答えは変わらないよね? その1
午前六時四十五分。夏休み終了の十日前から慣らしていたおかげか、目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。少しだけ顔を傾け、カーテンの隙間から差し込む太陽の光に僕は目を細める。休み明け初日にふさわしく、外は晴天そのものである。おかげか既にかなり暑い。
ダンジョーさんを家に連れ帰った昨夜は大変な騒ぎになった。と言っても、両親が〝年下の女の子〟を連れ込んだ僕を責めたわけではない。むしろその逆。僕の両親――というよりも母は、ダンジョーさんを小さなポメラニアンを扱うかの如く甘やかした。
汚れているダンジョーさんを風呂に入れ、その間に夕食を作り、風呂から出てきた彼女の髪を拭いて、ご飯をお腹いっぱい食べさせて、食後のアイスも用意して、彼女が眠るときには子守歌を聞かせながら寝かしつけて……恐らく彼女は十二歳程度だろうから、そこまでやる必要は全く無い。母の態度は見ているこちらが恥ずかしくなるほどだった。
もちろん、ダンジョーさんについて、母にだけは本当のことを告げてある。木下さんの家に仕える忍びであるということも、九条老人を追っていたということも、彼女が今もなお任務中であるということも、全て。それでも不審がる素振りを見せるどころかあの可愛がり方だというのだから、どうにも妙だ。
そのことについてそれとなく父に訊ねると、「最近お前が手離れしたから寂しかったんだろう」というような答えが返ってきた。
子供は得てして親の手を離れるものなのだから仕方がない。過保護はもう卒業したんだ。そのようなことを僕が言うと父は、嬉しそうな、それでいて少し悲しそうな顔をした。
一晩経って冷静になって考えてみれば、僕はまだまだ実家にいる身。おまけに収入だって一円も無い。そう考えれば、僕は親離れなんて浮かれたことを言える立場ではない。
昨日は父に気の早いことを言ったかもしれない。少し反省しなくては。
「――お兄ちゃん、もう夏休みは終わりなのに、お布団の中でぼーっとしてていいんですか?」
隣から突然聞こえてきた声に、僕は思わずタオルケットを蹴飛ばして跳ね起きた。見れば、先ほどまで僕が寝ていた布団にはダンジョーさんが寝ているではないか。どうりでやけに暑かったはずである。
しかし彼女は母と共に寝ていたはずだ。いったい何故と思っているところへ、彼女から直接「お母さまから起こしてきてくれと頼まれまして」と説明があった。
「……起こしてくれるのはありがたいけど、お願いだから普通にやってくれないかな」
「すいません。恥ずかしがらせてしまいましたね」
「心臓に悪いって言った方がいいかな。さすが忍びって感じだね」
僕はダンジョーさんに手を貸して起こし、「おはよう、ダンジョーさん」と朝の挨拶をした。「ダンジョーちゃんですよ」ときっちり訂正した彼女は、「おはようございます」と笑顔を浮かべた。
寝室を出て、洗面所で顔を洗ってからリビングへ行くと、既に朝食が出来上がっている。紫蘇を巻いたおむすびに、海苔の入った玉子焼きに、ツナサラダに焼き鮭にと、なんだかやけに豪華である。お客さんが来ているからなのかと思えば、母が「ダンジョーちゃんがほとんどひとりで用意してくれたのよ」と言ったので驚いた。忍びとなれば料理も出来るらしい。
「すごいわよねぇ。さすがよねぇ」
「こんなの全然たいしたことありませんよ、お母さま」
「あら、お母さまだなんて。このままウチの子になる?」
そう言ってにっこりと笑いかける母に、ダンジョーさんは輝かんばかりの笑顔で応える。その屈託のない笑顔を前にして僕は、なんとなく〝小悪魔〟という表現を連想した。
☆
あれだけ苦手だった電車にも、今となってはすっかり慣れた。人が少ない時間帯を狙えば、長時間電車に乗っていても酔わないし、〝パスモ〟とやらも使いこなせる。準急、急行で停まる駅だってもちろん覚えた。この広い世には特急、準特急、快速急行なるものもあるらしいが、使う予定は無いので問題なし。ゆえに、万事において隙は無い。
しかし、だからといって毎日のように電車を使って学校へ向かっているわけではない。繰り返しになるが電車が嫌いなわけではない。たまには黒兎と共に走ってやらねば、奴が可哀そうなだけのことだ。
そういうわけでその日、私は黒兎に乗って学校へ向かっていた。
やはり馬はいいものだ。風を受けて走るのは心地よい。多少は揺れるがそれも愛嬌である。以前、一度だけ自転車というのも試したがあれは駄目だ。いくらやっても運転できるようにならないので危なくてどうしようもない。そもそも、細い二本の車輪だけで走ろうというのが間違いだ。あれを考えた者はよほど愚かに違いない。
眩しい朝の光と、通行人からの視線を浴びつつ道を行くうち、私がばったり遭遇したのは秀成である。嬉しい誤算に高鳴る胸をなんとか抑え、あくまで毅然と「奇遇だな」と手を挙げると、秀成は「おはようございます」と頭を下げた。
「今日は馬に乗っていらっしゃるんですね」と言いながら、秀成は笑顔で黒兎のたてがみを撫でる。私は心中で黒兎に対してほんの一瞬だけ嫉妬して、即座に「何を馬鹿な」と自分の心を否定した。馬と――しかも牡馬と張り合おうなど愚の骨頂だ。
落ち着け、落ち着け私。
