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恋に焦がれて本能寺 ~織田信子の受難~  作者: シラサキケージロウ
第一部 六話 アタシをここから連れ出して
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アタシをここから連れ出して その5

 日も傾きかけてきたせいか、なんとなく肌寒くなってきた。僕は「失礼」と言いながら、ソファーに座ってテレビを眺める彼女の頭を撫でた後、エアコンの設定温度を少し上げた。恐る恐る彼女の頭を撫でていた数時間前の自分がすでに懐かしく感じる。テレビのチャンネルを変えるたびに、部屋の明かりをつけるたびに彼女の頭を撫でているのだから、「慣れるな」という方が無理な話ではあるが。


 することもないのでぼんやりテレビを眺めていると、木下さんが「お腹空いたなぁ」と呟いた。こちらから何度か話を振ることはあったのだが、そのたびに「うん」とか「そやね」とかワンセンテンスでしか答えてくれなかったため、てっきり僕とは意地でも話さないと決め込んでいるのだとばかり思っていた。


「それなら、シリアルをご用意しましょう」


「イヤやなぁ、アレ。美味しくないもん」


「それはそうですが、我慢する他ありません。あれ以外に食べるものが無いのですから」


 例のチャイムが部屋に鳴り響いたのはその時のことだった。今度は何を言い出すのかと身構えていると、誘拐犯は『美味しいものを食べたい?』と僕達に尋ねてきた。


 突然の問いに僕がうろたえる一方、「食べたいっ!」と即答したのが木下さんである。なんと自分の欲に正直なお方だろうか。


『本当に食べたいの?』


「食べたいに決まってるでしょっ! あんな鳥の餌みたいなモン昼も夜も食べてらんないよ!」


『ならばその男――田中秀成に抱き着きなさい。ぎゅっと、クマの人形を抱きしめるように優しく、続けて十秒』


 途端にその場の空気が一気に冷え込んだ。心が風邪を引く気温だ。


 木下さんのおっしゃる通り、この方は変態なのだ。でなければ、高校生の男女が抱き着いているところを好き好んで見ようとは思わないだろう。


 悩ましげに腕を組み、しばし黙って天井を見上げた木下さんは、やがてふーっと大きく息を吐きながら「バカにしとるん?」と言い放つ。先ほどまでとは打って変わってやけに冷静な物言いである。さすがの変わり身の早さだ。


「いくらまともなモンが食べたい言うて、女の子がそう簡単に男の子に抱き着くわけないやん」


『ならば、鳥の餌のような食事で我慢なさい。あなたがそれで満足できるのなら、ですが』


 木下さんは冷蔵庫を睨みつけ、続けてその鋭い視線を何も無いところへ向け、最後に僕の方へと移した。何か覚悟を決めたような表情は、力の入れすぎかうっすら赤くなっている。


「……秀成くん、目ぇつぶって」


 思わず「はい?」と聞き返すと、彼女は同じ言葉を繰り返した。



 まさか、彼女はやる気だろうか? 本当に、僕を抱きしめるつもりだろうか? 



 棚からボタ餅が嬉しくないと言えば嘘になる。しかし、こんな形で女性の柔らかさを知るのは甚だ不本意である。こういったことにはしかるべき順序が存在するのだ。僕と彼女は、決してそういった関係ではない。


「……止めましょう、木下さん。シリアルでもお腹は膨れます」


「ウチだって、やりたくてやるわけやないもん。それに、ウチの手を無理やり握って、頭まで撫でておいてその言い草って、ちょっとおかしない?」


「少し手を握って、ちょっと頭を撫でるのとはワケが違いますよ。こういうことはお互い、もっと大事な人と――」


「うっさい! 我慢しろ! こっちはもう覚悟決めたの!」


 頬を真っ赤に染めた木下さんは、両腕を広げて僕にじりじり歩み寄る。とにかく逃げようと振り向いた瞬間、足がもつれてその場に倒れ込む。僕はまるで村を襲撃してきた落ち武者から逃げようとする哀れな村人のように、四つん這いになりながらも必死に逃げ延びようとしたが、食欲に取りつかれた彼女からは逃げきれず、ついには壁際に追いつめられた。


「――さ、鬼ごっこは終わりやで、秀成くん。覚悟しや?」


 それだけで人を殺せるような冷たい微笑みを浮かべた木下さんは、蛇が獲物を絞め殺す時のように首に腕を絡ませると、そのまま僕の身体をぎゅっと抱きしめた。暖かくて、柔らかくて、甘い香りが漂ってきて……何故だか僕は無性に悲しい思いをした。





 長い、長い十秒間の末、冷蔵庫を開けて出てきたのは出来合いの幕の内弁当であった。シリアルよりマシではあるが、望まない抱擁の見返りがこれではいささか釣り合わない気がしないでもない。


 木下さんの顔を見るのが無性に気恥ずかしくて、夕食はあえて彼女と時間をずらして取った。今日はこのまま彼女と視線を合わせないように、なるべく意識しないように過ごそうとしたのだが、そういうわけにもいかなかった。というのも、『ふたりで浴室に入らなければお湯を使えない』という、誘拐犯の頭の具合を疑わざるを得ない制約が用意されていたからだ。


