話し合って決めたこと その5
開戦の直前に試合が打ち切られたと思ったら、ダンジョーは突然、演技の優劣によって勝負をつけようと言い出した。まったく気まぐれな女だが、しかしこれには内心で感謝せざるを得ない。
何せ、秀成では剣の腕前で杏花に敵うわけがない。いくら奴がやる気になったところで、いくら奴が男気を見せたところで無駄だ。本気の杏花を前にして、一対一で勝利出来る生物なんて、この地球上には飢えたティラノサウルスくらいしか存在しないだろう。ティラノサウルスが絶滅した今となっては、つまり奴は最強である。
しかし、演技で勝負をつけるというのならば秀成にも勝機はある。杏花は芸達者な奴だから、演技だって楽にこなすのであろうが……それでも剣よりずっとマシだ。
演技のお題として発表されたのが、〝恋は小太刀、心に切り傷。あの夏の忘れ物をキミへ……〟などという意味のわからぬものである。使われているのは間違いなく日本語だというのに、異国の言葉が右から左へ流れるのと同じく、その文字列は私にとって意味を成していなかったが、杏花のことだ。どうせ何とかするのだろう。
半ば物見遊山の気分でいた私に想定していない出来事が襲い掛かったのは次の瞬間のことだ。なんと、仮設舞台から降りてきた杏花が私の手を掴み、体育館正面にあるちっぽけな江戸城が建てられた舞台に引っ張っていくではないか。困惑が身体を縛り、最初の数歩はされるがままであったが、すぐさま気を取り直した私は「何をするつもりだッ」と杏花の手を振りほどいた。しかし杏花は私の手をさっと掴み、人垣を掻き分けつつなお私を引っ張る。どうやら是が非でも私を舞台に上げたいらしい。
「杏花、せめて理由を説明しろ。何故、私が舞台に上がらねばならん」
「決まってるでしょ、〝ノブちゃん〟。あなたはこの演劇の主役なの。そしてあたしは殿の立候補者。ってことは、このアドリブ演劇で求められてるのはあなたとあたしの相性の良さ。やるしかないの、こうなったら、ふたりで」
「ま、待て! 台本も練習も無くて何をするというのだ!」
「大丈夫。あたしに考えがあるから」
大舞台に上がる短い階段まで来ると、杏花はふと足を止めて私の方へ振り返った。いやに真面目なその顔つきに、私は思わず背筋を伸ばす。
「ノブちゃん。あなたはいつものあなたのままでいい。だから、あたしの台詞に合わせて」
「合わせて」と急に言われても、出来るかどうかはわからない。まったく不安だ。――が、これはもしや好機なのではなかろうか。ここで私がわざと演技に失敗すれば、必然、杏花の評価も下がる。すなわち秀成の勝利の可能性が上がる。
そうだ。そうしよう。杏花の意図せぬことを言って、奴の演技をめちゃくちゃにしてやればいい。腹にそう決めて「わかった」と頷いた私は、大舞台への階段を上った。
白く眩い照明が舞台上の私達へ当てられる。杏花は私から少し離れたところで、物憂げに天井を見つめている。役作りは既に始まっているらしい。私の考えも知らないで、いい気なものだ。
いつの間に館内は静寂に包まれている。杏花は舞台の中央へとゆっくり歩み出しながら、大げさに両腕を広げ、そして自らを抱きしめた。
「――ああ、姫よ。あの日あの夏、あの茶会でたった一度だけお会いした姫よ。じゃがいも畑に咲く一輪の白百合の如く、可愛らしくも美しかったあの姫よ。願わくば、もう一度お会いしたい。願わくば、鈴の音が転がるようなあなたの声をもう一度聞きたい」
やけに芝居がかった声色に台詞だ。いや、これは芝居だから当たり前ではあるのだが、それにしても妙だ。一度、晴海に誘われ映像だけ見たことがある〝宝塚〟というものにそっくりである。歌舞伎や能ではなく現代劇なのだから、ここまでやるとやや不自然ではと、思わざるを得ない。
過剰な演技を続ける杏花は、胸元からふと愛用の小太刀を取り出してそれをじっと見つめる。
「しかし、あなたと私は決して結ばれぬ身。私達には親の決めた許嫁がいる。逆らうことは出来ない。……ならばいっそ、この小太刀で己が心臓を貫き、天であなたと結ばれたい!」
万感の思いを込めて小太刀を天に掲げた杏花は、それから悲壮な顔でうつむいた。しばらくそうしていたと思ったら、今度はこちらへ視線を向ける。泣き出しそうな顔はまるで甘いものを戸棚から見つけた子どものような笑顔に変わった。
「姫……! あなたはあの日、あの茶会にいらっしゃった姫なのですね?」
私の出番らしい。本来「合わせる」つもりならば、「ああそうだ」と言うのが正解なのだろうが、そうはしてやるものか。私は秀成を勝たせねばならん、なんとしてでも。
「知らんぞ、お前など。だからそこから消えていなくなれ。こんなところで死なれても迷惑だ」
