今何か言いかけたでしょ? その5
不躾な願いを突然申し出てきた、ダンジョーなどというすぐに裏切りそうな名前のくノ一にも驚き呆れたが、それ以上に驚き呆れたのは、秀成がその願いを即座に断らなかったことだ。懐から〝すまほ〟を取り出し、「ちょっと母さんに訊いてみるよ」と言いながら灯光に電話をしようとした秀成を見た時、私が小太刀を鞘から引き抜いたのは言うまでもない。
「なッ、何故断らん! 何を考えているのだお前はッ!」
「お、お待ちください織田さん。ダンジョーさんも困っているみたいですし――」
「ダンジョーちゃんですよ、お兄ちゃん」
「ダンジョーちゃんも困ってるみたいですし――」
「言い直すなッ! 〝さん〟でも呼び捨てでも構わんッ!」
「とにかく、彼女も困っているみたいですし……それに彼女は〝京都会議〟の、ひいては織田さんの〝小江戸倶楽部〟のために働いているんです。そう無下には出来ませんよ」
当たり前のように諭されてしまい、私は猛烈に恥ずかしくなった。
そうだ。このくノ一は間接的とはいえ私達のために働いている。ならば丁重に扱う――とまではいかずとも、それなりの扱いをしてやらねば織田の名が廃るではないか。
秀成がよからぬ下心を持ってこの女に丁寧に対応しているわけではないということがわかり、冷静さを取り戻した私だったが、こちらの隙を突き「さっすが秀成お兄ちゃん♡」などと言いながら秀成の腕へと抱き着くダンジョーを見て、怒りの炎は再燃した。
ダンジョーを秀成から引き剥がした私は、「やはりならん!」と空に叫んだ。
「この女は私の城で預かるッ!」
「――それこそなりませんよ、お屋形様」
突然の声に振り返る。そこにいたのは杏花であった。大方、どこかで覗き見ていたのだろうが、しかしそうなると先ほど助けに現れなかったのが妙だ。そう思っているところへ、「こちらも妙な男達に襲われましてね」という説明が入り納得した。
「お屋形様、木下家とは現在良好な関係にあるといえど、その者は木下の忍び。易々と城に入れていいわけがありません」
「……ならば、この者を秀成に任せよと?」
「その通り。もちろん、秀成殿の家の許しを得られれば、の話ですが」
そう言って杏花が秀成に視線を移すと、秀成は「大丈夫だと思いますよ」と安請け合いした。了承も得ずにあの二つ返事とは、秀成は自分の両親のお人好し具合によほど自信があると見える。
こうなると、私ばかりが騒ぐだけなので恥ずかしい。みっともない女だと秀成に思われても困る。受け入れがたいが、受け入れる他ないだろう。
「……秀成、その忍びの件だが、お前に任せたい。面倒なことになるが構わないか?」
「ええ。いくら夏とはいえ、女の子を外に放り出したままでは男ではありませんから」
秀成はそう言って力強く胸を張った。
その優しさが罪なのだ。本人にはその自覚が全くないことが尚更に。
☆
その日の夜は我慢し難いほどに暑かった。窓を開けていても、入ってくるのは涼風ではなく蚊ばかりである。じっと動かないでいるにも関わらず額から汗が噴き出してくる。団扇や扇風機だけではどうにもならず、苦手な冷房を稼働させずにはいられない。とにかくそれだけ暑い夜だから、眠れないのも無理はない。見上げた天井に秀成とダンジョーが共に眠っている様が浮かぶせいでは断じてない。
秀成! 嗚呼、秀成! お前はどうして秀成なのだ!
枕元に置いてあった〝すまほ〟を拾いつつ立ち上がった私は、それを布団に向けて投げつけた。それから枕に顔を埋めて虎の如く吠えた。するとますます頭に血が昇ってくる。どうにもこれは外に出して発散出来るものではないらしい。「これではいかん」と思い直し、布団に坐して心を落ち着けようとしたが、まぶたを閉じると例の映像が脳裏に流れるので、これでは心頭滅却に至れるわけがない。
「……このッ――阿呆がッ!」
「阿呆はお屋形様ですよ! いったいどれだけ拗らせれば気が済むのですか!」
断りもなしに襖を開けて現れたのは杏花であった。紛いなりにも主君である私に向かって開口一番「阿呆」とは何事か。いや、今この時ばかりはその言葉は事実であるが、どうあれ言われて腹の立つ言葉であることは間違いない。
私が「阿呆とはなんだ」と言い返すと、杏花は「阿呆を阿呆と言って何が悪いのです」と悪びれもせず言った。
「お屋形様が明日を楽しみにしていることはわかります。ええ、痛いほどわかりますとも。あたしだって女のコ。いまのお屋形様の如く、恋に恋して恋しちゃう乙女の気持ちになるのは茶飯事と言っても差し支えありません」
「だ、誰が恋に恋する乙女かッ!」
「ええい、お黙りなさい。先ほどから大声を上げて。お時間を考えたらどうです? 草木も眠る丑三つ時、とまでは言いませんが、現在は既に十一時過ぎ。明日からは学校ですよ、学校! 睡眠は美の友達! しっかり寝ないとあっという間に肌年齢が曲がり角を迎えちゃうんですからね!」
色々となんだかわからないが、とにかくずいぶんな迫力である。勢いに負けた形となった私は、「すまなかった」と頭を下げた。すると杏花は「ま、いいんですけどね」などと途端にあっけらかんとした態度を取る。そうかと思えば私の布団に寝転がって目をつぶる。どうやらここで寝るつもりらしいが、先のこともあった手前、強くは言い出せない。どう追い返したものかと私がもごもごとしていると、杏花は天井を見上げながら口元に笑顔を浮かべ、「お屋形様」と呟いた。
「なんだ」
「ダンジョーの件、灯光様に連絡は入れてあります。念のために四王天を警備につけるという話を頂いておりますので、秀成殿に心配はないでしょう」
「そうか。感謝する」
「それと……紆余曲折あったと思われますが、夏休みは楽しかったですか?」
「……うむ。しかし、心残りもある」
「はて、なんでしょう」
「お前と祭りに行けなかった。来年こそは共に行こう。……嫌がらなければ、爺も連れてな」
「……ご安心を。たとえ嫌がっても、あたしがあの白髪頭を引っ掴んで城から引きずりだしてやりますよ」
「……そうか。感謝する」
結局その日は暑い夜だったというのに、私は杏花と布団を共にした。
これにて一話終了です。
二部につきましては、この「ダンジョーちゃん」が色々と鍵を握ります。