愛の源泉
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タイトル「愛の源泉」
あらすじ「ツイートのコピーを編集したものです。自分用のメモです」
―――――メモ「経済の謎」20200830
メモ「経済の謎」2020083
お金の使い方として、「何かを生産するために購入して売って儲けるために使う金額」と「消費すること自体が目的でつかう金額」は意味が違う。
生産は原価としてコスト扱いされる。
対して消費は売上として利益扱いされる。
この差が大きいと売った人にお金が集まる。
売るものがある人が儲ける。
消費するだけの人はもらったお金で暮らすことができる。
じゃあ、売ろうとして失敗して借金を作ったら?
ベーシックインカムは、消費を保障するが、生産活動の成功を保障しない。
確実に儲けることができないなら、なにもしない方がましなら、「あえてチャレンジする人」の失敗をどう扱うのか?
破産手続きをするのか?
破産手続きで借金チャラにされる危険があるなら怪しい人には貸さなくないか?
必要なことは競争になって買い叩かれてブラック労働化する。競争なくなりほしいだけで要求したらつかう人が困る。簡単なことは人が集まり競争になる。値段が上がらない。
難しいこと、時間がかかることは競争がなくなり独占状態になる。必要なものよりほしいものをたくさんつくれたら大儲けできる。付加価値が付いて高くなる。
「あるもの食べてぐたぐた昼寝する」では経済は活性化しない。
寸暇を惜しんで遊び尽くすと経済規模が大きくなる。
外食して、ショッピングして、観劇すると経済は活性化する。
だが、必要なことが儲からないと遊ぶ余裕はない。
遊びを提供する人は、提供すること自体が一番の遊びだから、案外遊ばない。
好きじゃないことがんばるから、気晴らしがほしくなる。
だから、好きな仕事についたら、案外仕事してる方が楽しいから遊ばない。
嫌なことしててもお金がなければ遊べない。
必要だが誰でもできることを我慢してやってる場合、娯楽はほしいがお金はかけられない。スマホでネットサーフィンとか、手軽にできることに落ち着くだろう。
誰でもできない難しいことを楽しんでしてる場合、仕事は一番の楽しみなのでわざわざ遊ばなくてもよい。
「お金はあるけど、自分では楽しみを作れないから、楽しませてくれるものが必要」なお客さんが減ってる気がする。 自分が提供したい人が増えてる。
そうなるとプロになれないアマチュア層が厚くなる。
でもアマチュアなるのもそこそこ根気いる。頑張らないと遊べない。
「頑張って遊ぶ人たち」と「知り合いとおしゃべりすることが一番の娯楽なラフな人たち」は交わらない。
オタクとパリピくらい違う。
どちらにしても、一番の娯楽は商売で成功して結果出すことだよねー。
話がめちゃくちゃ脱線してる。
ベーシックインカムでお金を配っても、「使うだけで入ってこない」は解決しない。
よっぽと潤沢に配るなら、衣食住を満たして、娯楽も楽しめる。
たとえば、次に50万配ったとしよう。
選択の自由が増える。
でも生産過剰は解消されない。
多くの人に指示されてめっちゃ売れて大儲けする人もいれば、どうやっても売れない人もでてくる。
「買うだけで売らなくていいよ」とあきらてしまえばいい話だが、「売りたい!」という欲求は本能的なものでは?
その欲求にベーシックインカムでは答えられない。
「自分がしたことを必要とされたい」という根本的な欲求を満たす仕組みがないと、天才以外は阻害される。
そして天才であり続けないと勝ち残れない。
そりゃあ、安くていいもの提供してくれるなら、高くて悪いものは買わないだろう。それが自然淘汰であり競争を肯定する目的だもの。
でも未熟なものをないがしろにしたら未熟なままで成長できない。
そこで「成長する機会を作る」を肯定するなら、それは宗教じゃない?
ちょっといいたいことがまとまってきたけど、まだまだ全然だな。 まあ今日はこれぐらいにしとくか。
そうなのよ!
「成長する機会を作る」というモットーの宗教がグリーン教の進化した姿で、仮に魂育成と名付けた。
ずっと無理して遊ばず勉強してお金ためてた。何かを始めるための資金を作りたかったから。でも妊娠して結婚して体を悪くした。死んでもおかしくなかった。あんなに我慢してもムダだった。「もう使いきって遊んでやる!」とやりたいことをした。
体験コース、入門コースはけっこう豊富にある。ちょろと気分を味わうことはできる。しかし本格的にやろうとしたら、的を絞って継続的にやるしかない。
体力いることむりだから、小説と占いに落ち着いた。真剣なことだけだと行きが詰まるから最近将棋を娯楽に取り入れた。3手詰めがとけないレベル。
そうして目標を定めたら、やっぱりお話なら読んでもらうとか、占いなら依頼くるとか、そういう「相手からの反応」が「結果」であり、やってきたことの目に見える報酬なんだよね。
書くこと自体楽しいけど、やっぱり読んでほしいという欲がでる。
そういうの考えたら、「好きな仕事でお金をもらう」が一番の娯楽に思う。
そこには努力や苦労もあるけども、それを考えること自体が楽しくていつも考えてしまうなら娯楽では?
