寝返り注意して その9
目を覚ますと僕はプールサイドに仰向けになって転がっていた。小さなパラソルで日差しは遮られ、後頭部には冷たいタオルが枕の代わりに置かれている。
意識はぼんやりしているものの、気を失う前の出来事ははっきりと覚えている。平手先生の一撃により吹き飛ばされた僕は、向こう側にあった流れるプールに落ちて溺れかけた。我ながら、なんとも奇妙な事態に巻き込まれたものだ。向こう二十年間は思い出話に困らないと思われる。
身体を起こして周りを見回せば、少し離れたところに織田さんが膝を抱えて座りながら、揺れるプールの水面を眺めていた。
彼女は僕をちらりと見ると、「起きたか」と言って再び視線をプールへ戻した。
「無事で何よりだ。大変な迷惑を掛けたな」
「いえいえ。こうして生きているのですから、万事問題ありません」
「問題が無いわけがなかろう。……お前は危うく命を落とすところだったのだぞ」
「それでも、生きていますから」
僕はパラソルを持って織田さんに近づき、彼女のそばで改めて腰を下ろした。横目に見る彼女の頬はうっすら赤らんでおり、どうやら日焼けをしたらしいということを伺わせる。下唇を強く噛む表情には、深い後悔の跡が見える。
彼女の曇った横顔は見ているだけでいたたまれない気持ちになる。いつもの織田さんに一刻も早く戻って欲しかった僕は、「とはいえ」と言って話題を変えた。
「少し驚いたのは事実です。これは是非とも、織田さんに責任を取って頂かねば」
「もちろんそのつもりだ。私とて織田の女。腹を斬る覚悟で――」
「そろそろ夏休みです。なのに、僕はまだ上手に泳げない。僕がきちんと泳げるようになるまで、面倒を見て頂けませんか?」
織田さんの深刻そうな表情が、一瞬のうちに狐に化かされたようなそれに変わる。慌てて「嫌ならば別に」と言いかけると、彼女はすかさず「構わん」とやや上ずった声を上げた。
「そうするべきだ。……いや、そうすることが私の責任だな」
織田さんは納得の微笑みを浮かべながら何度も頷く。
「秀成、覚悟しておけよ。私の訓練は厳しいぞ」
時計の針は夕方の五時を回ろうとして、市営プールに営業終了チャイムが響いた。塩素の匂いが夏風と共に汗に濡れた背中を撫でる。一日の終わりが近づいている。
何やら今年の夏からは、大戦の予感がする。
☆
その日の夜。秀成と共に過ごす夏休みの予定に思いを馳せつつ道場で木刀を振るっていると、ふと現れた杏花が私の隣に立ち、無言で木刀を振り始めた。何やら険しい顔をしているのは、今日の出来事で何やら思うところがあるのだろうか。
家臣の気を汲むのも頭領の勤め。私は木刀を振る手を休めないまま「どうした」と尋ねる。
「……爺のことです。あの男の姿が城のどこにもないものでして」
「大方、今日の一件を反省し、山籠もりにでも行っているのだろう。奴のやりそうなことだ」
あの猪武者とて、やっていいこととやってはならないことの区別がつかないわけではない。いくら秀成が明智所縁の者といえど、無暗に命を取っていい相手ではないことは、爺とて百も承知であろう。無論、帰ったら灸をすえてやらねばなるまいが……ひと月ほど便所掃除でもやらせればよいだろう。
「心配せずとも奴はいずれ帰る。お前とて、それは十分承知だろう」
「だといいのですがね」と呟く杏花は険しい表情を崩さない。
「何か気にかかることがあるのか?」
「爺は晴海様と通じておりました。恐らく、秀成殿の弱点を調べ、そして学校にプールを作らせたのは、爺ではなく晴海様の策でしょう。ならば、この出奔は裏に何かがあってのことでは、と」
「案ずるな。あの男は、一度共闘が失敗した相手ともう一度組むほどもうろくではないぞ」
「それは存じております。……しかし、何やら胸騒ぎがしてならないのです」
杏花は木刀を振り上げると、戯れの如く私の額に向けてゆっくりとそれを振り下ろした。私はそれを木刀で受けたが、予想以上の圧が込められたその一撃は、渾身の力で踏ん張ってもなお受け止めきることは叶わず、ついに膝から崩れ落ちてしまった。
「何をするのだ」と言いながら顔を上げれば、眉間にしわを寄せた杏花の顔がある。私に巣食っていた楽観主義をたしなめるための表情であった。
「信子、あまり爺を疑いたくはありませんが、どうしても嫌な予感が拭えません。何が起きてもいいように、心の準備だけはしておきなさい」
「…………わかった。すまないな、杏花」
「あ、それと。恋の戦へのご準備もお忘れなく♡」
「その一言が全てを台無しにするとわからんのかお前はッ!」
?
