幕間之一 刀狩りは突然に 前編
微妙に長くなったのでふたつに分けます
武士の世が終わって幾星霜。日本人の家からは、刀・長槍・種子島なんて物騒なものはすっかり消え失せ、その後釜にはテレビ・パソコン・スマートフォンといった文明の利器がすっぽり収まった。長距離の移動には車や電車、飛行機が用いられるようになり、馬を見る機会は競馬場か牧場程度に限られるようになった。まげを結うのは相撲取りか時代劇役者くらい。袴姿を見るのも、成人式かせいぜい結婚式くらいだろう。
危険なものや不便なものは廃れ、安全なものや便利なものが普及するのは世の常だ。しかし、そんな時代の流れに堂々と逆行する人を僕は知っている。僕達の間で〝ブショー系女子〟とひそかに呼ばれている彼女の名前は織田信子。普通の服装はもちろんのこと、馬も刀も和装もよく似合う、大和撫子的魅力に溢れる素敵な女性である。
織田さんは、和装どころか甲冑姿で外を出歩くことにも疑問を抱かなかった。街中で馬に乗ることだって臆さなかった。そんな彼女を知っているからこそ、その日の彼女を見た僕は大変驚いた。どんな時にも肌身離さず刀を持っていた彼女が、何故かその日は丸腰で待ち合わせ場所まで来たのだから。
突然の刀狩り――いったい彼女に、何があったのだろうか?
☆
八月の朝。既に強い日差しを放つ太陽を、寝室の窓から目を細めつつ眺めた私は、額に滴る寝汗を手の甲で軽く拭う。昨日の夜まで降っていた雨もすっかり止んだようである。窓を開けると、湿った地面の匂いが薫ってきた。
夏休みも残すところ一週間余り。〝洛中の会〟が引き起こした例の騒動が一応の解決をみせてからというもの、私は毎日のように秀成と顔を合わせている。しかしそれにもきちんとした理由がある。ゆめゆめ誤解のないように心して聞け。
まず、騒動の間は宙ぶらりんになっていた水連の件がある。休みの間になんとしてでも秀成に泳ぎを教え込むことが私の使命なのだから、毎日顔を合わせるのは当然のことだ。それに、宿題の件もある。あれはひとりでやるよりも、ふたりでやる方がずっと効率がいいのだから、やはり毎日秀成に会うのは必然であるといえる。加えて私は、〝普通の高校生〟でなければならぬ。となれば定期的に外へ遊びに出かける必要もあって、よって友人である秀成と共にその時間を過ごすのは当たり前といえる。
こういった様々な理由があるのだから、毎日のように秀成に会うのは致し方ないことだ。向こうだってうんざりしているかもしれぬが、私とて同じ。好き好んでやっていることではないのだから、つまり――。
「またとんでもない言い訳ですね。好きならば好きと言えばよろしいのに」
「だから……私の心を読むなッ!」
振り返ると同時に鞘に納めたままの刀を渾身の力で振り抜く。しかしその一撃はあっけなく躱され、無暗に空を切るに終わる。まったく、相変わらず素早い女だ。その胸についているものは重くないのかと問いたい。
私の背後に立っていたのは杏花である。その顔に浮かべた女狐的笑みは、私をからかってやろうという気概に溢れている。
「それよりも、お屋形様。〝また〟今日も秀成殿とお出かけになるのでしょう? お着替えを持って参りましたよ」
「また」という部分がわざわざ強調されていた気がしたが、いちいち指摘したところでどうしようもない。私は「ご苦労だったな」とだけ言って杏花から着替えを受け取った。いわゆる〝普通の高校生としての恰好〟に疎い私は、秀成と出かける時は杏花に服を選ばせている。自分でやらねばならぬということは重々承知しているのだが、さっぱりわからぬのだから仕方がない。
さて、杏花の選んだ服を広げてみる。まずは上だが、これには見覚えがある。〝ティーシャツ〟と呼ばれる楽な服で、しばらく着ていてもまったく疲れないので中々気に入っている。胸の辺りに赤い英字で『HI!』と書かれているのと、やけに着丈が大きいのが気になるが、まあいいだろう。
問題となるのは下に着る方である。藍が褪せたような色合いをしているが、注目すべきはそこではない。これの股下が短い。とにかく短い。猛烈に短い。座った時に下着が――いや、もっと言えば尻が見えるのが容易に想像できる。私が制服で着ているスカートを基準に置けば、これはそれの一割程度の股下しかない。水着として着るならばまだいいかもしれぬが、もしこれを履いて道路を歩けば痴女もいいところだ。
これを杏花に訴えると、「そういうものですから♡」と至極あっさりとした返答があった。聞けば、この履物は〝ほっとぱんつ〟なるものらしく、古来より伝わる男殺しの神器のうちのひとつらしい。〝ぶるま〟なるものの時も同じ説明を聞いた覚えがあるので、つまりこの説明は嘘八百である。
このようなものを着て外を出歩けるわけがない。私は「別のものを」と言いながら着替えを投げ捨てる。畳に落ちるよりも先に、腕を伸ばしてそれを受け止めた杏花は、「何をなさいますか!」と言って不服そうに頬を膨らませた。
