国盗りは忘れて その3
驚いたのは昼休み、何の予告もなく杏花がふらりと私の教室に現れたこと。もっと驚いたのがあの女が年甲斐もなくここの生徒と同じ、やけにひらひらした服を着ていたこと。さらに驚いたのが、あの馬鹿女が「実は今日からあたしもこの学校に通うことになったのです」などと言い出したことだ。
「お、お前ッ! 今更学校という歳でもないだろうッ! 少なくとも私と10は違うはずだッ!」
「あら嫌ですよお屋形様。トシのことは言わないお約束じゃないですか」
「そんな約束した覚えなど無いわっ! それと、その服装はなんだ!」
「制服ですよ、制服。というか、この場ではお屋形様の恰好の方が浮いておりますからね? 学校の生徒は皆、この恰好をしなければならないのですが、そこらへんはおわかりですか?」
「……なんと。つまり、ここにいる者は好きであのような服を着ているわけではないと?」
「ええ、その通り」などと平然と言い放った杏花は、「それよりも」と話の筋を強引に変えにかかる。
「ここでの生活は大事ありませんか? お友達は出来ました? 勉強にはついていけておりますか?」
「心配はない。全て上手くいっている。だからお前は早く帰れ」
「お屋形様、あたしの話聞いておられました? もうあたしは今日からここの生徒なのです。午後の授業がまだ残っているうちに帰れば不良になってしまいますから。あたし、悪いコではありませんので」
よく恥ずかしげもなくここの生徒などと言えたものだ。少しは自分の年齢を考えたらどうか。
頭が痛くなってくる。それと同時に小さく腹が鳴る。そこで私は、今日はまだ水しか口にしていないことを思い出した。武士は食わねど高楊枝。しからば何食わぬ顔をせねばならないところだが、この女の前ではそれも無意味だ。
腹の虫の音を聞き逃さなかった杏花は「とりあえずはお昼でしょうか」と言うと、どこからともなくやけに派手な風呂敷で包まれた弁当箱を取り出し、「人目につかない場所を」ということで屋上へと私を誘った。
――そして、屋上の扉を開けたら秀成がいた。全くわけがわからぬ。説明を求めようと慌てて後ろを振り向いても、杏花の姿は既に無い。残されたのは弁当箱ばかりである。あの女狐、また私をからかいおったな。
秀成が近くにいるというだけで、頭の中は向こう十里先まで焼け野原。痺れ薬でも飲まされたようにちっとも身体が動かん。あの男の前に何の心構えもなく来ただけでこれだ。自分で自分が嫌になる。
軽く手を挙げた秀成は、「どうされました」と尋ねてくる。なんとか「昼食だ」とだけ答えた私は、手と足が一緒に出るなんともぎこちない歩き方で奴の元に歩み寄った。
「実は僕も、転校生の人とここでお昼の予定なんです。織田さんも一緒にどうですか? 不思議な方ですが、悪い人ではありませんし、きっと織田さんとも仲良くなれると思いますよ」
転校生というのは、恐らく杏花のことだろう。あの女が私を誘ったのも始めからこれが目的だったわけだ。粋な……いや、まったく余計なことをしてくれる。
……しかし、腹が減っていることは事実。手元には弁当もある。何より、友と語らい合いながら昼食を共にするというのはなんとも普通の高校生らしいではないか。断る理由はどこにもない。
「うむ。ならばそうしよう」
「それはよかった」と微笑んだ秀成は、弁当の包みを解いた。
「しかし、織田さんは何故制服を着ていないのですか?」
☆
制服を着ていないのがそんなに妙なことなのか。自分では特にそうは思わないのだが、面と向かって言われてしまうとどうしても駄目だ。気になってしまって仕方がない。やはり、明日からはあれを着てくるべきか。
しかし私にアレが着れるのだろうか? あの、腰に布を巻いただけの、なんとも頼りない、ヒラヒラした、脚の見える――。
考えただけで頭の中が地獄の釜の如く煮えたぎる。やはり、着るのはよそう。幸い、この恰好でも注意する教師はいないし、そもそもアレを売っている場所を知らない。そうだ。仮に着たいと願ってもアレを売っている場所がわからないのだ。だから無理だ。
昼休みを終えてからずっとそんなことを考えていると、いつの間にか今日の授業が全て終わっていた。とっとと帰ってこんな考えは忘れてしまおうと、荷物を纏めて一番に教室を出ると、廊下で私を「おい」と呼び止める者がいた。珍しい。ここで私に話しかけてくる者など、秀成か杏花くらいしかいないと思っていた。
「なんだ」と振り返らずに答えると、「なんだとはなんだ」という喧嘩腰の声が返ってくる。やけに低音の聞いた渋い声だ。しかしはて、どこかで聞いたことのあるような。
