寝返り注意して その6
更衣室で水着に着替える僕の隣には平手先生がいる。もはや、「なぜここにいるのですか?」と尋ねるつもりにもなれない。どうせ「たまたま」と言われることは目に見えている。
「しかし田中、お前は情けない男だな」
ふんどし姿にすっかり着替えた平手先生は、半裸になった僕の身体を見ながら自らの大胸筋を自慢げにぴしゃりと叩いた。
「俺の身体を見てみろ。全身傷だらけだろう。身体についた傷はこれすなわち漢の勲章。戦から逃げなかった者だけが手にする栄光の証だ」
なるほど確かに平手先生の全身にはあちこちに刀傷が刻まれている。ところどころには銃創なんかもあり、見ているだけで痛々しい。身体つきも年齢を感じさせないほど逞しく、僕を胡瓜とすれば先生は大根だ。
男らしさで敵わないことは百も承知である。しかし「情けない」などと平然と言われたことに内心腹が立っていた僕は、「本田忠勝は生涯無傷であったと聞きますよ」などと煽るようなことを言ってみる。
「……お前は俺に喧嘩を売ってただで済むと思っているのか?」
「それなりには」
「……痛い目に遭わせてやるからな」
そう言い残すと平手先生は更衣室を後にした。その背中を見た僕は少しだけ溜飲が下がったものの、後で何が起きるのかを想像すれば、ぞっと背筋が寒くなったりもした。
更衣室を後にしてプールサイドへ出ると、僕を待っていたのはまさに夏の景色である。青い水が降り注ぐ太陽の光を無暗に乱反射して猛烈に眩しい。頼んでもいないのに塩素の匂いが鼻を通る。きゃあきゃあという騒ぎ声と蝉の声の二重奏が煩わしい。どこを見ても水着を着ている方々しかいらっしゃらない。
「あーあ夏だよ」とぼやきつつ、人混みの中に織田さんの姿を探していると、焦れたように腕を組んで待つ彼女の姿がすぐに見つかった。
彼女が着ているのは水色のビキニであった。首の後ろで紐を結んであり、背中の大きく開いたあのタイプは、たしかホルターネックといっただろうか。フリルまであしらってあり大変かわいらしい水着である。右手に持った短刀がややアンバランスであるが、それこそが織田さんだと考えれば特に気にならない。
しかし、なんだろう、その、僕が予想していたよりも遙かに、織田さんは、何というか、大きかった。
もちろん柴田さんと比べれば小さいことは否めない。しかし柴田さんは規格外の存在、スイカ、エベレスト、ゴジラである。織田さんはゴジラまではいかずとも、モスラくらいは十分にある。
水着はさほど好きではない。しかし、嫌いと言えば嘘になるのもまた事実。僕は熱くなってきた頬を誤魔化すため、「お待たせしてすいません」と頭を下げた。
「構わん。大方、平手にからまれていたのだろう」
そう言ってぷいとそっぽを向いた織田さんは、「存外引き締まった身体だな」と続ける。
引き締まっていると女子に言われて、嬉しくない男子がいるはずもない。たとえそれがお世辞だとわかっていても、である。僕は「一応、中学生までは剣道をやっていたもので」と答えて胸を張り、そこまで厚いわけでもない胸板を少しでも大きく見せようとした。
「なるほど。今はやっていないのか?」
「母に禁止されましてね。突きが解禁された高校で剣道をやるのは、危険だと」
心から残念そうに「もったいない」と呟いた織田さんは、僕の腕を掴んで引いた。
「ともあれ、今は水練だ。みっちり鍛えてやるから覚悟しろよ」
☆
平日のせいか水練場にはあまり人はいない。暇そうな老人と、小さな子を連れた母親と、学校帰りの小中学生の他には……晴海とその従者、それに爺くらいなものである。
「あのうつけ共には構わなければいいだけの話だ」と改めて自分を納得させ、まず私が秀成と行ったのは入念な準備体操であった。奴が泳げない理由が、身体を温めないまま冷たい水に入るところにあると考えたからだ。