「せっかくお屋形様のために、秀成殿悩殺・最強コーデを選ばせて頂きましたのに!」
「のっ、悩殺してなんの得があるッ!」
「決まってるでしょう! 気取った草食系のシャイボーイに、お屋形様が女であることを実感させるのです!」
草食系のシャイボーイというのがなんだかはわからないが、とにかくくだらないことを言っていることだけはわかった。まったくなんて女だ。
私は「とにかく着ないぞ!」と宣言した後その場に坐して腕を組む。万が一、杏花が別の着替えを持ってこなければ、着物だろうと鎧だろうと着て城を出る腹積もりである。とにかくあれだけは御免だ。秀成にどんな目で見られるか、想像しただけで顔が熱くなる。
「やれやれ」と言わんばかりに杏花が首をすくめ、深く息を吐いたのはその時である。諦めたような、それでいて呆れたようなその仕草に、私はつい「なんだそのため息は」と声を荒げた。
「いえいえ。ただ、残念だったというだけです。お屋形様ならば、あたしがこれを選んだ意味が言わずともわかると思っていたのですが」
「なんだそれは」
すると杏花の瞳が「待ってました」とばかりにきらりと光る。しまった、これが狙いだったか。しかし、既に私は奴の間合いだ。気づいたところでもう逃げられない。人差し指を一本立てた杏花は、「よろしいですか」と言いながら私に顔をずいと近づける。
「偉い人は言いました。オシャレとはすなわち我慢である、と。寒い日にはあえて短いスカートを履き、熱いと感じる日にも重ね着は忘れない。そういった尊さすら感じる無謀、蛮行、あるいは大胆を、人は〝オシャレ〟と呼ぶのです。そして、女子高生とはオシャレをする生き物。ならば、お屋形様がそれを着るのは〝普通の高校生〟として過ごすためには極々自然、というよりも必須! いやむしろ運命! それを着ねば明日は始まらないと言っても過言ではないでしょう!」
我慢をお洒落というならば、今日のような暑い夏の日はうんと重ね着をするのが自然である。あんな短いものを履くのは杏花の言う〝オシャレ〟の定義とさっぱり合わない。そういう論理的な訴えで斬り返すと、杏花はまた深くため息を吐いてからさらに続けた。
「言ったばかりでしょう、〝我慢〟と。お屋形様は鎧や袴では平然と外を出歩けるお方。ですが、普通の服装に対してはとことん弱い。太陽の下に少し肌をさらしただけで破廉恥だと決めつける。そうなるとほら、改めて考えてみてください。貴女の場合は、薄手の恰好をすることと、厚手の恰好をすること。どちらが我慢と呼べますか?」
何も言い返すことが出来なかった私は、「せめてあと少し長いものを」という声を絞り出し、その場に五体を投げ出した。
☆
杏花が次に持ってきた履物が、先ほどよりも幾分か長いものであったので、私は心底安堵した。これならばまず下着や尻は見えない。太ももはほとんど露わだが、ここまでくると贅沢は言っていられない。約束の時間まで残り少ないし、これで良しとする他ないだろう。
しかし試しに着てみると、別の問題が浮上した。ティーシャツの丈が長すぎるせいでホットパンツが全て隠れ、結果として何も履いていないように見えるのである。杏花め、ロクなことを考えない奴だ。
もう他のものを持ってこさせる時間もない。仕方がないのでティーシャツの余った裾を結び、ホットパンツが見えるようにすると、杏花が「考えましたね」と感心したように言った。奴の目論見を看破してやった私は、心中でほくそ笑んだ。
後ろ手に髪の毛を軽く束ね、兜の代わりにつばが広い黒の帽子を被れば準備は完了。水着などの必需品を入れた鞄を片手に、「では行ってくる」と部屋を出ようとした私に、杏花から「お待ちください」との声が掛かる。
「なんだ。まだ何かあるか?」
「〝それ〟は置いて行った方がよろしいかと」
そう言って杏花が指したのが、私の腰にある刀である。何を言うのかと思えばこれだ。まったく、わけのわからぬことを。武士にとっての命を易々置いていって堪るものか。
「断る」と即答し、さっさと部屋を出て行こうとしたが、「なりません」という声と共に私の肩に杏花の手が掛けられた。
「よろしいですか? お屋形様の今日のコーデは刀を持つことは想定しておりません。つまりそれは、今日の貴女にとっては異物以外の何物でもないのです。置いていかねば恥をかきますよ」
「馬鹿を言え。武士にとっての命を城に置いて出れば、それこそ末代までの恥だ」
「あら。つまりお屋形様は、秀成殿に今の恰好を見られて、妙だと思われてもよろしいということですか?」
「それは」と私が言葉に詰まったところを、杏花は返す刀で斬りかかる。
「それに……お屋形様、もう薄々勘づいているころだとは思われますが、〝普通の高校生〟は刀を持ちません。貴女がそれを目指しているのならば、そろそろ決断が必要かと」
――武士を取るか、高校生を取るか。
刀を鞘から抜いた私は、揺れる刃紋をじっと見つめながら「刀狩りか」と呟いた。