アタシをここから連れ出して その4
目を覚ますと僕はベッドの上にいた。さながら王族が使うような、天蓋付きの豪華なベッドである。まだ夢の中かと思い、もう一度まぶたを閉じたが、それと同時に倒れる直前の記憶が思い起こされて、僕は慌てて跳ね起きた。
周囲は白くて薄いベールで囲まれている。布団は取り込んだ直後のようにふかふかである。鼻につくのは上品な香水のような匂い。夢ではない。繰り返す、これは夢ではない。
――身代金目的の誘拐か。それとも愉快犯か。どちらでもいい。ともかく逃げなくては。
そうは思ったものの、目の前にある薄いベールの向こうに何が待っているのかと考えれば、なかなか踏ん切りがつかない。外に誰もいないことを確認するため、狸寝入りをしながら咳払いをしてみたり、大きく寝返りを打って音を出してみたりしたが、なんら反応は返ってこない。とびっきりの勇気を出して、周囲に掛けられた白いベールを静かに引き、恐る恐る隙間から顔を覗かせてみたが、ベッドルームのような薄暗いその部屋には人影がない。
千載一遇のチャンス。逃げるのならばここしかない。
ベッドを降りた僕は抜き足差し足で部屋を歩き、一切音が出ないように細心の注意を払ってドアノブを引く。僅かに出来た隙間から覗けばそこは広めのリビングルームで、同じく人の気配は無い。
存外手薄な警備体制に「詰めが甘いな」とほくそ笑みつつベッドルームを出ようとしたその瞬間、背後からガンと何かを強く打ち付けるような音が聞こえてきた。
とっさに振り向くが誰もいない。幻聴か、はたまたポルターガイストかと気が小さくなっているところにもう一度大きな音が聞こえてくる。部屋の隅に配置された大きなクローゼットからである。「何者ですか」と声を掛ければ返事の代わりにクローゼットを内側から強く扉を叩く音が聞こえてくる。どうやら誰かが入っているらしい。
もしかして、僕と同じようにさらわれた人がいるのだろうか。ならば放っておくわけにもいかない。
ガンガンと断続的に響いてくる音からは狼狽の色が隠せていない。僕は「いま開けますから」と言ってまだ見ぬその人を落ち着かせようとしたが、音は一向に鳴りやまない。中に閉じ込められている方はだいぶ混乱しているようで、扉を開けた途端に殴りかかってくる恐れさえありそうだが、四の五の言ってはいられない。
覚悟を決めて扉を開ければ、それと同時に閉じ込められていた人物が倒れ込んでくる。とっさに手を伸ばしてその人を受け止めれば、倒れてきたのはなんと木下さんであった。両手足を縄で縛られ、口に猿ぐつわを嵌められた彼女の姿はなんとも痛々しい。
いったい何故と思いながらも、木下さんを縛っていた縄を解き、猿ぐつわを取ってあげると、彼女は自由になった両手で早速とばかりに僕の胸倉に掴みかかり、「なんでアンタがここにいんのよっ!」と言い放った。
「し、知りませんよ。むしろ、僕が聞きたいくらいですから」
「しらばっくれないで! ここにいるアンタが何も知らないわけないでしょ!」
「お、落ち着いてください、木下さん。本当に何も知らないんですよ」
「うるさいっ! さっさと白状しろっっての! アタシをここから出せーっ!」
京ことばを忘れた木下さんが、胸倉を掴んだまま僕の身体をぐらぐらと揺らす。こうなるといくら「話せばわかりますから」となだめたところで無駄である。
犬養毅を突然襲った不条理をひしひしと実感していたその時のことであった。部屋中にさながら学校のようなチャイムがキンコンカンと響き渡り、続けて変声機を使ったような奇妙な声のアナウンスが聞こえてきた。
『二人とも、仲良くしなさい。なにせ今日から、あなた達はこの部屋で共に暮らすのですから』
〇
アナウンスの直後、競うようにしてベッドルームを出た僕達は、出口を求めて部屋中を探し回った。しかしこの部屋には、顔すら出せない小窓がふたつと、はめ込み式の窓がひとつ、各部屋にひとつずつある大きめの天窓と、押しても引いてもびくともしない玄関扉がひとつあるばかりで、それ以外には外界へと通じる道はありそうにない。窓は強化ガラスか何からしく、いくら叩いても傷一つつかない。そもそも仮に窓が割れたところで、地面よりも空の方が近いこの部屋から逃げられるわけがない。固定電話もなければ、ポケットに入れていたはずのスマホもない。この状況はまさしくクローズドサークル。推理小説であれば誰かが死ぬ。スリラー映画であっても誰かが死ぬ。とにかく死がつきまとう。
しばし唖然としているうちに、恐怖の水が足首の辺りまで溢れてくる気がしてぞっとした。一方の木下さんといえば既に恐怖の水に溺れているようで、「あふぅ」と呼吸を荒くしながら玄関扉を必死に叩いている。
ひどく取り乱す木下さんを見ているうちに不思議と冷静になってきた僕は、「とりあえず落ち着きましょう」と彼女をなだめたが、溺れる彼女の眼に映る僕は藁以下の存在でしかないのか、彼女は扉を叩くばかりである。
しかたなく僕はひとりで部屋を改めて見て回ることにした。何か脱出の糸口となるものが見つかるかもしれないと考えてのことだった。
