味しかった?」
しまった。と、自分の口を押さえた時には時すでに遅し。
この後、調子に乗った藤咲にゴミ味だの靴下味だののグミを食べさせられ、あまりの不味さに気絶したと言うのはまた別の話である。
お読みいただき、ありがとうございます。
ブックマークや高評価、感想をしていただけると励みになります。
評価はこのページの下側にある【☆☆☆☆☆】をタップすればできるので、是非お願いします。