額から汗を流すほど身体をほぐしたところで、いざ水へと入る。しかし、先行して入水した私になかなか秀成は続こうとしない。「どうした」と尋ねると、秀成が「精神を高めているのです」などと訳の分からぬ答えを返してきたため、私は「問答無用だ」と言い放ち奴の身体を水中に引きずり入れた。
水の深さは胸の位置ほどまでしかない。立っているだけならば呼吸は約束されているし、流れも波も無いので足が取られる心配もなく、ゆえに万が一にも溺れるはずがない。だというのに秀成は、あろうことかあっぷあっぷとジタバタもがき、喘ぐようにして辛うじて呼吸をする有様である。ふざけているのかと思ったがそうではなく、本気で溺れそうになっているらしい。
私は「悪かった」と言いながら秀成に肩を貸して身体を支えてやる。酷く真っ青になった唇を震わせ、やっとの思いで「勘弁してください」という言葉を紡ぎ出した秀成を見て、「もう二度と同じことはやるまい」と私は心中で誓った。
しかし、これは相当根が深い問題であるようだ。まさかこれほどまでに秀成の泳ぎが駄目だとは、正直思いもしなかった。
遠回りになるだろうが、まずは水に慣れさせる他あるまいと考えた私は、「顔をつけるところから始めてみては」と秀成に提案したが、先ほどの件があったせいで警戒している秀成は中々動きを見せようとしない。しかしここが我慢のしどころ。今日ばかりはいくら私とて、ホトトギスを鳴くまで待たねばならぬ。
まごつく秀成を見て、近くで泳いでいた爺が「情けないのう!」と声を張り上げる。水場の周囲に立っていた晴海の従者が「然り!」と続き、そこに晴海の笑い声が重なる。
嗚呼、まったく腹が立つ。しかしここで私が反応すれば最後、奴らはいっそう騒ぎ立てることだろう。
臥薪嘗胆、捲土重来、ならぬが堪忍するが堪忍とひたすら自分に言い聞かせ、「やってみるんだ」と諭すように秀成に言い聞かせる。秀成は私と水を交互に見た後、覚悟を決めたように顔を水につけた。それはほんの一瞬で、烏の行水と形容することすらはばかられるほど刹那の出来事であったが、それでも勇気を出したことは称賛に値する。
私は内心、ある種の馬鹿馬鹿しさすら覚えながらも「やったではないか」と秀成の背中を叩いた。奴は「そんな大層なことはやっていません」と答えながらも、まんざらでもなさそうに笑った。釣られて私も微笑んだ。
そんな歓喜の瞬間に、文字通り水を差す者がいた。晴海である。白の水着を着た奴は水場の縁に腰を掛け、脚でぱちゃぱちゃ水面を叩きながらけたけたと笑った。
「たとえ子猫ちゃんやって、そこまでお水は怖がらんけどなぁ。そんな程度で喜んでたら先は長いなぁ。命が幾つあっても足りんわ」
「……晴海、誰にだって苦手なものはある。秀成は勇気を持ってそれを克服しようとしているのだ。口を挟むな、茶々を入れるな」
「だからって、いくらなんでもそれはないやろ。秀成くん、もう子どもやないんやし」
晴海の言葉に水練場のあちこちから「然り!」「然り!」と大合唱が起きる。爺が景気よく鳴らす法螺貝の音まで響きわたる。秀成はバツが悪そうに俯いている。
臥薪嘗胆、捲土重来、ならぬが堪忍するが堪忍。――しかし怒らねばならない時はある。そして今がその時である。
短刀を引き抜いた私が、手始めに晴海の水着を切りつけ衆目に痴態を晒してやろうと思ったその直前――どこかから悲鳴が上がり、「然り」の合唱がぴたりと止んだ。見れば、晴海の従者がひとり倒れているではないか。
何事かと思っていると、「ごめんなさーい」という馬鹿に明るい声が聞こえてきた。この聞き覚えのある声、まさか――。
「ビート板がすっぽ抜けて飛んでっちゃった☆ 許してね♡」
声の主は、あの〝うぉーたーすらいだー〟なる遊具の頂点に立つ杏花であった。まったくあの女は、いつもいつも良いところで私を助けにくる。