玄関からリビングを繋げる短い廊下にはふたつの扉があり、それぞれトイレと風呂に繋がっている。リビングに行けばテレビやソファー、テーブル、エアコン、さらには除湿器などがあり、誘拐された身としては至れり尽くせりに思われるが、家電の類はスイッチを押しても電源が入らない。おかげで部屋が蒸し暑くてたまらない。キッチンにある冷蔵庫は動いているようであるが、扉が開かないので意味はない。コンロはいくらつまみを捻ったところで点火しない。蛇口を捻れば水は出るが、水温の調整はできない。
とりあえずソファーに腰を下ろし、「これからどうしたものか」と腕を組んで考えていると、木下さんが玄関からとぼとぼと歩いて戻ってきた。扉を開けるのは諦めたとみえる。
「……秀成くん、なんでそんなに落ち着いてるん?」
「焦る木下さんを見ていたら不思議と落ち着いてきましてね」
「……ホンマ、ええ根性しとるなぁ」
そう言って木下さんが肩を落としたその時、「ぐぅーっ」と腹の虫が悲鳴を上げる音が聞こえた。音の主が僕でないとすれば犯人はひとりしか考えられないが、あえて指摘するほどのことではない。そもそも、僕だって空腹だ。
「全然関係の無い話をします。先ほど冷蔵庫を開けようとしましたが、鍵が掛かっているらしく開きそうにありませんでした」
「……それ、いま言わなきゃいけないことなん?」
その時のことである。再び先ほどのチャイムが鳴り、続けて僕達を誘拐した犯人と思われる人物のアナウンスが聞こえてきた。
『どう? 自分達の置かれた状況がわかった?』
「いいからアタシをここから出してっ! じゃないと後で酷い目に遭わせるんだから!」と木下さんは、先ほど取り戻したばかりの京ことばを投げ捨てて、誘拐犯に食ってかかる。〝アタシ達〟とは言わず、僕を勘定に含める気がないのが彼女らしい。
『まだ駄目。でも安心しなさい。しかるべき時になればあなた達を解放してあげるつもりだし、そこであなた達がどんなに騒いだって殺すつもりも無いから』
「なんなのよアンタっ! 何が目的なのっ!」
『目的なんて無いけど。だって、楽しいからやってるだけだし』
「ふざけんなバカっ! このヘンタイっ!」
『変態で結構。ともあれ、お腹が減ったのなら冷蔵庫を開けなさい。食料が入ってるから。それに、暑くなったらクーラーをつけて。熱中症で倒れられたら困るから』
「待ってください。冷蔵庫の扉は開きませんでしたし、クーラーは電源が入りせんでしたよ」と僕が割って入れば、誘拐犯は『大丈夫』とやけに穏やかに言った。
『冷蔵庫の扉は、あなた達が手と手を繋げば開くようにできています。家電関係は、あなたが木下晴海の頭を撫でてあげれば操作が出来るようになりますよ』
すかさず「ハァ?」と馬鹿にしたのを隠さない声を上げたのが木下さんである。そのふた文字には、「馬鹿なの?」「頭おかしいんじゃないの?」「病院行けば?」などと惨憺たる侮蔑の思いが込められていたが、誘拐犯はまったく気に留めることなく『じゃあ、ごゆっくり』と言って、それからは何も聞こえなくなった。どうやらマイクのスイッチを切ったらしい。
僕と木下さんは意志を確かめあうように、互いの顔をじっと見合う。そのまま動くに動けずに立ち尽くしていたのは、誘拐犯の言うことを信じられなかったというのもあるが、何より「手を繋ぐ」「頭を撫でる」という行為が恥ずかしかったからだ。
しかし人間、どうしたって生理現象に抗えるわけがない。先ほどから汗は止まらないし、木下さんのお腹からは小さな悲鳴が断続的に聞こえている。こういうことは手早く済ませるのが吉だと考えた僕は、「繋いでみましょうか」と彼女に提案した。
「は、ハァ?! 馬鹿じゃないのアンタ! あんな奴の言うこと信じるの?!」
「ものは試しです。もし駄目ならそれで終わり。それでいいじゃありませんか」
「いいわけないでしょ! こっちは楊貴妃だって恐れ慄いて道を譲る美少女なの! 手を繋ぐなんて――」
「よくもまあそんなことをシラフで言えますね」
だんだんと見えてきた木下さんの本性に僕は呆れながらも、彼女の腕を掴んで引いた。「離せバカ!」という声が後頭部に幾度とぶつけられるが関係ない。
罵倒だけには止まらない、抓る、ひっかく、蹴るなどの手痛い抵抗にあいながらもなんとか彼女を冷蔵庫の前まで連れてくることに成功した僕は、彼女の手のひらを無理に握り、それと同時に冷蔵庫の扉を引く。すると驚くことに、扉はなんの抵抗もなくするりと開き、冷蔵庫は冷気をいっぱいに吐き出した。中を覗けば1リットルの牛乳パックとシリアルがひと箱だけ入っている。これはもしやと思い、恥ずかしさを堪えながら木下さんの頭を軽く撫でてからクーラーのリモコンを操作すれば、なんと電源が入るではないか!
命の危険は無いようだと安心しつつ木下さんを見れば、彼女は既にソファーに腰掛け、皿に盛ったシリアルに冷たい牛乳をかけて食べ始めているところである。
誘拐犯の目的はわからない。しかし、彼女との生活が前途多難であることは間違いない。