寝返り注意して その7
僕が見たのは、ウォータースライダーの頂点に立ち、プールサイドで「然り!」と騒ぐ木下さんファンクラブの方々にめがけて何枚もビート板を投げつけている柴田さんである。身に着けているのは水着。胸のところに平仮名で「きょうか」と書かれたゼッケンが縫い付けてあるのが、なんともコスプレめいている。
彼女はビート板を投げながら、頻りに「手が滑っちゃう」と言っているが、野球選手顔負けに大きく振りかぶる様を見る限り、あれは明らかに故意であろう。いったい、彼女は何をやっているのか。
やがて全てのビート板を投げ終え、木下さんファンクラブの方々を一人残らず蹴散らした彼女は、「きゃあーっ」とわざとらしいほど女の子らしい声を上げながらウォータースライダーを滑り降りると、手を振りながらプールサイドを駆けてこちらまでやってきた。
「ノブちゃん、秀成くん、たまたまだねーっ」
こんな「たまたま」があってたまるものかと僕は思ったが、「たまたま」を使う人には何を言っても無駄だということを本日すでに学習済みの僕は、「奇遇ですね」と頭を下げる。
「柴田さんも泳がれに来たんですか?」
「そーなんだよ。そしたらうっかりウォータースライダーに上がっちゃって……それで、うっかりビート板を投げちゃってさ」
「なんとも妙なうっかりもあったものだな」とやけに嬉しそうに言う織田さんはプールから上がり、柴田さんとがっちり握手を交わした。よほど周りが騒いでいるのが気に入らなかったのだろう。当然それは僕も同じであるが、ビート版を投げつけるまでには至っていない。
ふと見れば、すらりと伸びた脚を見せつけるようにぱちゃぱちゃと水面を叩いていた木下さんの姿はすでに消えている。ファンクラブの方々の具合でも確認しに行ったのだろう。
プールから上がろうとする僕だったが、長時間冷たい水に浸かっていたせいなのか、なかなか動きが覚束ない。そんな僕を見かねてか、柴田さんが「大丈夫?」と手を貸してくれる。彼女のエベレストがスクール水着を今にも引き裂き飛び出てきそうで、まったくもって目のやり場に困る。
心頭滅却! 心頭滅却!
柴田さんの手を借りてプールサイドに上がった僕の頭を小突き、「どこを見ている」と言った織田さんは、子供用プールの方へすたすたと歩いていった。
「ほら、秀成。さっさと来い。次の訓練はあそこでやってやる」
○
柴田さんとはその場で別れ、僕と織田さんは子供用プールへ向かった。先ほどのプールが胸の辺りの高さまであるのに比べ、こちらはせいぜい太股ほどまでしかない。試しに脚を水に浸けてみると、この程度ならば脳が危機感を覚えないのか、身体が固まることはなかった。
「ここならば大丈夫そうだ」と安心し、ふと周りを見回してみれば、当然ながらここには小さな子どもしかいない。それだけでも猛烈に恥ずかしいというのに、これからやることを考えれば、僕の顔面はいっそう熱く燃え上がった。
しかし織田さんはそんなことはあまり気にしていない様子で、「ほら行くぞ」と僕の手を引く。今日の彼女はやけに積極的だ。
僕をプールの中央付近まで連れていった織田さんは、そこで両膝をつくよう僕に指示した。何をするのかと思えば、彼女は「泳げ」と僕に言う。「いきなりは無理です」ということを遠回しに伝えると、彼女は「安心しろ」と僕の額を指で弾いた。
「私が手を引いてやる」
その時、僕が想像したのは織田さんに手を引かれながらばた足を練習する自分の姿だった。「いちにぃ、いちにぃ」と声を掛けられながら泳ぐ自分。1mほど進んだだけで「がんばったな」と褒められる自分。それを周りから見る子ども達。切腹ものの恥ずかしさだが、背に腹は代えられない。ちっぽけなプライドと羞恥心を代償に捧げて泳げるようになるならば、安いものである。
それから僕は織田さんに引かれながら、ぱちゃぱちゃと水を蹴って泳ぐ練習をした。10分ほど続けたところで、「悪くないな」と織田さんが僕の泳ぎに太鼓判を押してくれて、試しに一人で泳いでみることになった。