働くことは娯楽になる。
「生活のため」は辛いときのモチベーション維持になる。自分がしたことを認められる機会は娯楽。
いつ死んでもおかしくなかったから、たべたり飲んだりが娯楽になった。
でも「意外と死なない!」と分かったら、娯楽で埋め尽くすにはお金が足りない。
そもそもいつでもできたら、わざわざやりたいとは思わなくなる。
「集中すること」があって、たまにするから気晴らしになる。気張らししかないと退屈。
やっぱり、してくれることをお金出して買うより、自分ができることがほしくなる。
そしてできたら人に提供したくなる。
だから、たまにしか来ない占いの依頼のために本を買い、教室に通い、勉強するのだ。
だから、仕事が一番の娯楽だと思うの。
会社勤めでも、「企画が通って実現して成功する」は娯楽になる。
ラインで同じことしてても、早く正確にできて、やったことを必要としてくれる人がいて意味ある時間だった思えばお金も入るし楽しい。
そうね。そうなると「いくらはいるか?」が娯楽性を高めるかもね。
質素な暮らしをするだけなら十分な預金あるセレブが、商売してもっと儲けるのも、儲けること自体が娯楽になるからかもよ。
自分が考えた通りに実際に展開して反応返ったら面白いもん。
―――――映画「あん」
映画「あん」が思いの外重くて考えさせられた。子どもの頃のわたしなら差別はいけないと自分が本当は怖がってることをおしころして頑張って受け入れようとしたと思う。怖がる気持ちを受け止められる今は差別した側の気持ちも分かる。問題に直面してないから態度を問われないが、問われたら悩む。
―――――記事の感想「わたしだったら死ぬ」投稿はヘイトスピーチ
https://t.co/Gm6Qyt8UqS?amp=1
この記事見てとリンクがおくられてきた。なんか微妙な気持ちになるなぞを明確に言葉で説明してくれて納得した。
基本的に「この本面白かった!」はいうけど、「つまらんから読むな!」とは言わない。もし言うなら、「わたしにはおもしろさが分からなかった」と書く。
他人のことに口出しするのは品性がないという話に発展する。
でもたとえば、特定の病気の補助金について、「出す/出さない」を意見することは、他人のことでも口出しするのでは?
予算の奪い合いになったら、「それは必要ない」なるから。
結局、「自分の口ぶちは自分で稼げるから支援なんかいらないぜ!」という矜持を持つことをもとめる伝統的な教えが建前としてあって、「品性をよくすることは必要」という考え方が個人の自由を認める民主主義にも必要なんだね、と記事を読んで思った。
そこから話を発展させていった。
「人を助けることが基本」なのか、「社会に助けられることが基本」なのか。
不特定多数の社会になると間接支援だから気分的な負担は少ない。でも家族に世話になる場合、経済的、肉体的、感情的負担を背負う。
また間接支援だと「誰かが助けてくれる」と他人事になりやすい。
でも間接支援でも、稼ぎから税金払ってくれてる人がいる。自分は病気で働けなくて支援を受けてる側だけども、そこを忘れちゃダメだとおもうのよ。「弱者支援は社会がすべきことだ!」と切り捨てられない。社会の先には「繋がってる個人」がいる。「頑張ってる人」がいる。
自分は頑張る側になりたかったし、なれると思ってた。今でも諦められなくてお話書いたり、占いしたりしてる。自立するほど稼げなくても、役立ちたい気持ちがある。役に立てない自分は死んだ方がましだと思った。でもそんな理由で死んだら、自分の娘が同じ立場になったら死ぬかもと思って死ねなかった。
役立たないとしなないといけないという考え方を娘に植えつけたくない。それだけの理由でしななかった。実際にわたしが自殺して娘がそう感じたかは分からないが、思いとどまった理由なんだよね。 何日も起きられずに寝たきりだったころは辛くてしかたがなった。取り組む前に寝たらそこそこ動ける。
結局、丸一日動くことはできない。それでも一年とかでみたら、やれたことはある。やすんでもわたしはまたやる。あきらめない。そう信じられたら耐えられるようになった。毎日できなくても自分を責めなくなった。
動きすぎたり、食べ物の種類や量で便失禁が起きることを、もし「そんな状態になったらしんだほうがましだ」と言われたらどうだろう? 知ってる人は、「漏れてもいいからたまに好きなものを食べたらいいじゃん!」とはいうが、無理して動けとはいわない。書くこと負担でもやめろとはいわない。
「なんかしたい気持ちがない」という人もいることを知り、意欲があることは幸せなことだと知る。
叶えてもらうより、叶える方が楽しい場合、必要とされない疎外感は一番苦しい。
「必要されたい」を満たす仕組みという意味では死の街も、弱者だけ集めるグループホームも対象外いて不完全。
※死の街はブクログ掲載の「ララ」(ely0522)で出てくる。
でもだからといって、わたしが書いた話を読みたくもないのに読まされるのはおかしくない? そしたら、必要とされるために、必要とする。そんな話が、趣味を題材に星新一さんにあった気がする。
「代表として重要な役割を持つ」が多くの人は選ばれないならば、「代表にふさわしい条件」をつけてもいいのか?
誰でも、どんな状態でも、参加できるようにするべきなのか?
たとえば、就職なら他の会社があるから「受け入れてくれるところ」を探せばよいとみんなが思って受け入れないが起きる。
議員でも「選んでくれたひとがいない」場合はなれないから、一定の条件はかされている。
じゃあ家庭で「貧乏で買えない」があったなら?
たとえば、「割引シールのついたひき肉が買えない」なら「たまにはお肉を食べられるようにしてあげたら?」と思う人もそこそこ出てくる。
でも「A5ランクのステーキ」なったら、「食べようと思えば1回くらい食べられるけども、高級品で一般的に食べたことない人の方が多いから、それは叶わなくてもいいんじゃない?」ならない?