不思議に思いながらに振り返れば、そこにいたのは見知った顔。平手の爺だった。平時に着ている古臭い着物はどこへやら、隙無く着込んだ黒いスーツが、絹のような白髪と髭によく映える。
わからないのは爺がここにいる理由だ。よもや、この男まで「生徒です」などと言うつもりではなかろうな。
「聞こう。何故ここにいる?」
「なんという口の利き方だ。お前、何組の生徒だ?」
「…………もう一度だけ聞くぞ。爺は、何故、ここにいる?」
強めの口調で改めて尋ねると、目を伏せた爺は「こちらへ」と小声で言って私を化学の授業で使う教室まで案内した。初めからそうすればいいのだ。
爺は教室の外を見て、周囲に人気が無いのを確認すると、その場に坐して床に額を擦りつける勢いで頭を下げた。
「先ほどは大変申し訳ありませんでしたお屋形様っ! この爺、実は今日から、教師としてこの高校に赴任することと相成ったのです!」
なんとも呆れる答えが返ってきたものだ。杏花といい爺といい、私をひとりで外に出すのがそこまで不安なのか。私は私で、立派にやっているというのに。ひょっとすれば頭目としての威厳がまだ足りないのかもしれぬ。
いっそかの信長公のように、付け髭でもすべきかと思案しながら、私は大きく息を吐いた。
「杏花に続いて爺まで……。これでは、家にいる時となんら変わりないな」
「よもや杏花まで?! ですが、あの女の姿は職員室にはありませんでしたが……」
「杏花は生徒としてここに入ってきた。……というか、知らぬのか?」
「全く存じませんで。あの者の勝手な行動にはほとほと呆れますな」
「それはお前も同じことだろう。爺こそ、いったい何を考えている」
「……申し訳ありません。しかし、あの男の存在がどうしても気がかりで。爺は、お屋形様があの男との仲を深めるのが不安で堪らないのです」
「ば、ば、ば……馬鹿を言うなッ! 仲を深めるなど……」
もごもごと口ごもる私を見るや、虎の本性を発揮させた爺はその瞳をぎらりと光らせ、疑り深く私を凝視した。「なんだ」と私が目を逸らしながら尋ねると、爺はひと言、「惚れましたか」と呟いた。
瞬間、私の足先が爺の顎を撃ち抜いた。爺はその場に床を舐めるような形で這いつくばり、そのままぱったり動かなくなった。
打ち首獄門にならなかっただけでもありがたいと思え、この大うつけ。
〇
その日の夕食時。ピーマンの肉詰めを頬張りながら両親と話をしているうち、母親がふと「そういえば、この前の〝武将さん〟はどうしたのかしら?」と尋ねてきた。
そこで僕は、織田さんが同じ高校に通う生徒であることをまだ言っていなかったことを思いだした。それを報告するついでに、今日もまた新しく転校生が来たことを伝えると、母は大変喜ばしそうに目を細めて「あらあら」と言った。
「なんだか、転校生がずいぶん多いのねぇ。ねぇ、お父さん。わたしたちが高校生の時は、どうだったかしら?」
のんびりした口調の母の問いに、「ひとりいたかいないかくらいだな」と端的に答えた寡黙な父は、日本酒の入ったグラスを静かに傾けた。
「そうよねぇ。たいてい、そんなものよねぇ。不思議ねぇ。面白いわねぇ」
そう言って「ウフフ」と笑う母はどこまでも幸せそうである。
見た目の通りおっとりした母は、そのおっとり加減といったら右に出る者が存在しないほどである。何せ時折、右と左がどちらかわからなくなるというのだから、我が母ながら恐ろしい。この前なんて、塩と砂糖を入れ間違えてクッキーを作るだなんて漫画のようなミスをして、滅多に文句を口に出さない父もこの時ばかりは「不味い」と小さくこぼしていた。
夕食を終えて、流しで食器の片づけをしていると、ふと背後に立った母が思い出したように「ねぇ、秀成」と声を掛けてきた。
「秀成は、ふたりの転校生ちゃんと仲がいいのかしら?」
「別のクラスに来た子とはそれなりに仲がいいと思うよ。うちのクラスに来た子の方は……ちょっとわかんないかな。今日も、お昼一緒に食べようって言われたんだけど、結局すっぽかされちゃったし」
「そう」
たったふた文字のその呟きには、何故か鉛のような冷たさが感じられた。そんな感情を表に出す母をあまり見たことが無かった僕は、どうしたのだろうかと思って振り向いたが、そこにいるのはいつも通りの穏やかな笑顔を浮かべた母だった。
「織田さんと仲良くしてあげてね、秀成」
はて、転校生が来たとは伝えたが、彼女の名前をいつ教えただろうか。記憶を思い起こしても思い当たる節はなく、しかし僕が教える以外に彼女の名前を知ることはあり得ないのだから、やはり自分が無意識のうちに教えただけだろう。
浮かんだ疑問を投げ捨てた僕は、「もちろん」と答え、食器洗いの作業に戻った。