「……共に行くか、秀成」
「ええ。喜んで」
そうして私達は並んで歩き始めた。片や馬上で片や徒歩ではさながら主人と従者だが、秀成と共に乗馬する蛮勇をあいにく私は持ち合わせていない。
しかし、こうして秀成と共にいると否が応でもあのくノ一のことが気にかかる。いや、気にかかると言っても別にあの者を恋敵だとか、そういう風に認識しているわけではなくて、単に木下家に仕える者が秀成の家で粗相をしでかしていないか心配なだけだが。
「……時に秀成。お前の家で預かっているあのくノ一はどうだ。何か動きはあったか?」
「特段変わったことはしていません。昨日は大人しく過ごしていましたし、今日は〝任務を続行します〟と言って、僕より早く家を出て行きました」
「そういうことではない。迷惑をかけていないかとか、そういうことだ」
「それでしたらご安心を。いい子にしていますよ。今朝なんて、朝食を作って頂きましたから」
「……ほう。美味かったか?」
「ええ、とても美味しかったですよ。あの腕は子どもとは思えませんね」と秀成は感心したように言う。
……夏休み中に一度、秀成に私の手料理を食わせたことがある。あの時はたしか――否、間違いなく、「美味しいですよ」という台詞の前に「とても」という言葉は付いてこなかった。
――とても――とても――とても――。
その三文字が頭の中で幾度と反響する度に、はらわたの温度が確かに上がっていくのを感じながら、私は手綱を強く握った。
今日は暑くなりそうだ。
〇
下駄箱で織田さんと別れて僕は自分の教室へ向かった。ひと夏を経たおかげか、久しぶりに見たクラスメイトには日に焼けて肌が浅黒くなっている人が多い。話し声に耳を傾けてみれば、ハワイへ行っただとか、沖縄へ行っただとか、そういう話が聞こえてくる。しかしまさか僕のような体験をした人はいないだろうと思えば、羨ましいと思うどころか却ってちょっとした優越感があった。
クラスメイトと挨拶を交わしながら席へ着くと、ひょいひょいと跳ねるような足取りでこちらへ近づいてくるのがいる。京太郎である。マスクもしていないところを見るに、昨日の夏風邪は一晩で治ったようだ。
「よう、ヒデナリ。昨日は悪かったな。正直、さすがの俺もノーマーク。大丈夫だと思ってたんだよ。イケるって思ってたんだよ。俺がカゼなんて引くわけねーって思ってたんだよ。でも、ダメだったんだよな。どうやら俺は俺が思っている以上に頭が良いみたいなんだよな。で、仕方なく助っ人を頼んだんだけど、コイツもダメ。バタンキュー。で、結局お前ひとりにしちまったってわけなんだけど、とにかくわかって欲しいのは、俺がお前と映画に行くのが嫌になってカゼ引いたわけじゃないってところだから、そこらへんはしっかりよろしく」
長々と並べられた言い訳に、「いいよ別に」と返した僕へ、京太郎はへらへらと頭を下げながら「感謝、感謝、シェイシェイ、センキュー」などと多国籍感溢れる礼を述べてくる。一見したところ全く反省していないようであるが、彼の言葉尻からはなんとなく忸怩の思いが感じられるので、悪いと思っているのは間違いないのだろう。
「で、結局昨日はひとりで観たのか、ジュラシックワールド」
「いや、たまたま織田さんと会ってね。彼女と一緒に観たんだ」
「なんだよなんだよ」と京太郎は嬉しそうに言って僕の背中をばしばし叩いた。
「じゃ、まさかの結果オーライだったか? 夏休みの最後にヤローふたりってより、ずっとよかったんじゃねーの?」
「それはそれ。まあ、夏風邪には気をつけてよね」
「……わかったよ、まったく」
その時、教室の扉が開き、担任の中村先生が「ハイ席に着くー」と怠そうに言いながら入ってきた。頭のてっぺんの髪の毛がだらしなく跳ねている。生徒である僕達よりも、九月が始まったことを面倒くさそうにしているのはいかがなものか。
教壇に肘を突いた先生は大きなあくびをひとつしてから、「ハイ注目―」と出席簿を頭上で振る。
「突然だけど今日は、体験入学生がこの教室にやってきまーす」
にわかに教室が色めき立つ。「ずいぶん急だな」「今度はなんだ」「次こそナイト系女子か」などと期待と不安が入り混じる声が上がる中、僕は何故か背中に冷たいものを感じた。この正体不明の嫌な予感はなんだというのか。
「先生、体験入学生ってなんなんスか?」とクラスを代表して手を挙げるのは京太郎だ。どうやら彼は体験入学生について知らなかったらしい。いち早く噂を嗅ぎつけることには定評のある京太郎が知らないとは。珍しいこともあるものだ。
「体験入学生は体験入学生。ハイ、説明終わり」
「それじゃ全然わかんないスよ。そんな噂も聞こえてこなかったですし」
「仕方ないでしょーよ。私だって今朝知ったんだもん。校長からポンって肩叩かれて、新学期早々だけどよろしくって言われたんだもん」
ふてくされたように言って京太郎からの質問を打ち切った先生は、教室の外へ向けて「入っていいよー」と声を掛ける。すると扉が僅かに開き、近所の中学校の制服を着た体験入学生がそこから上半身だけ覗かせた。
僕を見つけて小さく手を振った、見覚えのある金色の髪の〝体験入学生〟は――まさかのダンジョーさんである。
クラスメイトの視線が一斉にこちらを向き、僕はきりきりと胃が痛むのを感じた。