うまくいえないけども、特別なことは条件つけてといいと思うのよ。みんなができるわけじゃないことができなくてもいいと思うのよ。 やりたいと思ってない人が大半なら、それをできるようにチャレンジして支援することはしなくてもいいと思うの。
「特別なことは自力で頑張れ」が失われた時、やってる人に対する尊敬も失う気がするの。結局、やった自分に対する肯定感も損なう気がするの。
うまく言えなくてもやもやする(>_<)
「自分が思う」、「それを表明する」、「特定の誰かに言う」は「別」とまとめられてもやもやが晴れた。
自分が思うは今は自由だ。昔はダメだったところもある。キリスト教は思うだけでも悔い改めてる気がする。
それを表明するは言い方や場所による。
特定の誰かに向かって言うはいつでもダメ。品性の下限の問題。
わたしは、もやもやする自分の思いをツイッターで言葉にすることを避けて、個人とラインで話した。
もし話す相手がいなかったら? 自分の思考をまとめる手伝いをしてもらえない。
これが難病だから他人事だが、「この人太ったな」と思うのはしょうがないが、「それを口に出すか?」は時と場合と関係性による。でも本人に向かって「そんなに太ってみっともない」というのは品性に欠ける。実際、近所の人にニヤニヤ太ったと言われて挨拶しなくなった。
そもそも、言われたくない人は言わない。 平気で言う人は周りから人がいなくなる。あるいは一緒になって言う人とあつまる。 平気で言う人に「言ってはいけないことがある」を伝えるのはとても難しい。「見えない人に見ろ」と言うのと同じくらい難しい。
言わない人は、だまって去るから、何がダメだったか分からない。そう考えるとクソにクソという人は偉い。
偉いが言いたくはない。言い返されるし、クソという自分がクソにならない自信がないから。ミイラ取りがミイラになる。
クソと言ってもクソにならないは、「そんなことをいうもんじゃないよ」と諭し、「自分も言わない」に落ち着いた。
そこから人を記号でしかみないという話に発展した。
相手「属性に対する好き嫌いと、その人がそうである事実は別」
わたし「好きな人ならなんでも知りたいが、そんなに興味なかったら見ない。人間が好きなんだね」
自分の目的に関係ないことは興味を持たない人の方が多い。意識もしないし、区別もしない。
分からないことを分かれというのは無理がある。
ハラスメントも基本はそこだろう、と。
「認識できない」に対処する方法は見つかってないね、でまとまる。
結局、こまめに反応を返す世慣れた人が必要になる。
ダメと言う。自分は言わない。
それが昔の大人らしい大人像だった。
生き方で示していた。
毎日接する中で、そういえばそうだなと長い時間かかって知る。
仕事も家事も人間関係も家族と一緒の中でだんだん分かっていく。
文字で分かるのは限られてる。
「そういえば、じいちゃんが悪口いったのみたことない。じいちゃんはみんなに好かれてたな。わたしも好きだった」で分かるなら、「子どもが言うのはしょうがない」とセットなんだろうな。
だって言う方は平気で言うけど、言わない方は悪口言われても「嫌だ」も言わんじゃん?
「そんなこと言う人嫌い!」と「言い返せ」と教える方がよくないか?
できるかは別として、「言い返していい」と言う方がいいと思う。
平気で言う方はいつまでも「言ってはいけないことがある」を学ばないし、言ってはいけない思う方は「嫌だ」と伝えることを学ばない。
「人が嫌がることをしてはいけません!」と教えたら、「嫌だろうな」と「想像しない」と言うし、「想像する」と言わない。
たとえば、「まあずいぶん太ってみとっともなくなったね!」と本人に言う人は、「ストレートにものを言う」と称賛されるテレビを見て育ち、それをやっていいことだと思ったら、なぜ怒るのか分からないだろう。
普通は、言い返して笑わせるとかせず、「だまって去る」と分からないと言うよね。
あるいは、暴力に暴力で返すのは悪いことと信念で対処して耐えるか。
犯罪にあたるいじめじゃなくて、人間関係の微妙さ問題の場合ね。
そういえば、呪術廻戦の作者のメッセージに、これはお話だから言ってるけど、現実で言ったらダメよとあったな。
「やっぱりそうなんや!」と思ったけども、なぜダメなのかは分からなかった。何が言ってよくて何がダメなのか知りたかった。わたしは黙ってしまったタイプなので。
今日この記事読んでたくさんはなしていろいろわかってきた。
たとえば、「それは言ったらだめよ!」だけ言われても、なにを言ったらいいかわからないから、なにもしない以外になくなってしまう。めっちゃ我慢しちゃう。
言ったらダメなことより、言っていいことの理解がわたしには必要なのかも。
言った方がいいこと。言うべきこと?
ALSの人がウェイターとしてカフェで働くとに対する支援への疑問は、結局は「それならわたしだってリモートで働きたいわ!」という嫉妬なんだなってこともわかった。
その辺は微妙だからこれ以上ツイッターには書かないけども、「あん」と合わせていろいろ考えさせられた日だった。
ずっと昔にツイッターで言い合ってたときに、女の人が一生懸命「話題にすること自体だめ」を伝えようとして降参してたことを思い出した。
見てただけで参加はしてないけど、「なんかもやもやするけど言葉にできない!」ってずっと思ってた。
迷ったけど結論書く。
「寝たきりじゃなくても働けない人はいっぱいいるのに、寝たきりの人だけ労働支援するのはおかしくないか?」と思う。
そこで「あらゆる人に支援する」という方向に進むのが理想論だが、現実的に人と物と金を考えたら奪い合いなる。奪い合いを論じるのが政治の本質な気がするの。
他人のことに口出ししてすごく下世話なことをする。だから良い人の教育を受けると政治から遠ざかる。だって他人のことに口出ししていいとか、悪いとかいうの品がないもん。「わたしは思う/思わない」は言っても、「だからあなたもするべきだ」は品性を疑う。
賢者は政治家を遠ざける。
でも限られた資源を生かす政治家いないと弱い人から死んでいく。
この結論は言ってもいいことだったんだろうか?
