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恋に焦がれて本能寺 ~織田信子の受難~  作者: シラサキケージロウ
第一部 五話 寝返り注意して
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寝返り注意して その8

 数分後、飲み物を買いに行った秀成が小走りで戻ってきた。秀成は私に持っていた缶の一方を「どうぞ」と手渡すと、もう一方に口をつけ、一口に中身をぐいと飲み干した。


 秀成の表情はどこか硬い。その眉間に寄るしわからは、ある種の危うさすら見え隠れする覚悟が感じられる。私は「そう気負うな」と声を掛けたが、秀成は「そういうわけにはいきません」と首を横に振った。


「せっかく織田さんに教えて頂いているんです。泳げないわけにはいきません」


 思いつめたような秀成を見て、よほど「今日は止めておけ」と言ってやりたかったが、今日の水連のそもそもの発端が自分のうかつな発言であったため、私は「無理をしすぎるなよ」程度のことしか言えなかった。


 小休止の後、秀成はすっと立ち上がり、水深が深い方の水場へと向かって歩いていった。慌てて立ち上がった私は、「まだ早いぞ」と秀成の手を引いたが、「大丈夫です」と言って奴はその考えを固持した。


「そもそも、水深が浅すぎると足で水をかいた時、底に足が当たってしまいます。だから、多少は深いところで泳いだ方がいいと思うんです。それに、向こうでも足はつきますしね」


 功を焦っていることは見るに明らかではあるが、言っていることに道理に適っているのは間違いないため何も言えず、私は「うむ」と頷くしかなかった。


〝びーと板〟なる、軽い素材で作られた水連のための道具を小脇に抱え、秀成は水場の際に立っている。想像していたよりも鍛えられた背中が小刻みに震えている。私が特に何も言っていないにも関わらず、奴は「武者震いです」などと言って誤魔化した。


「では、行って参ります。織田さん、もし何か起きた時は、お手数ですがお助けください」


「当たり前だ」と私が答えると、秀成は肩越しに振り返って薄く笑い、そして水中に飛び込んだ。


 びーと板の端を両手でしっかりと持ち、進行方向だけを見据えた秀成は、やがて大きく息を吸うと、両の足で交互に水面を叩き始めた。


 勢いよく水しぶきが上がる。ばちんばちんと聞こえる音は威勢がいいものの、しかしほとんど前に進んでいない。何故あれで前に進まないのか。


 十秒ほど費やして、進んだ距離は僅か三間ほど。もしや溺れているのではと思い「大丈夫か?」と声を掛けたが、「まだやれます!」との声が返ってきて、安心する反面、心配である。


 統率なく脚が動いている。水滴が無暗に跳ね上がる。荒い息遣いが絶え間なく聞こえる。


 秀成の泳ぎは下手だ。目を覆いたくなるほど下手だ。しかし、ああやって自分に負けぬよう必死に歯を食いしばる秀成を見れば、あの壊れたブリキ人形のような泳ぎも美しく見える。


「がんばれ」という呟きがふいに私の口を突いて出た。二度、三度と同じ言葉を繰り返すうち、その声は徐々に大きくなっていく。自分でも驚いたがもう止まらない。やはり私はうつけだ。だが、それでいい。


