武士 イン・ザ・スカイ その3
突然の監禁生活が始まってから三日ほど経った。衣食住には困らない――というよりも気味が悪いほど至れり尽くせりだが、「いい加減にしろ」というのが本音である。
何分、晴海には秀成をさらった前科があるのだ。それだけでは飽き足らず、私までもこんな場所に閉じ込めるとはなんたるやりたい放題。天下人にでもなったつもりか。これは天誅を下して然るべきであろう。
私は忙しいのだ! 秀成を夏休みの間に泳げるようにせねばならないのだ! 天岩戸に引きこもっている暇は無いのだ!
ここから逃げ出さねばなるまいと決心して策を練ったのと、それを決行に移したのは同日のことであった。このような時に必要なのはいつだって即断即決できる行動力だ。
その日の夜のこと。おもむろに寝台の中央に坐した私は、夕食時にくすねた銀食器を懐から出した。肉を切るための小さな刃物である。
私は銀食器を腹に当て、部屋をぐるりと見回しながら「聞け」と鋭く声を上げる。
「織田信子、これ以上の辱めは受けられん。かくなる上は腹を切る。首は城に届けよ」
ややあって、『ご冗談でしょう』という声が聞こえてきたその瞬間、私は腹に銀食器を突き立てた。すると予め腹部に仕込んであった〝そぉす〟が飛び散り、敷き布団を赤黒く染める。こちらも、もちろん夕食時にくすねていたものである。
『そんな』『え?』『ウソでしょ?』といった動揺の声が上がる中、ありったけの力を顔に込め、死にゆく者の顔を作り上げた私は、もう一度食器を腹に突き立てる。布団はいっそう〝そぉす〟によって派手に染められていく。
「人間、五十年……些か足りぬが……しかし、悔い、無し……」
力なく前のめりに倒れそのまま動かないでいると、誰かが部屋に駆け込んできた。「俺のせいじゃないよな」と自分に言い聞かせるように繰り返すこの声は、間違いない、私を監視していた者の声だ。
わざと荒い呼吸をしていると、男が恐る恐るこちらへ近づいてきた。「まだ間に合うよな」と呟きながら私の身体を抱き上げようとしたその瞬間、私は男の顎を掌底で打ち抜く。男はうめき声を上げながらそぉすに塗れた布団に突っ伏し、そのまま動かなくなった。
「他愛ない」と呟きながら男が来た方を見れば、人が通れるほどに壁が割れている。そこから顔を覗かせてみると、赤い絨毯の敷かれた廊下が左右に伸びている。幅が広い割に窓が無い。壺や動物のはく製が至る所に飾ってあり落ち着かない。
周囲を警戒しながら出口を求めて歩いていくと、いくつか廊下を曲がったところで巡回の見張りがこちらの方へ歩いてくるのを見かけた。慌てて元来た道を引き返せば、こちらからも見張りが近づいてくるではないか。万事休すかと思えば、背後に扉がある。これしかないと思い切って扉を僅かに開けた私は、その隙間から素早く身体を滑り込ませた。
部屋は薄暗く、ほとんど何も見えないうえ、なんとなくひんやりとしている。扉に耳を押し当て、廊下から人の気配が消えるまでじっとしていると、背後に物音がした。
反射的に振り返ると何者かが立っているのがぼんやりと見えた。しかし妙なのは、いくら身構えていてもその人物がこちらへ襲い掛かってくる気配が無かったことである。もしかしたらこちらに気づいていないのかもしれない。ならば先制攻撃だ。
足音を立てぬようゆっくりとその者に歩み寄る。私が思わずぎょっとしたのは、その人物が敵ではなく、ここに囚われている人だと気が付いたからだ。天井から鎖で吊るされた手錠を手首に嵌められ、無理にその場に立たされていたその人は――。
「……秀成の、母上ですか?」
母上は静かに頷いて、「いかにも」とか細く呟いた。今日の彼女からは、初めて会った時に受けたようなとろんとした印象は消え失せていた。
〇