―――――認識できない問題
たとえば、ある出来事に対して意見を言い合ってるのを聞いて、そこから予測できるできごを考えられない人がいるのね。
たとえば、双子座さんの特徴を読んで、自分のどの部分かみんな分かったら、「占ってほしい!」と思わなくない?
でもそこに書かれているのはとても抽象的な話だから分からないので占いを頼む。
もし本に具体的に書かれていたら、「完全に一致」しない場合、当たってないと思う。
「具体例」から「抽象化」して、また「具体的な分のケース」に当てはめる必要があるから、「抽象から具体的を想像する」よりもっと難しくなる。
わたしは西洋占星術を占い始めた時、そこが分かってなかった。だから、本のまま伝えてた。すると相手は何を言ってるか分からないわけよ。だって分かるなら買って読む方が安いし簡単なのにできないから来てるんだもん。
でも問題点が分かって、その人にカスタマイズしようとすると、うまく言葉が出てこないの。自分の中では双子座さんのイメージがあるんだけど、それを相手の状況に合わせて言語化できない。
そもそもわたしには抽象レベルという概念がないから、区別もついてなかったし。
でね、その本を読んで類推できない場合、問題はバラバラなの。
1を聞いて10知るの逆なの。
10聞いても1も分からない。
たとえば、「赤は色である」と言ったら、「じゃあ、青も色だよね」となるのが類推できる人。
「じゃあ青は? 黒は?」と「知ってる色」を全部聞いて、やっと「全部なんだ。そしてそれは色というんだ」と理解する。
この「逐一聞かないと分からない人」は、答えてくれる相手がないと考えられないの。でもそんなに付き合い続けてくれないじゃない?
わたしはね、いちいち聞かないと分からない人なんだけど、そこそこまとまりのある話をするわけよ。
たとえばさ、「赤は色である」と言って、「じゃあ青は?」って聞かれたら、相手したくなくなるじゃん?
でも「どこまでが赤と言えるのか? 赤の範囲は?」とか「〇〇も赤と言えるのか?」など相手の話に乗って質問したら、相手は否定されてないし、自分の話をもっと知りたいんだと思うから相手してくれるのよ。
でも、「青も色である」は分かってないから、青の話でも似たようなこと言うわけよ。あらゆるいろについて詳しく聞いた後で、「色」について分かるようになるわけ。
でも「青だって色だろ!」と言うのに比べて、話す内容が豊富だから、そこそこ相手になってくれるわけよ。
でも自分一人では考えはまとまらなくて、しゃべらないとまとまらないの。そこでわたしの話にたまに付き合ってくれる相手がいるから、探したり、考えたりするわけよ。
だけども、「青だって色だろ!」と言ってる人が、もしわたしと同じで「逐一答えてくれないと分からないタイプ」なら、誰も答えてくれないともやもやしたままで悲しいだろうなと思うの。
もちろん、分からないからじゃなくて、難癖付けたいだけの人もいると思うのよ。
それでも、知りたくて聞きたい人もいるんだろうなって。
わたしは、わたしが質問したことが簡単に答えられない難しい問題だと分からなかった。だから、誰も答えてくれないことに腹を立てて自分で考えることにした。
でもわたしは、そこそこ考えられたわけよ。自分で分からないなりに。
それでツイッターもない時代だから、音楽に関係ないこと音楽雑誌に投稿して精神を保つてた。 分からないことが不安だから分かったことをしゃべらずにはいられなかったの。
一見すると分かってるように見えるのだけども、わたしにはわたしが言ってることが分からない。 みんなが感心しても怒ってもなぜか分からないの。
わたしは、「大人になったら聞きたい理由を言わなければいけないんだ!」と誤解して、「こういう理由で質問がある」と言ったわけよ。
それは意見でもう質問じゃないの。そこが分からなくてすごく悩んだ。
わたしのやりたいことは質問で、相手の返事を聞きたいわけだけども、反論したことになってるとわからなかった。
そうなの。文章の効果の意味は分からなくても反論はできるの。
そして、ほんとに分からなくて困ってることが伝えられた時、わたしは自分の答えを持ってた。 困ってることを伝えられるくらい分かってたらもう問題は半分解決してるの。
だから占いでも質問した時点で半分以上解決してるの。 質問さえできなくて苦しい経験をしたことがあるから、答えてもらえない苦しさもわかるし、自分でやらないとわからないこともわかる。
もし、「じゃあ青はなに?」と聞いて全部答えてたら、自分で考えないで聞くことに頼りきるじゃん?
「青も色だ」と自分で気づくのを手伝うのが教育なんだろうね。
「それは色なんですか?」と質問できたら「色」を認識してる。「色」という言葉の中身を分かってる。
困ってることさえ分からないと「実は困ったこがあって」とは切り出せない。
まして困っている部分だけ言えない。
あったこと詳細に全部言うしかない。
認識できないって、そういう意味なの。分かる?
