武士 イン・ザ・スカイ その5
灯光を連れて部屋を出ようとすると、なにやら廊下が騒がしい。私が逃げ出したことに感づかれたのかと思いきや、どうやら違うようで、見張りの男達は口々に「侵入者が現れた」などと言っていた。詳細はわからないが騒ぎというならば好都合。逃げ出すにはこれ以上と無い機会である。
物陰に隠れて見張りをやり過ごしつつ廊下を進む。どこへ向かえばいいのかわからず、とりあえず警備の手薄な方を選んで進んでいると、進む方向とは逆から空気を震わす大きな音が聞こえてきた。「何かしら」と灯光は不安げな表情を見せるが、私はむしろその逆で、笑顔になるばかりである。
地の果てまで揺らさんとする虎の遠吠えのようなこの音は、間違いなく法螺貝の音。となればこちらへやってきているのは――。
「お屋形様ァーッ! どこにいらっしゃるかッ! いたら返事をしてくださいッ!」
このやかましい声は幼少の頃から幾度と聞いた。聞き間違えてなるものか、爺の声だ。
「ここだッ!」と声を張り上げれば、どたばたとせわしない足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえる。それと同時に正面から敵影。声を聞きつけてやってきたようだ。
私は敵を見据えたまま「爺ッ!」と叫ぶ。
「お任せを!」の声と共に私の頭上を影が通り過ぎる。私の眼前へ着地した爺は、迫り来る敵を一太刀にて斬り伏せた。残心を取るのは、呆れるほど無骨で救いがたいほど頑固な背中。大うつけが私の下に帰ってきた。
「久方ぶりだな、爺。元気そうで何よりだ」
すると爺は即座にその場に坐し、額を床にこすりつけるほど低く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした、お屋形様ッ! 平手は……この平手はお屋形様を裏切りましたッ! かくなる上は腹を切らせて頂きますが――しかし、どうか貴女を城へ送り届けるまではご勘弁を――」
「事情は灯光から全て聞いている。終わったことだ、気に病むな。しかし、ここがよくわかったな」
「追手のひとりを逆に捕らえ、お屋形様がどこにいるのか吐かせたのでございます!」
「流石だな。ならば出口もわかるな?」
「もちろんでございますッ! こちらへ!」
そう言って法螺貝を投げ捨てた爺が、私を先導しようと立ち上がったその矢先、突如廊下に声が響いてきた。地獄の業火を呑んで喉が焼けたとでもいうのか、低く、しゃがれたその声は、聴いただけでこちらの胆を冷やすほどの迫力があった。
『まだ帰ることはないだろう、織田の娘。お楽しみはこれからだというのに』
その声を聞いた灯光は、「九条」と呟き歯ぎしりした。「何者だ」と尋ねると、この声の主は洛中の会を取りまとめる老人であるとの説明があった。なるほどこの男が全ての元凶。打ち取らねばならぬ絶対の敵。
「姿を見せろ、九条。その首、今すぐ斬り落としてやる」
『この首、取って価値のあるものでもないぞ。止めておけ』
「価値ならあるぞ。私達の溜飲が下がる」
『なるほど、納得だ。しかしそれは、この者の命より価値のあるものなのか?』
「……どういうことだ」
するとやや間があった後、『のぉぶぅこぉちゃーん!』となんとも情けない晴海の泣き声が聞こえてくる。この男、どこまで下衆であれば気が済むのか。
「……晴海を返せ、今すぐに。これ以上私を怒らせたくなければな」
『案ずるな。この娘が死ぬことは無い。……まあ、お前が助けに来なければ、どうなるかはわからんがな』
灯光が「見え透いた罠ね」と呟き、爺がそれに同調する。そんなことは言われずともわかっている。しかし、だからといって見捨てることが出来ようか。仮にもあれは私にとっての〝友人〟。見殺しにすれば一生後悔する。
「……九条。晴海はどこにいる」
『この城の最下層、一番奥の部屋だ。儂もそこにいる。首を刎ねたくば、刀を忘れるな』
それきり九条の声は聞こえなくなった。爺と灯光の顔をみると、ふたりは揃って首を横に振った。ふたりの表情には諦念が漂っていた。
「わかってくれるな、二人とも。友は助けねばなるまい」
「わかっております。なりませんと止めても、止まらないであろうことも」
そう言って爺は持っていた刀を私に手渡し、代わりに灯光の身を預かった。「迷惑を掛ける」と私が謝ると、爺は「いえ」と言って私に背を向けた。
「……もしお屋形様が戻らねば、爺は腹を切りますぞ」
その言葉を「それは困るな」と笑い飛ばした私は爺の肩を叩く。
「さあ、行け。ここは私に任せ、お前は他の者を救え」
何も言わずに頷いた爺が去って行く。爺の腕に抱かれながらこちらを不安そうに見る灯光の視線に耐えかねて、私はくるりと背を向ける。
兵は私たった一人。武器は刀ばかり。しかし戦力は十分。
いざ行かん、ここが私の正念場。勝って、全てを終わらせる。
〇
右へ、左へ、正面へ。本能の訴えるままに道を選択し、天橋立を進み続けること一時間余り。柴田さんの運転するハーレーは、巨大な鉄門のある大広間まで辿り着いた。
その漆黒の門は喜多院の方にあるものと同じように、左右にそれぞれ徳川と明智の家紋が刻まれており、固く閉ざされたまま静かにそびえている。
