アタシをここから連れ出して その3
翌日。窓から見える空はどこまでも晴れ渡っていて、まさに絶好のプール日和である。着替えと水着、その他を詰め込んだ鞄は玄関に置いてあり既に準備は万端。やる気も申し分ない。
懸案事項は織田さんだけ。正確に言えば、織田さんの手作り弁当だけだ。
女の子が作ってくれたものならば、それが例え塩で出来たチョコレートだって喜んで食べてしまうのが男子高校生という生き物の悲しい性。しかし実際、少々アナーキーな手作り弁当が出てきた時に、お世辞で「美味しい」と言えばいいのか、素直に「美味しくない」と言えばいいのか……経験不足の僕にはそれがわからない。
織田さんは自分にも他人にも厳しい方だから、お世辞なんて使われたら怒るだろうし、しかしそれでも彼女は女の子なのだから、気を遣わねばならないところもあるだろうし――。
そんなことを考えていたところで、「なぜまともなものが出てくるとは考えないのだ」と自分自身を咎めた僕は、弁当についてはもう考えないことに決めた。清水の舞台は既に頭上なのだ。後は野となれ山となれ。
時刻は九時を回ったところ。さて、そろそろ出ようかと思ったところで家のチャイムが鳴り、それを追いかけるようにして「宅配です」の声が聞こえてきた。夏休みの無い年齢になると朝早くから大変だ。
「いま出ますよ」と言いながら扉を開けると、段ボール箱を持った宅配業者の制服姿の男性が立っていた。彼は何も言わずに持っていた箱を僕に手渡すと――懐に手をやり、取り出したスプレーを僕に向けて噴射した。
「何をするんです」と言おうとしたが舌が回らない。なんだと思った瞬間に天地が逆転する。身体に力が入らない。視界から色が失われる。意識が混濁する。
織田さん、すいません、たぶん、プールには、行けそうに――――。
☆
私が待ち合わせ場所まで着いたのは、約束の時刻の数分後のことである。遅れたのは訳あってのことで、杏花から「女は待ち合わせに遅れてくるのが礼儀」と聞かされたからだ。よくわからないが、礼儀というのならば守らねばなるまい。
電車が遅れているのであろう。周りを見回してみても秀成の姿は見当たらない。無礼な奴め。今日はたっぷりしごいてやる。
私は秀成が現れるのをじっと待った。右手に弁当、左手に着替えを持って、奴が申し訳なさそうな顔をしながら私の前に現れるのをひたすら待った。待って、待って、待ち続けた。
私の横をたくさんの笑顔が通り過ぎていく。太陽が頭の上までやってくる。汗が頬を伝って落ちる。腹の虫が小さな声を上げる。楽しそうな笑い声に混じり水を叩く音が遠くから聞こえる。秀成は一向に現れない。
空の色が赤みを増してきた。雲が橙色になる。通り過ぎる人がまた多くなる。足がもう疲れた。風が涼しい。水連場は閉演時間を迎えた。
とうとう待ち人現れず。嗚呼、まったく眠い。眠くて、眠くて敵わない。
☆
城に戻った私を門のところで待ち構えていたのは杏花である。何かあることを期待するような笑みを口元に浮かべていた杏花は、私の姿を一目見たその途端に表情を曇らせ、何も言わずに私を抱きしめた。黙ってその優しい感触を受け入れた私は、杏花の胸の中で、必死に声を上げないようにして泣いた。
子どもみたいだ、情けない。そう思えば思うほど、瞳からは無尽蔵に涙が溢れ出てくる。待ちぼうけを食らう間、あれだけ汗をかいたのに。お前のせいだ、秀成の――。
泣いて、泣いて、泣いて。ひとしきり泣いた私は杏花の横をすり抜け、自室に戻って布団へ潜った。眠れば余計なことを考えなくて済むだろうと思われたが、目をつぶっても奴の顔が浮かんでしまい駄目だった。
眠れない夜に思うのは、なぜ秀成が来なかったのかということばかりだ。そこまで私の弁当を食べたくなかったのか? それとも、私の泳ぎの教え方が気に障ったのか? はたまた、単純に私と共に過ごす時間が苦痛だったのか? どうでもいい女との約束なんて忘れてしまって他の友と遊びに出かけたか?
……なんだっていい。いずれにせよ、秀成が来なかったことには変わりないのだから。
滲む天井をじっと見上げていると、いつの間にか朝になっていた。布団から出ると腹が鳴る。こんな時にでも腹は減るのだな、などと自嘲気味に笑っていると、襖が開いて杏花が部屋に現れた。その手に持った盆には握り飯がふたつと味噌汁が乗せられている。
「お腹が空いたんじゃないかと思いまして」
言われるが早いか私は握り飯に手を付けた。喉が渇いてどうしようもなかったため、品がないのは百も承知で、握り飯を頬張ったまま味噌汁を飲んだ。失われた塩分が、水分が、細胞のひとつひとつに浸透していくようだ。
一分と経たないうちに全てたいらげた私は、その場に五体を投げ出して天井を仰いだ。だんだんとまぶたが重くなってくる。明日の朝まで眠れそうな気分だ。
夢と現実の狭間を右往左往していると、杏花が話しかけてきた。
「……お屋形様、昨日はいったい何があったのですか?」
「聞いて面白いことでもないぞ。単に、秀成が待ち合わせ場所に来なかったという単純な話だからな」
返ってきたのは沈黙であった。当然だ。こんな哀れな女を前にして、かける言葉など見つかるはずがない。
「……失敬。ひとつお尋ね致しますが、お屋形様は、秀成殿がご自分の意思で来なかったとお思いですか?」
「それ以外に何がある。まさか、水連場へ来るまで誰かに邪魔されたとでも――」
そこで私は心臓をきゅっと掴まれるような思いをした。理解と共に全身が熱くなり、思わず両手のひらで顔を覆う。
何故、このような簡単なことに気づかなかった? 秀成は待ち合わせ場所に来るまでの間、晴海かもしくは爺の手によってさらわれたのだ。最近やけに動向が静かだった晴海や、未だ城に戻っていない爺のことを少しでも考えれば、真相に辿り着くのは容易だったであろうに。どれだけ私は夏休みに心浮かれていたのだ。
ふと見れば杏花は、「ようやく気付きましたか」とすっかり呆れ顔だ。「このまぬけ」とまで言わなかったのは温情であろう。
自分のうつけ加減が心底嫌になり、また猛烈に恥ずかしくなるのと同時に、秀成は別に私のことを嫌いになったわけではなかったのだと思えば、自然に「えへへ」と笑みがこぼれてくるのも必然だった。
そんな私の額に手心を加えた手刀を放ち、「うつけ」と言って咎めた杏花は、どこか嬉しそうにため息を吐いた。