わたしは認識できないひとだから、認識できない苦しみが分かるし、かつての自分を助けたくて気になるんだろうな。
―――――思い出
わたしは自分が反論してると気づいてなかったから、「肯定してこうとも言える」と話題を変えられたことがすごくストレスだった。自分は答えてほしくて一生懸命はなしたのに「どうしてわたしの質問に答えないの?」と思う。
でもそもそも自分が困ってると分かってない。
ただ聞いて浮かんだ疑問を一生懸命相手の真似して気に入られようとして反論してたのだ。
だから違う話題に変えられても、一生懸命考えて「答えたら自分の質問にも答えてくれるかもしれない!」と頑張った。
だけど相手は意見交換してると思ってて、困ってて答えてほしいことが分からないわけよ。
だからまだ出てない部分を出すように話題を変えてくる。
わたしは、「こんなにわたしが困ってるのに、どうして助けてくれないんだ!」と怒っていたんだけど、自分の感情が分からなかった。
今まで「困っている」と言わなくても、事実を言えば分かってもらえてたから。
わたしは「ああなって、そうなって、こうなりました!」とことの顛末を一生懸命はなしてたから、「それなら困るだろう」と分かってくれたのよ。物語ったから。
でも理由をのべても、それが自分の事情を表すわけじゃないわけよ。だから相手には理由をいくらのべても、自分の困った話をしてることが伝わない。
たとえば、「親がわたしに聞かずにわたしのものを買ってくるのが嫌です。嫌って言っていいのはどんな時ですか?」と聞いたら、自分の話だって分かる。
でもわたしは「反対する理由はなんですか? 否定すれば否定されかえして泥沼になる。わたしなら肯定することを伝えます。なぜ反対するのですか?」的なことを言ったわけよ。
それで親に一所懸命「自分が好きなこと」を言って、やなことやめさせようとしてるとは分からんよね(笑) わたしのばかぁ。
相手「そうだね。愛が大事だね。」
わたし「そうじゃなくて、いつなら反対してほしいか答えてよ! だってわたしは嫌っていいたいんだから!」
でもずっとそう思っていたけど、自分で考えてるうちに自分が言ったことも一理あったと分かる。
否定は攻撃だ。
やめさせることは攻撃なのだ。
「親が好きなものを買う」にノーといい「やらせない」をするとき、親は自分のあり方を否定される。
いいと思ってしてたことを否定される。受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる。
こどもならば、後先構わず、「そんなのやだー!」って言うもんだといわれてる。
でもわたしは違った。喜ばそうとしてしてることは分かってるから、そこは受け止めたいわけよ。
「気持ちはうれしいけど好みじゃないかな。できればわたしが選びたい」と言えれば良かったんだけど、その一言がでなかった!
「ありがとう」と受けとることしかできなかった。自分のもやもやが、「気に入らない」なのも、「わたしがえらびたかった!」もわからなかった。言葉が出てこなかった。やな感じなのはわかるけど、もやもやしてるだけ。
「これは受け入れるべきことなの? それともなんかやだって言っていいの? 分からない!どうしたらいいか分かんないよー。 誰か答えて!」と思ってたところで出会ったわけさ。
否定でもはっきりいう方がお好みなら、「わたしにこそこそ言わずにみんなが知ることができる場所で言えってダメ出ししたくせに、今のあなたはこそこそ隠れて発言してるだけなのでムカついたから去ることにしました。人にやらせたことはやれよ! 逃げんな」と言う。
ずっと前のことだけども、はっきり理由を言えば良かった。でもダメ出ししてまでいるのが辛くて嫌になったんだよね。
言わなくても心地いい場所を知って、すごく嫌だったことを理解したの。
それはむかつくと理由と要望をいい続けるより、元気でねって去る方が楽だったから。
それは間違いじゃないと思うのよ。だってできない部分を受け入れられないのに我慢して付き合うことは好きじゃなくて義務感だもん。
はじめたことをやりとげる。投げ出さない。それだけで続けてることに意味はない。やめてよかった。楽しくなくなってるのに意地で続けてもお互い不幸だもの。
それはね、いると幸せになる経験をして「どこでも同じ」だから「これくらいは我慢すること」で理由が嘘だって分かったから。
わたしはひどいことしたのに罪を許されて愛されたから。
「どこでも同じだからじゃない。ここにいたい!」って思ったのよ。
わたしは、自分の今の気持ちを語らない人はダメなんだって理解した。
感情を交換することが不可欠なの。
そしてその感情は、心地よいものであってほしいの。
自分の気持ちを語れない、語りたくない、いろいろある。どっちであっても、自分に不可欠なことができないなら、その関係は続けられない。
わたしにとって満足いく表現であり、好ましく思う感情でないなら、「ここがダメだから嫌い」にしかならない。
直せないことなら、突き付けて言うのは救いがない。
わたしなら嫌なとこ言うより黙って去って欲しいね。
聞かれれば最後の愛情と思って言うけど、自分から否定は言わない。今なら。
――――――メモ「恋や友情とツイッター」20200903
ネットの向こうの知らない人を勝手に友だちだと親しみを感じることはありか?
わたしはありだと思うの。
だって恋や友情を感じている自分の気持ちに相手の気持ちは関係ないもの。
わたしが感じる好意は本当の気持ちだもの。
恋も、友情も、わたしは好きだけど、相手の気持ちは分からない曖昧な関係が絶対ある。
そこで「気持ちを確かめてないから友だちじゃない!」と言ったら、友だちになるハードルめっちゃ上がる。
「ノーって言われたら自分の友情も否定される」なんて思ったら、まず言わなくない?
「わたしは好きで友だちだと思っているよ」と近づくから、「無関心な態度」に傷つかずに幸福な気持ちを持ち続けられる。
わかいころは「気持ちがわかんないなら友だちじゃない!」と思って、ゼロか100かだった。
だから好きと言わないくせに、相手の態度に一喜一憂して動揺しちゃう。
でも今は、「あなたが興味なくてもわたしは好きよ」でいいと思う。
まずは自分が肯定しないと好き同士になっても疑いの気持ちは晴れないと思うのよ。
常に、「さっきまでは好きだったけど、今は好きなのかしら?」ってなるから。
だから自分の好きな気持ちを大切にして、フォローして眺めるツイッターは、「わたしはともだちだと思っているよ」でよくないか?
