アタシをここから連れ出して その1
お久しぶりです。
がんばっていきます。
夏休みを翌日に控えたその日。一喜一憂のテスト返却も無事に終わり、教室は浮足立った雰囲気で満ちている。周りから聞こえてくるのは「夏休みをいかにして過ごすか」といった内容の話ばかりで、どこまで旅行に行くだとか、部活の練習がダルいだとか、夜通しゲームをして過ごすだとか、毎日バイト三昧だとか……皆それぞれ充実した休みを過ごすようである。
母が未だ実家のトラブルでどたばたしている我が家はつい先日、山形への旅行の話が立ち消えになったばかりである。これは大変残念ではあるが、その分、〝使命〟の遂行に集中できると思えばよかったのかもしれない。
僕の使命――それは、この夏休みの間にビート板からの卒業を果たすことだ。出来ることなら華麗なクロール、それが駄目なら平泳ぎ、背泳ぎ……最悪、犬かきでもなんでもいい。あの平べったいポリエチレン製の板とサヨナラして、前人未到の25mを独力で泳ぎきることさえできれば形はいとわない。
無論、これを楽々成し遂げられるとは思ってはいない。しかし僕には頼れる助っ人、織田さんがいる。辛く厳しい道のりになることは確かだが、やってやれないことはない。
「今年の夏は、挑戦のひと月になる」
そんな風に意気込む僕の視界の端に映るのは、机に上半身を預けたまま気怠そうに天井を眺める京太郎である。ここのところの彼はなんだかとても元気がない。テストの結果が芳しくない程度のことで気に病む男でないことはわかっていたため、どうしたのかと尋ねてみたが、返ってくるのは「調子が悪い」のひと言ばかり。それ以上は喋ることも億劫な様子である。一体、何があったのだろう。
「失恋じゃねぇの」と高山は言う。「柴田さん辺りにフラれたんだな」と青木も言う。
そう考えるのがごく自然だと僕も思う。しかし、何故だか素直に「そうだね」と頷かせてくれない〝何か〟が、今の京太郎には感じられるのだ。
その〝何か〟の正体がわからない僕に出来ることといえば、「早く元気になりますように」と彼の健康を祈ることばかりである。
☆
もう幾つ寝ると夏休みだと指折り数えて、気づけば明日からそれが始まる。爺は未だ城に帰らないが、今は奴のことを考える時間も惜しい。何せ私は明日に迫る夏休み、大変に多忙を極めるのだから。
まず、秀成の水連に付き合わねばならぬ。あのだらしない泳ぎ方を、なんとしてでも矯正してやればならぬ。これはもはや使命と言って差し支えない。
次に、〝普通の高校生〟としての喜びを味わわねばならぬ。面倒だがこれも当主となる者の勤め。しっかり果たさねば。これは恐らく秀成が得意であろうから、泳ぎの指南と引き換えに奴から教えて貰うこととする。
それに、学校から課された宿題とやらもある。休みが明けるまでにやらねばならぬらしいが、何分初めてのことなので勝手がわからない。秀成の力を借りる必要があるだろう。
するとどうだ! ほとんど毎日、奴と顔を合わせねばならぬ! まったく億劫ではあるが致し方なし! 致し方なし!
懸案事項がひとつあるとすれば、休み中、秀成とどのように連絡を取ればいいのかという点だ。学校にいる時は直接会うことが出来たが、休みの場合はそうはいかない。電話が城に無いわけではないが、あれを従者に悟られぬようには使えない。伝書鳩を飛ばすというのも考えたが、矢文の時と同じ轍を踏みたくない。
そこで密かに考えているのが、いわゆる〝すまほ〟の入手である。どのように手に入れるかは定かではないが、あれがあれば誰にも悟られぬように、かつ好きな時に連絡を取ることも容易と聞いた。文明の利器バンザイだ。早急に手に入れなければならぬ。
私は教壇に立つ教師の退屈な話を聞き流しながら、窓の外に広がる青い空に願った。
明日よ、そこでぷかぷか浮かんでいないで早くこちらの下へ来い! そして〝すまほ〟よ! 出来ることなら私の手のひらへ落ちてこい!