座敷牢では昼か夜かもわからないが、とにかく京太郎が牢屋まで来たのは僕達がすっかり眠った後のことだった。彼は石柵をガンガンと叩き僕達を無理に起こすと、「元気か?」などと言って、どこか酔ったような下品な笑い声を上げた。
「ワリーワリー、そんなわけねーよな。でも、もう安心しろ。こんな生活も終わりを迎えるんだからよ」
「どういう意味ですか」と静かに問いかける柴田さんだが、その声には恐ろしいほどの怒気が込められている。
「もう間もなくここには木下晴海の手下共がやってくる。お前達ふたりを殺しにな」
「仰っている意味が分かりませんね。彼女の手下に殺されるような真似はしていないはずですが?」
「アンタとあろうものがわかんねーのか? つまりお前達は、〝木下晴海をさらい、そして殺した犯人〟だ。大切なお嬢様を殺された家来がお前達を討ち取りに来るのは当たり前だろ。忠臣蔵も読んだことねーのかよ」
そこで僕は〝洛中の会〟が思い描いたシナリオを理解した。彼らは僕達を木下さんの手の者に殺させ、そして真相を知る木下さんと僕の母さえも殺してしまうつもりなのだ。そうすれば後に残るのは、何も知らされていない織田さんの恨みだけ。友人ふたりを木下家に殺された彼女の恨みだけである。
これによって織田さんの家が率いる〝小江戸倶楽部〟は、木下さんの家が率いる〝京都会議〟と対立する。今までよりもさらに深く。
――全て洛中の会の思い通りだ。
「……なるほど。つまり、貴方達は〝そういうこと〟にすると」
「そうだ。ま、あの木下のお嬢様はまだ生かしてるがな。万が一の時のための保険ってヤツだ。どっちが早いか遅いかなんざ、どうだっていいことだろ」
いくら奥歯を噛みしめても、いくら「ふざけるな」と吠えても悔しさが晴れることはない。全て知ってしまったからこそ、何も出来ないでいることが心底歯痒い。
「……まあでも、今まで友達だったよしみだ。お前達が死ぬってシナリオはひっくり返せないが、名誉の死は遂げられるようにしてやるよ。いわゆる武士の情けだな」
嬉しそうに目を細めてそう言った京太郎は、牢の中に何やら投げ込んだ。見ればそれは、長く真っ直ぐな刃を持つ日本刀であった。これで腹を切れと言いたいことは言われずとも理解できた。
「さよならを言いたいなら、江戸城の方を向けばいい。みんなまとめてそこにいる」
そうして「じゃあな」言い残した京太郎は僕達に背を向け、その場を去っていった。
小さくなっていく彼の背中を見るうち、ふと妙に手のひらが痛いことに気づいた。見てみると、握りしめるときに力を込めすぎたらしく、爪が肉に食い込んで血が出ていた。無暗に発揮される無駄な力が虚しかった。
受け入れることの出来ない大きな諦めが、眼前であぐらをかいてこちらを手招いている。僕はそれを殴りつけるように畳に拳を打ち付けた。
柴田さんを見てみれば、彼女は投げ入れられた刀をじっと見ている。怪訝そうに眉をひそめた表情の彼女は、やがて小さく「妙ですね」と誰に言うでもなく呟いた。
「どうされましたか、柴田さん」
「いえ、あの男はあたしを知っているはずなのに、何故このようなものを、と思いまして」
「どういう意味でしょうか」
僕の問いには答えないままおもむろに刀を掴んだ柴田さんは、石柵の前に立って居合いのように構えた。彼女の背からは、「何をするおつもりですか」と尋ねることすらはばかられるほどの集中力が感じられて、僕は唇をきゅっと引き締める。
漂う緊張感。まさか、あれを斬るつもりではなかろうか。いやそんな、千歳飴を切るのとはわけが違うんだから。でも、柴田さんならあるいは――などと考えていると、石柵はいつの間にか両断されており、その役割を果たすことの出来る形状ではなくなっていた。
「こういう意味です」と言ってウインクした柴田さんは、目の前の光景に唖然としていた僕の腕を掴んで引いた。
「行きますよ、秀成殿。なにをぼさっとしていますか」