面白かったり、後で読みたい時に「いいね」するだけで、基本的にエアリプで返信しないけど、そういう距離感好きなの。
役立つことも面白いことも言わないからフォロワーすくないけど鍵はかけてない。
勝手に興味を持っているから、勝手に興味持たれてもいいの。
相互じゃなくていいし、読んでも読まなくてもいいところがツイッター好き。
―――――思い出2
たとえば、小さいころ気づいたら出前の時は「玉子とじうどん」を食べてた。
好きそうと与えて喜んだからだろう。
でも兄や父はカツ丼食べてて、でもそれは男の食べ物だから、わたしは食べちゃいけない気がしてた。
だから、「玉子とじうどんでいいよね」に「わたしもカツ丼食べたい!」て言えなかった。
親も悪意があってやってたわけじゃない。たぶん、「わたしもカツ丼たべたい!」って言ったら食べさせてくれたと思う。
でもうちは貧乏だったし、カツ丼は玉子とじうどんより高いから「役に立ってないわたしは食べちゃダメ!」って自分に禁じていた。
それは大人になって言えるようになったことで、当時はよくわかってなかった。
もやもやしてるだけだった。
自分で自分の気持ちがわからなくて、「どうしたらいいの?」って困ってる。
困ってることさえ分からないから助けを求めることもできない。
「カツ丼どんな味かな?」とか浮かんでるの。
実際、わたしはなかなかしゃべらないこだったそう。なかなか言葉にならないのだ。
一生懸命伝えるけども、何を伝えたいのかはわかってなくて、浮かんでくる言葉を吐き出してるだけ。
「こういう話?」と要約されてはじめて、「そう! それそれ!」なる。
だから聞いてくれる人がいないと理解が進まない。
聞いてもらうつもりで話して、返事を想像するでもいい。
そこここで助けてくれる人がいたけど、助けてくれなくて怒って「見返してやる!」と憎んだことが自立を促したんだよねー。
―――――機能不全家族
「感情を受け入れ合う」が「感情の交換」なら、「繊細な方がおおざっぱを受け入れるはできるが、おおざっぱが繊細を受け入れることはできない」から、「一番繊細な人に病が出る」のだと思う
もし、機能不全家族の一番繊細な人に病が出るが事実で、うちが機能不全なら、なにを意味するか考えたの。
「段取りをやりとりをすることはできても、感情を受け入れてもらうことができない」って意味かなって。
幼稚園の時、夏休みに宿題みたいなのがあって、できたらシールを貼ることになっていた。
わたしはシールを貼ることはとても楽しみで頑張っていた。
ところが、母がまだ終わってもないのに全部シールを貼ってしまった。
「まだ終わってないよ」と言ったら、「分からないんだから全部貼っちゃえばいいんだ」と言われた。
今なら「わたしのことなのに勝手なことしないで」がわたしの気持ちだったと分かる。
でも当時のわたしは母の理屈の正しさを考えていた。
自分の気持ちが分からなくて、「そういう考え方もある」と無理して受け入れていた。
「しゃべらなければ勝手にされない」と気づいたのはかなり大きくなってからだった。
段取り全部して、あとは動くだけにしてから、「あとはこれとこれとこれをするだけだから、やってもいい?」と聞いていた。
結局、周りの気持ちを無視してまで自分を貫く勇気はないんだよね。
「それはいいね」と言ってほしいから言う。
でも勝手にやってほしくはない。
そこをうまく説明できなかった。
もし勝手にやってほしくないだけなら、言わないで勝手にやるし、「やめろ!」と拒否したと思うの。
でもわたしは感情を受け止めて欲しい気持ちがあって、完全拒絶する気持ちにはなれなかったんだなって。
自分のことを自分の手ですすめたいはわがままじゃないよ。段取りされるの嫌なの我慢しなくていいよ。与えられる存在を受け入れなくていいよ。自分でやりたいでいいんだよ。
その上で自分の判断でお願いしてやってもらうなら納得できる。頼んでもないのに参加するのは大人が子どもにしちゃダメなこと。いっても分からないなら離れて見るのもいいの。もうひとりでできるんだと案外目が覚めるかもしれない。
他人から見て恵まれてるとしても、辛い気持ちを他人の目ではからなくてもいいんだよ。
―――――繊細すぎて分からない
相手はわたしの話に、それは悲しかったね、と共感してくれる。でもわたしは自分の感情も分からないから共感することはできない。質問して言葉で理解することはできても、分かるわけじゃない。
でも「ここは悲しいねっていうところか?」と形だけ真似るのは嘘だから嫌だし、相手も望まないと知る。
―――――全体が見えない
わたし「1本ずつ木を見ることはできるけど、全体を把握できないから、それが林なのか、森なのか、分からない」
相手「それじゃあかかる時間も、抜けた先もわからだろう」
わたし「問題の難易度が分かんないし、どうなるのか想像できない」
わたし「結論分からんと検索ワードも分からん」
わたし「関係あるとこだけ本も読めん」
相手「最初から最後まで読んで初めて関係があるかないかわかるもんね」
「その木は重要じゃない」も判断できない。全部同じくらい力を入れる。
それってわたしだけじゃない。結構な数いる。
わたしは「どうしたらいい?」と聞くから大問題になりにくい。
子分気質なんだよね。
―――――創作の影響
娘が3歳の頃、小さい袋に大きいおもちゃを入れようと挌闘してたらしい。
結局困って「ママならできるから」と頼みに来た。
「誰でも小さいものに大きいものは入れられない」と話すがなかなか納得しなかった。
元夫に話したら「信頼されてるね」と言われた。
もしかしてドラえもんを見てたから?