しかしいざ一人になるとどうにも駄目で、そもそもどうやって脚を動かせばいいのかという単純なことすらもわからなくなって、顔に水をつける度胸すら湧いてこない。半ば自棄になって水面に倒れ込んでみても、脚ががちゃがちゃと動くばかりでちっとも前に進まない。そうしていると、溺れるはずもないこの深さにも関わらず、「溺れるのでは?」という考えがふと頭によぎって、慌ててその場に立ち上がってしまう。まったく、これではどうしようもない。
そんな無様な姿を晒し続けること三十分。見かねた織田さんがプールサイドから僕を呼び、「休憩にするぞ」と言った。僕は負けずに「まだやれます」と虚勢を張ったが、もう一度彼女が「出ろ」と強く言ったのを受ければ、大人しく従わざるを得なかった。
プールサイドに座る織田さんは白い脚だけを水に浸けている。その隣に腰掛けた僕は、ご期待に添えずすいません」と謝った。
「よい。そもそも、謝る必要がどこにある? お前は精一杯やっているではないか」
「たとえ一生懸命やったところで、結果が出なければ意味がありません」
「そんなことを言うな」と言った織田さんは、僕に向かって慰めるように微笑みかけた。いつもよりも柔らかい彼女の言葉尻が、今の僕には却って辛かった。
じっと座っていることが辛くて、僕は「飲み物を買って参ります」と言って立ち上がる。織田さんは「私も行こう」と言ったが、僕は「あなたの分も買ってきますから」と言ってそれを断った。今は少し、ひとりになりたい気分だった。
〇
自動販売機でカルピスを二本買って、一本はその場で半分ほど飲んだ。そういえばプルタブが中々開かなかったなと思い、ふと指先を見てみれば小刻みに震えている。あの場に戻るのを身体が恐怖しているらしい。
「情けないな」と息を吐いた僕は空を見上げる。空の青はなんともないはずなのに、どうして水だけは駄目なのか。やはり、前世で城を水攻めでもされたのだろうか。
そんなことを思う僕の前に、ふらりと現れたのは木下さんだった。清楚な白いワンピース型の水着を着込む彼女は、僕の顔を見るなり「やられちゃったなぁ」と嬉しそうに笑った。
「連れて来た親衛隊、みーんな伸びとる。さすが、杏花さんやわぁ」
「しかし、心なしか喜んでいるように見えますが」
「ま、コッチにも色々事情があってな。正直、想定内というか、計画の通りというか……」
よくわからないことを笑顔で言った木下さんは、「それより」と手を打ち、僕にずいと歩み寄った。笑顔からは温度が消え、冷ややかなそれに変わっていた。
「そろそろ諦めた方がええんちゃう? 正直、もう無理やろ」
「そんなことを言われた程度で諦めるとお思いですか。僕はなんとしてでもやってやりますよ」
「違うって。信子ちゃんに教えて貰うのを諦めた方がええってこと」
「どういう意味です」
「だって信子ちゃん。ずーっと昔っから泳げたもん。それこそ、産まれた時から泳げたんちゃうかな。だから、そんな人が産まれた時から泳げない秀成くんの気持ちなんてわかるはずないんよ。泳げない人の気持ちがわからん人が、人を泳がそうなんて無理な話やろ?」
悔しいが、木下さんの言うことには一理あった。別に織田さんの教え方がどうこうという話ではない。接していてわかるが、彼女はやはり〝泳げる側〟の人なのだ。泳げない側の最右翼に立つ僕の気持ちがわかるとは、到底思えない。
こちらの思いを全て見透かしているかのように、にこりと笑った木下さんは、「でもな」と言って僕の頬に手を当てた。
「ウチやったら違う。ウチも、今は違うけど元々は泳げなかったんよ。だから秀成くんの気持ちがよぉくわかる。どう? ウチにレッスン任せてみない?」
伸ばされたこの手を掴んでしまおうかと思った。彼女に任せた方がうまくいくのではと思った。――しかしその時、浮かんできたのは織田さんの顔だった。
そうだ。僕は織田さんを信じると決めた。そして、織田さんはこんな僕を信じてくれている。いつか泳げるさと、思ってくれている。ならば、その期待を裏切るわけにはいかない。
右の頬に当てられていた彼女の手の平をそっと除けた僕は、「すいません」と頭を下げた。
「僕は、織田さんを信じていますから」
「……信じるも何も、出来んもんは出来んけどなぁ」
「出来ます。やってやります」
僕はカルピスの缶を抱え、織田さんの元に小走りで戻った。