武士 イン・ザ・スカイ その4
秀成の母上がここに囚われている理由はよくわからないが、助けない道理はどこにもない。「ご無事ですか」と声を掛けながら、持っていた食器を使ってなんとか手錠をこじ開けると、彼女は力なく私に倒れかかってきた。どうやら長いことこの場所に拘束されていたようだ。
「歩けますか」と尋ねれば母上は首を小さく横に振る。だからといって見捨てるわけにもいかず、母上に肩を貸した私は、弱気な彼女を「しっかりなされ」と叱咤した。
「ここから出ます。秀成の母上、せめて意識だけはしっかり保たれよ」
「……待ちなさい、織田信子。わたしを助けてはなりません。あなたにとってわたしは仇なのですよ」
「貴女が明智であることは百も承知。しかし、今はそのようなことを気にしている場合ではないでしょう」
「聞きなさい、織田信子。わたしの息子……秀成が何者かに連れさらわれた件があったでしょう」
「ですから、話をしたいのならば後で――」
「秀成を連れ去り、木下晴海と共同生活を送らせたのはわたしのやったことです。全ては、秀成と木下晴海を恋仲にするため」
思いがけない言葉によって一瞬で我を失った私は、「なんだとッ!」と喚きそうになったが、間一髪のところでそれを母上が口を塞いで遮る。「落ち着いて」と母上は言うが、あんなことを聞いて落ち着けるわけがない。
私は口を塞がれながらも、「なぜあのふたりを恋仲にする必要があるッ!」と息巻いた。
「仕方ないでしょう。わたしだって望んでやったことではありません。しかしこれも息子を救うため。強引にでもあのふたりを繋がねば、息子は殺される恐れがあったのです」
秀成が殺されると聞けば、詳しい話を聞かないわけにいかない。爆発しそうな感情をなんとか鎮め、歯を食いしばって「どういうことです」と説明を求めると、母上は神妙な面もちで話し始めた。
母上の説明によれば、そもそものきっかけは私と秀成の出会いだったという。学校生活を共にすることにより徐々に仲良くなる私達を見て、「これはいかん」と考えたのが洛中の会という組織らしい。その〝会〟とやらは、小江戸倶楽部と京都会議の争いに乗じて商売をしていた集団で、小狡い活動とは裏腹に大きな力を持っているのだとか。
私と秀成の接近はすなわち、倶楽部と会議の接近に繋がり、つまりそれは会にとっての危機である。会は秀成を消そうとしたが、そこへ「待った」をかけたのが秀成の母上だ。母上は爺と手を組んで、晴海を騙して特別な部屋を作らせ、そこで奴に秀成との共同生活を強いた。そしてふたりを結びつけることにより、会の望みである倶楽部と会議の対立関係の継続を実現させようとしたのである。
――しかし、洛中の会は母上を裏切った。会は秀成ばかりでなく、秀成の救出に向かった私達に加え、その件を企てた母上までさらい、何やら恐ろしい計画を実行している最中だという。
私と秀成が仲良くしていただけでこんなことが起きるとは。風が吹けば桶屋が儲かる理論も案外馬鹿にできないものだ――などと呑気なことを考える私は、察しの通り有頂天である。他人の目から見て秀成と仲睦まじいと思われるのは悪い気がしない。口元が自然に緩み、「えへ」と笑いが込み上げる。
しかし今は浮かれている場合ではなかろう。私は内なる信子を「うつけになるのは後にしろ」と咎め、表情をきりりと引き締めた。
「……して、その洛中の会の恐ろしい計画とは?」
「わかりません。しかし、誰かの命が奪われるであろうことはまず間違いないでしょう」
「……ならば、ますますここから出なければなりませんな。秀成達を助けだすのです」
「織田信子、話を聞いていましたか? わたしはあなたの恋心を踏みにじろうとしたのです。そんなわたしには、あなたに助けられる資格は無い」
「生憎です。私は自分が助けねば殺されるとわかっている人を、放っておける質ではない」
私は母上に肩を貸しながらさらに続けた。
「……そ、それと、恋心云々の意味がわかりかねます。疲れているならば下手なことは言わん方がいい」
きょとんとした表情になった母上は、ややあってから一転、どこか呆れたような笑顔を見せて「面白い子」と呟いた。
「……灯光でいいわよ、信子ちゃん。それに、敬語もいらない。わたし、あなたが気に入っちゃったみたい」
〇