すると途端に杏花から笑顔は消え失せた。やはりこの私の反応は予想外だったのだろう。しかしもっとだ。もっと攻めるべし。
「乞うような眼で見ても無駄だ。消えろ」
容赦の無い止めの一撃を放つと館内はため息に包まれた。大方、観客は〝姫と殿〟が結ばれる話を期待していたのだろう。残念だが、ここではそうはならない。
その時、私がなにか奇妙だと感じたのは、こちらに向けられる杏花の表情がどこか哀愁の漂う笑顔になっていたからだ。思わず「なんだその顔は」と問えば、奴は「いえ」と答えながら首を小さく横へ振った。
「ただ、あなたが優しい人だと思っただけのことです」
「……何を戯けたことを抜かしている?」
私の問いかけに、杏花はなおも笑みを浮かべたままである。こうなるといよいよ気味が悪い。いったい何を企んでいるのだろうか。
「覚えておりますか。あの日、あなたは私にこう言った。〝私はわたあめが嫌いだ〟、と。私は何故かと訊ねました。すると、あなたはこう答えた。〝あれを見ているとどうしても白い子犬を連想する。私は子犬を食いたくはない〟、と。それを聞いて私は思ったのです。ああ、この人はなんて愛おしく、そして優しい人だろうか、と」
なんだかどこかで聞いたことがあると思ったら、あれは私がまだ幼かった頃の話である。杏花はこれを事あるごとに私に話す。そして、そのたびに「まったく意味がわからない」と言って嬉しそうによく笑う。私としては大変恥ずかしい限りだ。
恥の血が全身に巡るのと共に、顔が非常に熱くなっていくのを感じる。どうやら杏花は、私が芝居を壊してやろうとしているのを察知して、私を辱めることに方針を変えたらしい。
「そっ、それは今関係の無い話で――」
私の顔を柔らかい感触が包み込み、そのせいで声が上げられなくなる。杏花が私のそのやたらと発育の良い胸で抱いたのだ。私は必死な抵抗を試みたが、杏花の両腕から抜け出すことは叶わず、ただもがもが言っているばかりである。
そんなことは気にする素振りを見せず、杏花は引き続き演技を行っている。
「……わかっております。私達が結ばれるわけがないなんてことは。わかっております。あなたのお気持ちは。自分のことは忘れて生きろと、そう仰りたいのですね? ですが、ですが私は――」
その時になって、ようやく拘束から逃れることが出来た私はそのまま舞台袖へと逃げた。この状況が恥ずかしくなって堪らなかった。
「姫っ! 私は諦めません! いつかあなたへ……あなたへ、今日という日の忘れ物を渡しに行きます! 必ず!」
過剰な杏花の演技が背中に聞こえる。拍手、歓声、指笛など、杏花の演技を絶賛する様々な音が塊となって館内を揺らしたのは、その直後のことだった。
☆
幾度と手を振り歓声に応えてから舞台袖へと戻ってきた杏花は、私を見つけると「素晴らしい演技でしたよ♡」とにこやかに手を振った。その笑顔を見て、ようやく私はつい先ほどまで自分が杏花の掌の上で踊らされていたことを理解した。私がめちゃくちゃなことを言ってやろうと企んでいたことも、最初から見通されていたというわけだ。
騙してやろうとした結果、逆に騙されたというのは私自身の責任だ。しかし納得出来ないのは、杏花が本気で〝殿〟の役を獲りにきていることである。「秀成を私の相手役に」と言い出したのは他の誰でもない杏花なのだ。いくら「本気でやれ」と頼まれたからといって、馬鹿正直に本気を出すことも無いだろう。
そういう類の不満をぶつぶつとぼやいていると、杏花がふと「すいませんでした」と言って私の肩に手を置いた。
「でもほら、仮にあたしやお屋形様がわざと秀成殿を勝たせて、そしてそれが彼にバレるようなことがあれば、彼はきっと殿の役を辞退します。だから本気でやったのです」
「……確かに秀成は言った。わざと勝たせて貰った勝負では、私の隣には並べないと。男らしいとは思ったが、しかし何故あのようなことを言う必要がある。己の矜持が許さないか?」
「というよりも、本能ですね。男のコというのは得てして、カワイイ女のコの前で……さらに言えば、好きな女のコの前ではカッコつけたくなるものなのですよ♡」
カワイイ。私が……いやそれよりも、その後に杏花はなんと言った。
好きだと――秀成が私を好いているというのか? 好いているというのはつまり、友人として――ではなく、男女として?
秀成はお前が好きらしいぞ――好きで留まるわけがあるか。奴は既にお前を愛しているのだ――そんなことより戦の準備だ――。
三様の意見を持つ三人の私が膝を突き合わせて話し合っている奥座敷は、既に炎上が始まっている。その炎の勢いは止まることを知らない。もはや全焼は避けられぬ。
あまりの暑さに視界がぐるぐると回ってきて、ついに私は気を失った。