今日は朝から馬乗って その2
授業開始の時間にやや遅れて教室に入ると、不思議なことに誰の姿も無かった。何事かと思い隣の教室を覗いてみたが、ここにも誰もいない。はて、今日は日曜日ではないはずだが。
妙に思いつつ教室に戻っても誰が来る気配もなく、必然的にすることがない。それならばいても仕方なかろうと、私が席を立った矢先、「なにやってらっしゃるんですか」という声と共に杏花がやってきた。
何をやっているかとは、まったくこちらの台詞である。というのも、杏花は高校の制服から、年甲斐もなく肌を露出した面妖な服に着替えていたからだ。この女には奥ゆかしさ、恥、慎ましやかといった概念が無いのか。
「……なんだ、その恰好は」
「なんだって、体操着ですよ。見ておわかりになりません?」
私とて体操着くらい知っている。動きやすさと速乾性を追求した薄手の服で、肌の露出がやや気になるという点以外には隙が無い。しかし、杏花の着るそれは私の知るものとかなり異なっていた。
上着の胸の辺りに、平仮名で『きょうか』と書かれた布が縫い付けてあるのはまだいい。いや、良くは無いが、まだマシだ。問題は、下に履いているそれが異様に短いという点である。私の知る体操着が膝にかかる長さほどあるのに比べて、あれはその3分の1の長さも無い。太ももは当然のようにことごとく露わになっている。あれでは、下手を打てば尻まで見える。
破廉恥な恰好の正体を問うと、杏花は「ブルマですよ♡」とわけのわからぬ単語を聞かせた。詳細を聞けば、古来より日本に伝わる〝男殺しの神器〟だそうな。もちろん、毛頭信じていない。
「まあ、本来であればこの学校の体操着を着なければならないのですが、あいにくまだ届いておりませんので。その代わりにと家から持ってきちゃいましたっ♡」
「待て。そんなものを何に使っているというのだ」
「あたしの個人的な趣味など、どうだっていいじゃありませんか。それより、お屋形様もお早く体操服にお着替えになりませんと。今日は急きょ体育祭が催されることとなり、一年生は校庭に集合だそうです」
なるほど。教室に生徒がいない理由は理解した。しかしせっかく初めて制服を着てきたというのに、秀成に披露する機会を奪われるとは。……いや、別にそこまで何かを期待してのことではないが。この恰好に対する他人の感想を聞けないのが無念なだけだが。
ともあれ、なんだか拍子抜けだ。思わず肩を落として息を吐くと、杏花が「まあまあ」と私の頭を撫でた。
「秀成殿に制服姿を見てもらうなど、いつでも出来るではありませんかっ♡」
「おっ、お前は勝手に私の心を読むなッ!」
☆
普通の体操服に着替えた私は、杏花と共に校庭へ出た。校庭には既に多くの生徒がいて、何やら皆一様に不思議そうな面持ちでにわかにざわつくばかり。太鼓を打ち鳴らし、笛を吹いて舞い始める雰囲気は微塵も感じられない。体育と頭につくとはいえ、〝祭り〟というからにはもっと賑やかなものであると想像していたのだが、見当違いだったのだろうか。
これを杏花に尋ねると、「仕方ありませんよ」という言葉が返ってきた。聞けば体育祭なる行事は、私の想像にあったような、屋台が立ち並び、祭囃子が響き渡るそれとはまったく異なるらしく、互いの心技体を競い合い、そして高め合うような催しらしい。
「しかし、そうなると皆があのように不服そうな顔をしているのは益々奇妙ではあるな。心技体を高め合う機会を与えられているのだぞ。己が武芸を見せつけ立身出世を……とは考えないのか」
「お屋形様、お言葉ですが、今の時代には武芸のみでの立身出世など夢のまた夢。というかそもそも、この体育祭というのは互いの武芸を競い合う催しでは――」
その時、突如校庭に響き渡る法螺貝の音が杏花の声を遮った。この惚れ惚れするほど立派な、虎の咆哮の如き音は、間違いなく爺が吹くそれだ。いったいどこからと辺りを見回すうちに、今一度笛の音が大地を揺らした。周りの者は訝しげに辺りを見回している。
「あんの馬鹿ジジイっ! 何やってんのまったく!」と杏花は苛立ちを隠せない。
どこまでもふしだらな恰好をした杏花が言うべきことではないと思うが、言っていることは間違いではない。爺よ、お前はいったい何をやらかすつもりだ?
やがて生徒のひとりが「あそこだ!」と声を上げ、校舎の屋上を指した。釣られて見れば、そこにあったのは、まるで真田の赤備えの如き鮮やかな赤で染め上げられた服を着た爺の姿であった。右手にはやはりというべきか、法螺貝が握られている。
「なんだありゃ」「ヤベーなあのオッサン」「赤ジャージって、年の割に派手好きだな」「武将じゃん、本物の武将じゃん」「あんなセンセーいたっけ?」「てか、あれって先生でいいわけ?」「不審者じゃね」「いやだから武将だって」
生徒達から好き勝手に上がる雑多な声を、爺は「喝ッ!」のひと声で薙ぎ払った。相変わらず呆れるほど大きな声だ。何間離れているかわからぬほどだというのに、肌がびりびり痺れる気がする。
唸りを上げる虎を前にしてさえずろうとする小鳥はいない。静まり返った校庭をぎろりと睨みつけた爺は、さらに吠え上げた。
「お前達ッ! 立身出世はしたくないかーッ!」
あまりに突然のことにその場の空気が凍った。私も、そして杏花も困惑し、眉をひそめて互いの顔を見合わせた。「なにをしているのでしょうかあのモウロクは」と杏花が唇の動きだけで私に尋ね、私は「こちらが聞きたい」とこれまた唇の動きだけで答えた。
返ってきた沈黙に対し、爺は再び「立身出世はしたくないかーッ!」と叫ぶ。しかし、私を含めたこの場の者は爺の呼びかけになんと答えればよいのかわからず、また下手に答えても怒鳴りつけられそうだと考えているのか、答えはやはり沈黙である。
戸惑いの視線は塊となって爺まで届く。だが、その程度のもの奴は気にしない。
仕切り直しとばかりに法螺貝を「ぶぉん」と吹いた爺は、何やら大声で語り始めた。
「聞けぃ! 皆の衆! お前達には足りないものがある! 体力! 筋力! 忍耐力! そして何より、野心だ! はっきりと言ってやる! 野心無き者に、輝かしき未来はない! 今日の体育祭は、ありとあらゆる方法を用いて、それをお前達の心根に野心の大切さを叩きこむための催しだ!」
「なんだあの男は」というのが正直な感想で、そしてそれは周りの生徒も同じらしかった。怒鳴られるのが嫌で口には出さないものの、皆、爺に向けて不服そうな視線を向けている。
私達の間に漂う空気は、まるで秋雨が通り過ぎた後のように涼しげである。「もうこうなれば、満足するまで本人に語って貰い、大人しく帰って欲しい」というある種の諦念すら漂っており、こうなるとあれだけ熱く語る爺も立つ瀬がないだろう。
しかし、次に放った爺のひと言が、野心などというふた文字をすっかり忘れ去った現代人達の瞳を、さながら飢えた野良犬の如く光らせることになる。
「この体育祭において頂点に立った者達には、向こう三年間、学食を無料で供給することを約束するッ!」