「がんばれ秀成ッ! そこで諦めたら承知しないぞッ!」


「心得ていますっ!」


 蝉の音が遠くに聞こえる。水面を叩く音と、私の「がんばれ」がそれをかき消す。


 盛った太陽の下、永遠に感じられる十間余りの距離。それを見事泳ぎ切った秀成は、感情のままに拳で水面を叩き、両腕を天に掲げた。


「織田さんっ! やりましたっ!」


 瞬間、溢れる感情に居ても立っても居られなくなった私は水中へと飛び込み、秀成の手をぐっと握った。


「よくやった秀成! 天晴だったぞ!」


「はいっ! 織田さんのおかげです!」


「馬鹿者ッ! 私は何もしていない! お前ががんばったからだ!」


「そんなことはありません! 織田さんが見守ってくれなければ、僕はきっと諦めていたと思います!」


 秀成と私で手柄の押し付け合いの応酬をしていると、突然「喝!」の声が聞こえてきた。あれは爺の声だ。そういえば先ほどから姿が見えなかったが、いったいどこに――。


 周囲を見回してみれば、爺がいたのは〝うぉーたーすらいだー〟の頂点である。杏花の二番煎じとは、奴も全く芸がない。


 爺はその手に持つ法螺貝でこちらを指してきた。


「このような公衆の面前で不純異性交遊など言語道断ッ! 教師として天誅を加えてやるッ!」


 声を張り上げた爺は〝うぉーたーすらいだー〟を滑り降りると、その勢いを借りて跳躍しこちらへ向かって来る。


 逃げなくてはと思ったがここは水中。素早く動けるはずもない。私達が避難するより先に、爺の人間砲弾は水場の真ん中に着弾した。


 水柱が上がり、一帯に雨が降り注ぐ。ゆっくり立ち上がり水中から顔を出す憤怒の形相を浮かべた爺は、さながら縄張りを荒らされた海坊主である。


「……田中ァ! お前は五体満足でこの水連場を出られないと思え!」


「ま、ま、待ってください! 何もそこまで――」


「問答無用ッ!」


 あの男は、一度周りが見え無くなれば気を失うまでそのまま暴れ回る。もはや止める手立ては私には無い。


 万事休すか。そう思われた時、私達の眼前に何かが降り立った。まるで湖面に着水する白鳥の如く軽やかに現れたそれは、頼れる女――杏花であった。


「――人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでしまえと言いましてね。まあ、殺すつもりは毛頭ありませんが……しかし、痛い目には遭って頂きますよ?」





 やっとの思いで25mを泳ぎきり、織田さんと共に喜びを分かち合っていたら、一般的な男女交友すら許さない平手先生が鬼と化した。これだけでも何が何だかわからないというのに、ふいに現れた柴田さんが先生に啖呵を切ったと思ったら、プールを戦場にして平手先生と刀で斬り合いを始めたのだからさっぱり訳が分からない。


 助けを求めてプールサイドの監視員に視線を投げても、目の前の光景に呆気を取られて目をぱちくりしているばかりである。こうなれば自力でと思い、織田さんと共にプールサイドに上がろうとしても、柴田さん達が争う影響でプールに大波が立ち、足を取られて出るに出られない。


 僕に出来ることといえば、突如幕を開けた超人対決の行方を見守りながら、あわよくば柴田さんに勝利を収めて欲しいと願うばかりである。頑張れ柴田さん! 事を済ませる時は出来るだけ穏便に!


 刀と刀がぶつかり合い空気が揺れている。時折肌を打つ水しぶきが驚くほど痛い。たった二人の侍大戦争は、今のところ互角であろうか。


 打ち合いがしばし続いた後、柴田さんの斬撃が平手先生の胸板を捉える。プールの水面を弾みながら大きく吹き飛んだ先生は、やがて飛び込み台に背中から激突して動かなくなった。普通の人間なら間違いなく即死だが、何故だか先生なら大丈夫だろうという謎の安心感がある。


 飛び込み台にめり込んだまま動かない先生に泳いで近づいた柴田さんは、「まだ生きていますね」と声を掛けた。


「生きている。……強くなったな、杏花」


「あら、それは大きな間違いですよ。貴方が老いて、弱くなったのです」


「……言ってくれるな。しかし、老いは悪いことばかりじゃないぞ」


 ――まだ戦いは終わっていない。僕がそう悟ったのは、こちらを見据える平手先生の瞳が不敵に光っていたからだ。


「この歳になってようやく悪知恵というものが働くようになったのだからなッ!」


 平手先生は右手に持つ刀を横一閃に振る。柴田さんは後ろに軽く飛んで難なくそれを避けたが――先生の狙いはまさにそれだった。


 先生は両腕で刀を構えると、その刃を水中に潜らせ、強く踏み込みながら大きく振り上げた。


 地面と水が大きく揺れる。水面を抉りながら奔る衝撃波は、僕を目がけて真っ直ぐ進む。そんなものを到底避けられるはずもなく――僕の身体はあえなく宙に吹き飛んだ。


「――秀成ッ!」


 織田さんの声が聞こえる。放物線を描いて飛んでいるのが自分でわかる。死を覚悟するより先に、僕の背中は何かに強く叩きつけられる。


 両手足に力が入らない。身体がゆっくり沈んでいく。意識が淀んで景色が歪む。音が遠い。光が遠い。息が出来ない。


 意識が飛ぶその直前、僕の視界に入ってきたのは、今にも泣き出してしまいそうな織田さんの顔だった。





 夢を見ている。幼いころの思い出らしい。僕は両親に連れられてプールに来ているようだ。どうやらこの頃の僕はまだ、水が嫌いではなかったらしい。


 夏のプールは大変混み合っている。浮き輪でぷかぷか浮かんで流れるプールを楽しんでいた僕は、いつの間にか両親とはぐれてしまったようだ。


「どこ」「どこ」と両親の姿を探し、周囲を見渡す僕は――ふと後ろから頭を掴まれ、身体ごと水中に無理やり押し込まれた。


 僕は必死にもがいている。意識が淀んで景色が歪む。音が遠い。光が遠い。息が出来ない。


 そんな光景を他人事のように眺めながら僕は理解した。


 ああ、だから僕はプールが嫌いになったのだと。


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