〇
織田さんはスマートフォンを持っていない。言うまでもなくパソコンも。固定電話が無いわけではないらしいのだが、諸般の事情で家に直接掛けるのは控えて欲しいとのことである。
夏休みの間、共にプールへ出かけることも一度や二度では収まらないだろうし、連絡を取る手段がないというのは大変な手間だ。とりあえずは、事前に時間を決めておいて待ち合わせるという、昭和のかほり溢れる手段を用いるしかないだろう。休み中、それとなく彼女を携帯ショップに誘い、購買意欲を煽ってみるのもいいかもしれない。
さて放課後のことである。初回の〝水泳教室〟の日取りを打ち合わせるため、僕は織田さんと屋上で待ち合わせていた。八月を目前に控えた太陽はいっそう厳しさを増した。立っているだけで背中が汗に濡れてくる。ミンミンゼミの声が聞こえてくるのは、夏の盛りの証拠である。
五分ほど待っていると織田さんがやってきた。くるぶしの辺りまである長いスカートを見ると、彼女らしいと思う反面、暑くないのだろうかと心配になる。だからといってミニスカートなど履かれてしまえば、それはそれで別の意味で心配なのだが。
「待たせたな」と軽く手を挙げた彼女は、給水塔の陰に隠れ、さも暑そうに額の汗を拭う。
「さて、水連の予定だがいつにする?」
「織田さんにも予定があるでしょうから、僕が合わせますよ。教えて頂く身ですからね」
「ならば明日からだ」と即答する織田さんは、やる気満々のご様子である。いったいどんなスパルタ指導が用意されているのか、今からすでに恐ろしい。
「場所はこの前と同じ水連場。集合時間は午前十時でどうだ?」
「構いません。お昼はどう致しましょう?」
「私は弁当を持ってくる。もしよければお前の分も持ってきてやるが、どうする?」
「そんな。ただでさえ泳ぎを教えて頂くのに、これ以上ご迷惑をかけるわけには――」
「遠慮するな。母上がまだ家に戻っていないのだろう。それにどうせ、一人分作るも二人分作るも同じことだからな」
その口ぶりを耳にして、僕は内心「織田さんがお弁当を作るのか」と驚いた。織田さんが女性らしくないというわけではないが、彼女という存在から『料理』のふた文字がちっとも連想されなかったのは事実である。
しかし、もし食べられるものならば、織田さんの手料理は是非とも食べてみたい。彼女がどんなものを作るのか大変興味がある。案外、武将系女子のイメージとかけ離れた、可愛らしいお弁当を作るのかもしれない。それこそ、タコの形に切ってあるウインナーだとか、ウサギの形に切ってあるリンゴだとか、そういうものが詰められた絵に描いたような手作り弁当。
ファンシーなエプロンを身に着けて、小慣れた感じでフライパンを振る織田さんを想像しながら、僕は「それならお言葉に甘えて」と頭を下げる。
「そう畏まるな。大したことではない」
「大したことですよ。織田さんの手料理を頂けるなんて、思ってもいませんでしたから」
その瞬間、表情に戸惑いの色を浮かべた織田さんはゆっくり僕から目を逸らす。瞬時に「織田さんが弁当を作るわけではないのだろう」と確信した僕は、「それともお昼は近くで食べましょうか」と提案したが、彼女はキっとこちらを睨み、「いや私が作る」と言い放つ。退くに退けなくなったのは見るに明らかである。
「む、無理に作って頂きたいとは言いません。それにほら、プールサイドで食べるカップ麺というのもなかなかオツなもので――」
「私が作ると言っている。それともなんだ、秀成は私の料理を食べられないとでもいうのか?」
「いえ、そのようなわけでは……」
「ならば決まりだ」とだけ言って、織田さんは足早に屋上を去っていった。そんな彼女を引き留める蛮勇を、あいにく僕は持ち合わせていない。