幼児だから大きいものに小さいものは入らないと分からなかったんじゃなくて、ドラえもんがポケットより大きい道具をだしてたから、自分もしまおうと思ったのかも。
3歳だからそこまで言えなかったのかも。
やり方があるとおもってたのかも。
だってドラえもんは未来を想像して書いた創作で、現実と違うとは知らないもん。
現実が曖昧なんだから、「これは現実ではない」とは分からない。
分からないことの方が多い時、「わたしは創作と現実の区別がつかない。なぜならわたしは現実を知らないから」とは言えない。「現実を知った!」があり、「まだ知らないことがある!」を知り、「はじめてわたしが知る現実とは違うので空想の話である」と判断できる。
―――――プライベートとパブリック
感情を交換し合う関係をプライベート。
目的を共有する関係をパブリック。
とするなら?
二つは区別されていた。
感情を交換するから特別だった。
目的を共有してるから、好き嫌いに関係なく、役立つ行動をみんながとる。
役に立たなければ「それではだめ」と言い合う。
でも目的が感情を満たすなら?
感情を満たすことを目的として共有するのがサービス業だが、尽くす方は気持ちを殺すことになる。
たとえば、セルフのお店でトマトパスタにニンニクがは入ってないか確認した。
すごくきつい雰囲気の人でめんどくさそうに嫌そうに見えた。
でもニンニクがはいってないパスタまで聞いてくれたのだ。仕事ができる。
でも気分を買うカフェで店員の雰囲気が悪いなら、家で冷凍パスタでいい。
それに対する答えいろいろ。
気持ちを満たすことを考えたら、やりたいことをサポートするはありなのだ。
だが、目的を効率よく達成することを考えたら、わざわざ問題がある人を使わなくてもよい。
感情交換するためには、自分の感情を表現できないといけない。言語化する。
身体表現と言葉で伝えれる感情が、受け入れられるものなら交換できるが、受け止められないものなら交換できない。
その人の感情が好ましく、受け入れることができる。 自分もまた感情を伝えることができる。 互いの感情を心地よく感じている。
これを好きとか、相思相愛と言うとする。
相愛相愛は特別なことで誰でも成り立つわけじゃない。
「感情を満たし合う関係を作ること」を目的とした場合、矛盾が起きる。
これはいいけど、これはいや。
いいものを選ぶ。
そして互いに選び合って相思相愛になる。
と
みんな認める。
きらいなものも受け止める。
嫌なものを避けない。
で真逆だから。
共通目的として物理的な問題解決を求めることは可能だが、感情的な解決を共有目的にすることは不可能じゃない?
学校や会社は物理的な問題を軸にする方が、「きらいだけども役立つから選ぶ」「好きだけども役立たないから選ばない」を学ぶことができるのでは?
対して、感情を受け止めることは、個人差がある。自然に沸き上がる感情を変えることはとても難しい。
「親なら子ども子どもの感情を受けとれ」は無理がある。
たとえば、うちの子は電車が好きだから駅につれていってあげよう」は物理だからできる。
しかし、同じくらい電車を好きな気持ちになれないから、感情を受けとることはできない。
おおざっぱな感性なら問題は起きないが、相手が繊細だと「感情を共有できない孤独」が起きる。
そこを解決するのは、出会いしかないと思う。
なるべくいろんなタイプの人とであって、この感情はこの人、問題解決ならこの人、など「少しずついろんな人と関わりを持つ」をする。
そこを書くのが人間関係の話なのか?
「サービス業で感情を満たす」と「品性には下限があり言ってはいけないことがあるが分からない」が結び付いた時、「金を払った相手には何してもいい」という発想が出てくるのかしら?
参加者が共通の目的を持ち、問題解決を実現する時、「自分がやりたいか?」「相手がなかよしか?」で選ぶと負ける。
ゲームの人選でやったら分かる。絶対勝てない。
ミスが許されない難しい部分に優秀な人を配置して、水が許される交代可能な部分に監視する人をつけて配置する。
うまくいえないのでもやもやする。
―――――感情のすれ違い
たとえば、遊びに行って食事をしたとしよう。
「わあ、おいしい!」と嬉しい感情を持ち、「そうだね」が返ってくるを期待したとする。
そこで「65点」と採点だけして無表情で食べたなら?
この人とは来たくないとおもうわ。
「なぜ65点をつけたのか?」といううんちくが、好意から出ているものなら聞くが、非難から出ているものなら聞きたくないと感じる。
わたしは基本姿勢が否定の人は受け付けられないのだ。
みんなそうなのか、否定することが楽しい人もいるのか、そこまでは分からない。
―――――メモ「感情労働」20200902 愛の源泉
メモ「感情労働」20200902 プライベートとパブリックの続きを考え中。
「感情を受け取り交換する」が相思相愛の関係。理想。
だが「一方的に感情的配慮をさせられる」という状態になることもある。
そうすると物凄く疲弊するのよ。その疲弊を解消するためには、自分もサービスを受けて感情を満たすの。
たとえば、夫や子どもが母親に関心を持たず、母親の感情に共感を示さない。けれども母親は夫や子どもの好みを把握し、気に入るように世話して尽くしているとする。
すると交換してないから、どんどん自分からエネルギーが出て行ってしまう。それを補うためには、気晴らしが必要になる。
好きなことを仕事にしている人は、案外遊ばないようだ。仕事をする時間が一番楽しく、仕事以外の時間も考えている。飲み会はアイデアを得るための情報収集で自分の気持ちを満たすためではないから気晴らしが目的ではない。
男女に関係なく、お客さんにありがとうと言ってもらえることを期待して、実際よい仕事ができたなら、仕事している方が楽しい。だから好調な時は仕事にのめり込みやすい。休日より勤務時間の方がウキウキするのだ。
そういうのを仕事人間というらしい。仕事が趣味。
もし本当に機能不全家族が、相手が繊細過ぎて感情を受け取れないから起こるなら、「目的を達成して感謝される」というパブリックな世界で生きるように訓練した結果じゃないの?