柴田さんと共に牢を出て、細長い廊下を歩いていくと、上へと続く階段に行きついた。昇っていくと小さな神社の本殿の軒下へと出る。境内には見張りらしい数人の男が立っていたが、気づかれる前に柴田さんが気絶させて事なきを得た。
大きな月とまばらな星が夜空を照らしている。じっとりと湿った夏の空気を蝉の声が僅かに震わせている。既に夜が深いのか、車の通る音すらも聞こえない。
京太郎は先ほど、織田さん達は江戸城にいると言っていた。今この世には既に江戸城は存在しないが、かつて城であった場所には皇居がある。あのような場所に彼女達が囚われているとは考え難いが、あのタイミングで京太郎が嘘を吐くとも思えない。
「行きましょう、柴田さん。織田さん達は皇居にいるはずです」
「ええ、そう致しましょう。全てを終わらせ、元通りの生活を取り戻すのです」
江戸城――つまるところ皇居があるのは東京都千代田区であるが、僕達が向かったのは川越の喜多院であった。無論、考え無しの行動ではない。
柴田さん曰く――いくら洛中の会が大きな力を持っていたとしてもそれは国の象徴たる皇族に及ぶほどのものではなく、ならば皇居の中に織田さん達がいるのは考えにくい。そうとすれば、彼女が囚われているのは江戸城領内の地下深くだろう――と言うのである。
しかし、そうだとしてもなぜ川越なのか。その答えが以前僕と木下さんが迷い込んだ地下通路である。
あれは〝天橋立〟といって、江戸時代に徳川家が万が一の時のために作り上げた、川越から江戸城までを繋ぐ避難路らしい。地上ではどこに洛中の会の手の者がいるのかわからないことを考えれば、この選択肢しかないだろう。
それにしても〝天橋立〟とは。なんとも信じがたいことだが、こんな状況で柴田さんが冗談を言うわけがないし、なにより今更「信じられない」は通らない。そんな言葉はとうの昔に通り過ぎたところにあるのだ。
柴田さんは「準備をしてくる」とかで、僕を天橋立の入り口に残しどこかへ行ってしまった。「まだか」「まだか」と逸る気持ちを押さえつけながら待っていると、十分ほどして彼女が戻ってきた。
「お待たせ致しました」と微笑む彼女はバイクのアクセルをぶぉんと吹かす。そう、彼女はどこからか持ってきたバイクに跨がっていたのである。しかも、胸元を大きく開けたワインレッドのライダースーツを着込んでくるというオマケ付き。あれではほとんど峰不二子だ。
「なんですかそれは」と尋ねると、彼女はやけに自慢げに「ハーレーです」と答えた。聞きたいことはバイクの車種ではない。
「長い通路を抜けるのに、徒歩では時間が足りませんでしょう。事は一刻を争うのです」
「なるほど」と頷いた僕は、それをどこから持ってきたのかは聞かないことにした。今はそれを考える暇はない。
ハーレーの後部座席に跨がり、ヘルメットをしっかり被れば準備は完了。しかしそこで疑問に思ったのが、あの迷路のようになった天橋立をどう抜けるかという点である。それを柴田さんに尋ねると、なんと「全てあなたにお任せします」という答えが返ってきた。
「お任せと言われましても、こんなところをどう抜けるかなんてわかりませんよ、僕は」
そう言って僕は前方に伸びる天橋立を見た。たかがバイクのヘッドライトでは照らし切れないほどの暗黒が口を開けて待っている。ここへ飛び込むことは怖くない。怖いのは、この通路の中で迷って織田さんを助けられなかった時のことである。
「わからなくても大丈夫です。晴海様と共にここを脱出した時だって何もわからなかったでしょう。ただ、ご自分の身に流れる明智の血を信じればよろしい」
「信じろと言われましても――」
僕の不安を振り切るように柴田さんはハーレーをスタートさせる。振り落とされそうになってとっさにしがみついた先が柴田さんの腰で、僕は顔が真っ赤になるのを感じた。
加速。大きなエンジンが唸りを上げる。一筋の光が放射状に広がり闇を裂いて、僕達の行く道を示している。
四の五の言ってはいられない。賽はもう投げられたのだ。僕はなんとしてでも織田さんを救い、そして彼女に泳ぎを教わらねばならぬのだ。彼女の手料理を食べねばならぬのだ! 高校生活はじめての夏休みを充実させねばならぬのだ!
大いなる覚悟と世俗的な夏休み計画を胸に秘めた決めた僕の、「うぉぉっ!」という叫びが天橋立にこだました。