武士 イン・ザ・スカイ その2
ここへ連れてこられてからどれくらいが経っただろうか。時計も窓も無いこの座敷牢では、時間の感覚が曖昧である。することもなく、そうかと言ってのんびり眠る気にもなれず、ひたすら座してこれから自分に振りかかる運命を待っていると、柴田さんが「不安にならないのですか」と呟いた。彼女は先ほど京太郎が来た時からずっと、柵の前から動いていない。
「もちろん不安ですよ。でも、騒いでも仕方がないと思いまして」
「胆が太いのですね、秀成殿は。私の本性を見ても平然としていますし」
「織田さんと出会ってから色々なことを経験しましたからね。そのおかげかもしれません。それに、女性はいくつもの顔を使い分けているものだと、父がよく言っていましたので」
笑いながらそう言うと、柴田さんはこちらを振り返り笑顔を見せた。ここへ閉じ込められてから初めて彼女の顔をまともに見た気がした。
「そういえば、せっかくなので聞いておきたいことがありまして」
「お答えします、せっかくなので」
「ならば」と言った柴田さんは、座ったままこちらへ膝頭でにじり寄ってきて、僕にこっそり耳打ちする。
「あの部屋に閉じ込められていた時、晴海様と〝どこまで〟いったのですか?」
「どこまでというのは、つまり――」
「ええ。お察しの通り、男女の関係です」
予想外の問いに思わず咳き込んだ僕は、顔が熱くなっていくのを感じながら「何をおっしゃるのです!」と叫んで畳を何度も叩いた。そんな僕を見てカラカラ笑った彼女を見て、なおさら興奮して頭に血が昇った。
「いくら閉じ込められていたからといって、そんな不健全なことをするとお思いですか!」
「まあ、盛りのついた高校生ふたりが十日間も共に過ごしたわけですし、どんな間違いが起きても不思議ではないかな、と」
「ご心配なく! 何も! ありませんでしたので!」
「ですが、あたし達が駆けつけた時はマジでキスする二秒前、という感じでしたが?」
「本当に何も無いのです! 信じてください!」
「ムキになって否定するところがまた怪しいですねぇ。キス、ホントはしちゃったのでは?」
口角を吊り上げねちっこい笑顔を見せた柴田さんは、僕の頬を人差し指で突いた。これがまた無性に恥ずかしくて、どうしようもなく居たたまれなくなった僕は、部屋の隅で転がって〝く〟の字になった。
「ご安心を♡ 秀成殿が無防備なおなごに手を出す度胸の無い紳士的な殿方であることは、重々承知していますから♡」
「も、も、もうからかわないでくださいっ!」
「いいじゃないですか。褒めているのですから♡」
「そんな風には聞こえませんっ!」
人をからかうのが好きなお方だ。しかし、不思議と嫌味が無い。織田さんもきっと彼女に苦労しながら、何かと楽しんでいることだろう。
石畳を歩く音が聞こえてきたのはその時のことである。互いに顔を見合わせて頷き合った僕達は、石柵に背を向け、唇を真一文字に結び、無愛想を決め込んだ。
すると京太郎の声が聞こえてきた。
「機嫌直せって、秀成。飯持ってきてやったんだからよ。美味いぞ、寿司」
「持って帰ってよ。僕達は君からの施しは受けない」
「――そう意地を張るな。あと何度食事が出来るかわからんのだぞ」
それはまるで地の底から這いずり出てきたように低くしゃがれた声だった。背中を氷で撫でられたような薄気味悪さを覚えた僕は思わず振り返ってしまった。
牢の中を覗き込んでいたのは、長い白髪を後ろで纏めた老人である。顔に刻まれた皺は多く、身体つきは細いが、しかし、しゃんと背が伸びているせいかそこまでの年齢は感じさせない。
加えてあの目つき――。獲物を狙う鷹か、爬虫類か、それとも鯱か……いずれにせよあれは〝狩る側〟にいる者の目つき。一般人代表みたいな僕なんかとは対照的な位置にいる人間の眼だ。
老人は牢の前に腰掛けると、京太郎の持っていた寿司桶から鮪をつまみ、一口で呑み込んだ。
「案ずるな。毒は入っておらん」
老人は嬉しそうな笑みを浮かべた。一見したところ穏やかなその表情からは温度が感じられなかった。やはり、肉食獣めいている。
「儂は九条と呼ばれている。〝洛中の会〟という組織を仕切る身だ」
「その、洛中の会とやらの方が僕なんかに何の御用ですか」
「そうだな。単刀直入に言えば、君の命が欲しい。ついでに、君の横に座る柴田杏花の命、木下晴海の命も、君の母の命も貰いたい」
九条老人の言っていることが冗談でないことは即座に理解出来た。朝起きたら顔を洗うのと同じような感覚で、この老人は日常の中で人を殺すことが出来るのだ。
「何故かとは聞かないのかね?」と九条老人は笑顔を浮かべたまま僕に尋ねる。聞きたくないという思いにどうしても抗えず、僕は老人から促されるまま「どうしてですか」と尋ねていた。
「この国には昔から、木下家が取り仕切る〝京都会議〟と、織田家が取り仕切る〝小江戸倶楽部〟というふたつの組織が存在していてな。昔から彼らの間には争いが絶えなかった。……時に秀成君、ふたつの組織が争う際に生まれるものは何かわかるかな?」
僕が首を横に振ると、九条老人は「商機だよ」と言った。
「石と石がぶつかり合う時、その間に火花が生じるのと同じ。争いには商機が付き物だ。我ら洛中の会にとってはそれが不可欠でな。だというのに、君のような男が現れてしまった」
「僕が何をしたというのです。普通に高校生活を送っていただけですよ」
「秀成君自身は知らないかもしれんが、君の母は織田殺しで有名な明智の家系でな。それだけならばまだいいが、明智は京都会議において二番手の実力を持つ家だ。そんな家の血筋の者と織田の娘である信子が、もしも結ばれればどうなるか……。すぐにとはいかないだろうが、〝会議〟と〝倶楽部〟の関係は軟化することだろう。洛中の会としては、そのような状況は断じて避けたくてね」
「ならば、僕だけを殺せばいい話でしょう。なぜみんなまで……」
「まったく、君の甘さは母譲りだな」
途端に嫌な予感がして、僕は前のめりになって「どういうことです」と尋ねる。
「言葉の通りだ。君の母は、愛する息子の命を奪われることだけはなんとか避けるために、〝京都会議〟の長である木下家の次女、晴海と君を同じ部屋に閉じ込め、相思相愛の仲にして、信子に君を諦めさせようとした。誰も死なずに済む、平和的で、刺激の無い、素晴らしい手段。……しかし、それでは不十分と言わざるを得ない。我らが真に望むのは、現状維持ではなくそれ以上。つまるところは会議と倶楽部の血で血を洗う徹底的な対立。そのためには君以外にもそれなりの犠牲が必要でな」
「……どんな恐ろしいことをするつもりですか、貴方達は」
「これ以上は聞かない方がいい。きっと、何も出来ない無力な自分が今以上に嫌になる」
まるで日向ぼっこを楽しむ老人のような微笑みでそう言った九条老人は、石柵の傍に寿司桶を置かせてその場を去って行った。老人の言った通り、僕は何も出来ないでいる自分が嫌で嫌で堪らなかった。