よいかわるいか別にして、昔の女の子は家の中で育つ。
そこで働き手として目的達成の一員として力強く働いた農家の娘は、男っぽいさばさばしたところがある。
だが、商人の家で習い事やきれいな着物をきて芝居見物をするような贅沢な生活をして、いいところに嫁にいった場合、肉体労働者ではないのだ。
使用人を使って用事を達成する。その時、厳しく暴力でいくか、心遣いをして自分に惚れさせて「尽くすことが幸せ」な状態を作り、「この人の役に立ちたい」という感情を引き出せるか。 「好かれる」は、感情交換をしているから起きるなら?
「わたしのこと分かってくれてる」という安心感を与える役割を果たす場合、それは女性性を使っていると言えないか?
やさしさ、気遣い、してくれたことを受け入れる。
これらは自発性ではなく、相手に応じて起きる。
自分が問題を認識して、自分が解決案を考えて、自分が実行して結果を出す。
勇気、積極性、働きかけ。
これらは相手に関係なく、自分から生まれる。
自然や社会を相手にしていて個人ではない。
※「わたしは好きだから友だちだと思っているよ」と自分から働きかけるのは男性性かも。
最終的には「解決する勇気を持ち、実行部隊の中で、周りへの優しさを持つ」という両性持つ状態が望ましいのだろう。
だが、一度に両性を育てることはできない。
「受け入れる」という属性は、他人に頼る暮らしをしていないと身につかないのだ。
「独立して一人暮らしをして、自分が思った通りに決める」を経験して、そこに喜びを感じた人は、「相手次第で動く」がものすごく苦痛になる。 わたしもそうだが、幼児の相手を一日して、自分の時間がないことは耐えがたい苦痛なのだ。
だが、誰かが感情を受け取り与える「愛」を注がないと、人は孤立してエネルギーを失ってしまう。
もし、相手から期待するだけの愛が返ってくるなら、愛し愛され、心地よいから末永く続くだろう。
だが、望まないことをされた時、頼る立場で毅然と「受け入れつつ指導する」をするのは難しい。
まして「自分の感情を言葉にできなくて何を感じているか自分でも分からないから気持ちを返せない」という未成熟な人に「感情を向け続けること」は、ものすごく難しい。
基本、宗教はそういう愛を目指す。相手が愛を返してくれなくても愛し続ける。
この無償の愛を「母の愛」として神聖視する傾向があるが、期待するだけ感情を返してくれない相手に愛を注ぎ続けることは死ぬかもしれないほど恐ろしい行為であり、誰でもできることではない。
もし母の無償の愛を無条件に信じているなら創作の影響を受け過ぎだ。
物理的な問題解決は、お金という報酬がある。好きな仕事で満足のいく生活ができるお金をもらっているなら、それが一番の趣味になる。もし、自分が仕事で身につけたスキルを後任に受け継ぐ役割を果たすなら、それ以上の幸せはないだろう。自分を生ききることができる。最も輝いて見える。
だが自分を生ききることと同じくらい、愛を注いで好むように世話して尽くす生き方も素敵なものだ。
パブリックで活躍することも、プライベートで活躍することも、どちらも素敵だ。
愛を注ぐ役割は宗教がしてきた。
だが、組織化して頂点を極めようとして愛を失う人もいる。
誰でも愛を注ぐ人になれるわけではないのだ。
わたしは多分、天下国家を救う大きな宗教ではなく、相手に寄り添う小さな宗教を書きたいんだろうな。
タイトル決まっているけど、それは書かないでおこう。
今度こそ完成させるのだ!
夫は仕事で成果を出して期待する感謝を得られているので感情が満たされている。だからこそ妻に「あなたのお陰」と言える。
あなたのお陰と言われた妻は、感情が満たされているので、子どもたちがわがままを許しつつ指導できる。
わがままを受け入れられたこともは愛のある人に育つ。
そういう好循環の話を「できてあたりまえ」と教えるのは間違っている。
まして「奥さんが旦那さんに尽くすから、旦那さんはいい仕事ができる。尽くさない妻が悪い」と妻に問題の原因を求めるのは間違っている。
無償の愛は当たり前ではない。理由がある愛が普通だ。
だから、自尊心が満たされない仕事についていて、愛の源がない家に愛を持たさす宗教が問われたのだろう。
貴賤のあるなかで、卑しいとされた身分に寄り添った教祖は多い。イエスもそうだ。鎌倉仏教もそうだった気がする。
しかし、多くの僧侶は愛の源泉になれない。
でもなろうとする。
―――――メモ「愛の源泉」20200903
「家事を全面的に引き受けている」なら「物理的な問題解決」をしているため、自分が決めることになる。
ここで、自分の仕事に満足する場合、家事をすることで感情が満たされ、愛の源泉になり得る。 しかし「あれもこれもしてない!」と自分を責めているなら?
愛の源泉になることは難しいだろう。 「自分は役立っている、愛されてる、必要とされている」など肯定できる事実なしに、意味もなく自分をほめたたえることは難しい。
「いきているだけで偉い」と思うことと、他人の感情を受け取る愛の源泉になることは別だ。
「わたしなんていなくなった方がいい」と思っているのに愛の源泉になることは難しい。
けれども、否定的感情を持ったことがない人は、否定感情に苦しむ気持ちが分からない。
肯定的感情を持つ同士で結びつき感情の交換をすることはできる。
しかし、否定的な感情を持つ相手に愛を注ぐ「源泉」になることは難しい。
つまり、「一度無力感に苛まれて傷つき、自分の小ささを知っている人が立ち直り、周りに関心を持つ」時、愛の源泉になれる可能性が最も高い。
わたしが知っている中では、櫻井さんが一番近い。
自分から行動する積極性も、相手を受け止める受け身の姿勢も持っていて、両性あるから。