白い影が夜を駆け抜ける。さながら春の夜の夢幻の如く、瞬きひとつする間に音すらも置き去りにして消えていくそれは、平手が操る白凰である。
信子の予想していた通り、秀成の命を危うく奪いかけた今日の一件を恥じ、そして心より悔いた彼は、山籠もりで己の精神を鍛えなおす腹積もりであった。
平手という男の信じるものは、織田家に忠誠を誓った己の心のみ。ゆえに彼には法定速度などという勝手に他人が決めた法へ従うつもりは毛頭ない。彼の操る白鳳が尋常ならざる速度で道路を駆けていたのは必然と言えた。
疾風の如く駆けるそれを止められる者は誰もいない。――が、強い覚悟を持った者ならば話は変わる。彼らの前に現れたのは、前にしか飛ばない弾丸のように不退転の決意を瞳に秘めた女傑であった。
平手は突如、目の前に現れた人影にも動じることなく、白鳳を操りそれを飛び越えようとする――が、その目論見が叶うことはなかった。白鳳が平手の命令を無視したわけではない。女傑の気配が、白鳳の脚を止めたのだ。
突然、白鳳が止まったものだから、平手は大きく前のめりになる。しかしそれでも落馬しないのは流石と言えた。
「何奴ッ!」
声を荒げながらも、平手は内心深く動揺していた。よもや、そこへ立っているだけで白鳳を止める女がいたとは――そしてそれが、一見したところ〝強さ〟という概念とは無縁そうな華奢な女だとは。
沈黙の睨み合いが数秒続いた後、女はゆっくり口を開いた。
「失敬。わたしは田中灯光。――いえ、こう名乗った方がよろしいでしょう。明智灯光、あなたのところの〝お屋形様〟と仲良くしている、秀成の母だと。本日は急用があり、あなたに会いにやって参りました」
瞬間、二人の距離を殺気が満たす。しかしこれは平手が独りでまき散らしているもので、秀成の母は表情を変えずに彼を眺めるばかりであった。
平手が殺気立つのも無理はない。彼は目の前の女性に恐怖を感じていたのだから。怖気づいて背中を見せれば、即、首を斬られることを確信していたのだから。
仮にどこかで小石のひとつでも落ちる音がすれば、仮に汗のひとつでも落ちる音がすれば、平手は彼女に襲い掛かっていたことだろう。しかしそうならなかったのは、暗がりからふらりと現れ、二人の間に割って入るものがいたからである。その人物とは、他でもない木下晴美であった。
「もう、勘弁してや、灯光さん。平手さんを殺すつもりでここに来たんやないやろ?」
突如現れた晴海に、平手は困惑と同時に怒りを覚えた。この女、俺を下手な策でかどわかしおってと、逆恨みに近い感情も覚えた。
しかし今の平手には晴海に構っている暇はない。目の前の困難にどう対処すべきか、彼の意識はそこばかりに向けられている。
やがて秀成の母は大きく息を吸うと、「落ち着いてください」と自らに言い聞かせるように言った。
「平手殿、わたしはあなたと争うつもりはありません。……もっとも、息子をあのような目に遭わせたあなたは、本来ならば斬り殺してやりたいほどですが」
「……ならば、斬ればいいだろう。何を悠長にしている暇がある。俺が斬りかからないとは限らないのだぞ?」
「言ったでしょう、急用があると。平手殿、あなたはわたしと手を組みなさい」
「馬鹿を言え。俺が明智の者と手を組むと思うか?」
「ええ、思いますとも」と頷いた秀成の母はさらに続ける。
「わたしと、晴海ちゃんと、そして平手殿の思いは皆同じ。あの二人の仲を引き裂きたい。そうでしょう?」
そう言って彼女は平手に向けて手を伸ばした。渋い顔をする平手であったが、彼はその誘いを拒むことは無かった。
事は密かに進んでいる。表舞台に立つ二人は、まだ何も知らない。
五話終了
残り二話予定ですが、明日から一旦お休みします