 僕としてはいくら冷たくとも頭からシャワーを浴びればそれでよかったのだが、女性である木下さんがこの意見に賛成するわけもなく、いくら僕が「勘弁してください」と頭を下げようとも、彼女は「お風呂に入りたい」という意見を曲げなかった。


「そんな緊張せんでいいって。秀成くんは、ウチがお風呂入ってる間は目隠しして隅っこに座ってればええだけの話やから」


 そう言って僕に紺色のタオルを渡した木下さんはニッコリ微笑んだ。恐らく彼女はこの閉鎖空間の中で、僕をからかうことに楽しみを見出したのだろう。


 いくら喚いたところで運命が変わるわけでもない。大人しくタオルを目隠しとして頭に巻いた僕は、服は着たままで浴室へ入り、片隅で膝を抱えて座り込んだ。


 やがて扉が開く音と共に、木下さんが浴室に入ってくる気配がした。ひたひたという足音、蛇口を捻る音、シャワーがアクリルの浴槽を打つ音、上機嫌な木下さんの鼻歌。耳をそばだてるまでもなく、輪郭のぼやけた音が順々に聞こえてくる。この薄い布一枚隔てた向こうに、一糸まとわぬ木下さんがいるのかとふと考えてしまい、否応なしに心音は早まる。落ち着け、落ち着けと自らに言い聞かせるほどに、顔に血液が集まってきて我慢できないほど熱くなる。喉が渇く。生唾を呑み込む。また乾く。


「……木下さん、つかぬことをお聞きしますが、しばらくかかりそうでしょうか?」


「当たり前やん。まだ一分も経ってないよ」


「ですよね」と呟いた僕はため息を吐いた。


 シャワーだけかと思いきや、やがて浴槽にお湯を溜める音まで聞こえてくる。こんなのもはや生き地獄だ。いっそ耳を塞いで、ついでに両手足を縛って入ればよかったかもしれない。


「早く終われ早く終われ」と口の中で呪詛のように唱えながら進みの遅い時間を奥歯で噛みしめていると、ふいに木下さんが「なあ」と語りかけてきた。


「秀成くんって、信子ちゃんのこと本当はどう思ってんの?」


「本当も何もただの良い友人ですよ。なんですか、藪から棒に」


「えぇ~? 今さら恥ずかしがらんでもえぇやん。正直なこと、教えてよ。じゃないとウチ、あと一時間はお風呂から出んけど?」


「…………素敵な方だとは思います、とても。他人にも、もちろん自分にも厳しく、少し常識はずれなところもありますが、それを有り余って魅力溢れる方だと」


「なんよそれ、ゾッコンやん」


 ただでさえ頭に血が昇っていたところへ〝ゾッコン〟のひと言は、まさに火に油であった。ひどくうろたえた僕は「そんなことありません!」と首を横に振って彼女の言葉を否定し、それで終わるどころかついムキになって言い返した。


「だいたい、それを言うのならば木下さんだって織田さんのことが大好きじゃないですか!」


「ハァ?! ち、違うもん! 一緒にいると楽しいだけだもん!」


「それを世間では〝大好き〟と呼ぶんです! 勉強になりましたね!」


「な、なら秀成くんだって信子ちゃんのことが大好きじゃん! プールの時、あんな楽しそうにしてたじゃん!」


「ち、違いますから! あれは僕に泳ぎを教えてくれた織田さんと喜びを分かち合っていただけですから!」


「じゃあ今度信子ちゃんに会ったら、秀成くんは信子ちゃんのこと好きじゃないって言ってたって言っちゃうんだからね!」


「ならば、僕だって同じことを言ってやりますよ! 織田さん大好き人間の木下さんにはさぞお辛いことでしょう!」


「ち、違うったら違うんだから!」と叫ぶと共に僕の頭にシャワーが浴びせられる。その拍子に目隠しが流され、見てはいけないものが視界の端にちらりと映った気がする。慌てて浴室の外へ出て扉を閉めれば、扉越しに「ひゃあ!」という木下さんの悲鳴が聞こえてきた。恐らく、僕が部屋の外に出た途端に冷水へと変わったシャワーを頭からかぶってしまったのだろう。


 なんだか猛烈に気疲れして、僕はその場に座り込んだ。木下さんも座り込んだのか、浴室からはぺたんという音が聞こえてきた。


 濡れた服が少しずつ乾いていくのと同時に、だんだんと頭が冷静になってくる。あんな低レベルの売り言葉に買い言葉が、恥ずかしくて仕方がない。


 激しい自己嫌悪に陥って、僕は扉の向こうの木下さんへ「すいません」と謝る。ややあって「いいよ」と返してくれた彼女は、すっかり京ことばに戻っていた。


「……もう諦めようや。ウチら、信子ちゃん大好きやん」


「……そうしましょう。確かに僕は織田さんが好きです。木下さんと同じように」


「せやね」とやけに爽やかに言った木下さんはけたけたと子どもの様に笑った。つられて僕も笑った。誘拐されているにも関わらず、まったく呑気なものだと考えるとなおさら笑えてきた。


「どんなヤツらがウチらをさらったのかは知らんけど、ふたりで絶対ここを出よな、秀成くん。で、絶対に信子ちゃんとまた会うの」


「もちろんです」と言って僕は強く拳を固めた。



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