バイクを降りた僕はヘルメットをその場に置き、誘われるかのように門に近づく。明智の家紋が刻まれた左の門に手のひらをつくと、地響きと共にそれが開いていく。さして驚くことはない。きっと、明智の人間なら誰でも出来ることなのだ。
門を抜けた先の広間には、橙色の薄明りを放つ石が埋め込まれた下へと続く細い階段があった。転ばないように慎重に下っていくとやがて扉に辿り着く。こちらは先ほどの門と違って、押しても引いてもびくともしなかったため、柴田さんが日本刀で両断した。
扉の残骸を踏み越えて進むと、明かりの点いていない埃っぽい部屋に出た。何やら巨大な獣の影がふと目についてぞっとしたが、暗闇に目が慣れてはく製だということがわかって安心した。はく製以外にも絵画や彫刻、前衛的なオブジェクトが無造作に置かれているところを見るに、どうやらここは物置らしい。
壁に手を突きながら部屋をぐるりと一周すると扉を見つけた。こちらに鍵は掛かっておらず、開いて外へ出てみると赤い絨毯が敷かれた長い廊下へと繋がっていた。
「織田さん達はどこに捕まっているのでしょうか」
「創作物であれば大抵の場合、建物の一番奥なんですが――」
柴田さんが言葉を失ったのも無理はない。部屋を出て、廊下へ一歩踏み出したその瞬間、右方向から駆け込んできた織田さんとばったり出くわしたのだから。
「お屋形様?」「織田さん?」「秀成と杏花?」と僕達は、唖然としながら互いの顔を指さし合う。これが夢でないことを確認するかのように。
それから十秒ほど沈黙があって、これが現実だと理解出来て。あまりに突然、あまりにあっさり会えたものだから笑うしかなくて。それでまだ目的の三分の一だと思えば気を緩めるわけにもいかなくて。……それでもやっぱりこの再会が喜ばしくて、僕は結局笑ってしまった。
僕は笑いながら「織田さん」と何度も彼女の名前を呼んだ。彼女も恥ずかしそうではあるが、「秀成」と僕の名前を呼び返してくれた。
「助けに参りました、織田さん! お会いできてよかったです、本当に!」
「それはこちらの台詞だッ! ……よかった、お前に会えて!」
互いに笑顔を向け合って、「よかった」「よかった」と言い合っている僕達を、「このような時は抱き合うものです」と言った柴田さんが両腕を広げて抱き寄せる。勢いのままに僕は織田さんの背中へ手を回したが、やはり恥ずかしさには勝てなくて、右腕は即座に体側に戻された。織田さんも至近距離にいるのが恥ずかしいとみえて、数秒の後、「もうよい」と言って柴田さんの腕を潜り抜けようとしたが、彼女の腕力の前にそれは叶わなかった。
僕達は互いに30cmと離れていない距離で話し合うことになった。互いの呼吸がわかる間合いは顔から火が出るほど恥ずかしく、また織田さんも同様に見えたが、柴田さんはひとり平気な顔であった。
「安心しろ、秀成。お前の母上は無事だ。今頃は平手が外へ連れ出していることだろう」
織田さんの声は上ずった調子であったが、それは「ならばあとは木下さんですね」と答えた僕も同じであった。
「晴海様がどこへ捕まっているのかはわかるのですか、お屋形様」
「ここの最下層らしい。洛中の会の者もそこにいると」
「ならば、晴海様のことはおふたりにお任せ致します。あたしはここでやることが」
そう言うと柴田さんは僕達ふたりを優しく突き飛ばし、すらりと刀を引き抜いた。「何を」と思えば、向こうの廊下から刀を持った人達が、十や二十はくだらない数でこちらに向かってぞろぞろとやってくる。援軍でないことは見るに明らかだった。
「あたしはアレをここで食い止めねばなりません。申し訳ありませんが、後のことはお任せ致します」
「柴田さんを置いてはいけませんよ。みんなで協力してなんとかしましょう」
「手助けは結構。そもそも、あなた達がいては足手まといです」
「杏花の言う通りだ」と織田さんが柴田さんの言葉に同意する。
「この女ならば問題あるまい。行くぞ、秀成」
「で、ですが、柴田さんは僕と一緒に何日も閉じ込められていて、水以外何も口にしていないような状況なんです。ひとりやふたりならまだしも、あんな数……」
織田さんの眉が僅かに動く。冷静を取り繕った表情の薄皮一枚下のところにある不安が隠せていない様子だ。
「……先の話、本当か、杏花」
「ええ。ですが、問題ありませんとも。あたしを誰だとお思いですか?」
「織田最強の刀であり……なにより、私のかけがえのない友だ」
「その通り」と微笑んだ柴田さんは僕達に背を向け、迫る敵の方を向いて刀を構える。その背中には、もう振り返られないという不退転の覚悟が見えて、僕は何も言えなくなった。
「……ここは任せたぞ。あのうつけを助けたら、すぐに戻って来る」
「ご心配なく。むしろさっさとここを片づけて、こちらから迎えに伺いますので」
織田さんは僕の腕を「行くぞ」と引く。僕はそれに抵抗することなく彼女に連れられて行った。お互い全てを承知の上でやり取りをした彼女達の覚悟を踏みにじるような真似、出来るわけがなかった。
「――〝一騎当万〟柴田杏花。これより私は修羅となるッ! 私へ刃を向ける者は、命捨てたものと思えッ!」
背後から柴田さんの声が聞こえる、先を走る織田さんと同じように、僕は彼女の方へ振り返ることはしなかった。




