寝返り注意して その4
前期最後のテスト終了日の放課後。時刻は十一時を回った頃。僕はひとり、太陽に頭をじうじうと焼かれながら駅までの道を歩いていた。
七月半ばだというのに蝉が既にかなりうるさい。コンクリートに汗が落ちてはその場から蒸発していく。吹く風は生暖かいを大きく上回ってもはや熱風である。到底、人間が活動していい気候ではなく、それは天気予報士が述べていた「不要不急の外出は控えてください」という言葉が証明していたが、それでも僕が拳を固めて道を歩くのには訳があった。
僕は今日、織田さんに泳ぎを教えて貰うため彼女と共にプールへ行く。「ただ女子と遊びに行くだけだろ」などと京太郎辺りは言うだろう。「キャッキャウフフを期待しているんじゃねーの」などとも言うだろう。しかし、僕は「馬鹿を言え」と声を大にして言いたい。
僕が泳げる側の人間であれば、そういった身の丈に合わないことだって期待しただろう。だがしかし、あいにく僕は今のところ泳げない側の人間である。期待は持てない。というよりも、してはならない。キャッキャウフフなど、断じて!
ああ、織田さんに教えを乞わざるを得ない現状がいかに恥ずかしいことか。しかし、彼女に泳ぎを教わることと、苦手なことから逃げ続けることを比べれば、どちらが恥ずかしいことなのかなど、一秒と考えずともわかることである。苦渋の決断でもなんでもない。
「やるぞ、やってやる」とさながら呪詛のように何度も呟きながら歩いていると、いつの間にか駅に着いた。ここから電車に乗って二駅のところで降り、そこから徒歩で十分行けば大きな市民プールがあるので、そこで待ち合わせの予定となっている。織田さんと共に学校を出ないのは、京太郎辺りが嗅ぎつけて騒ぎになるのを避けるためだ。
歩いているうちに、内なる僕がふいに囁く。
――なんだか身体が重い気がする。頭も少しぼーっとするかもしれない。今日は足がつりそうな気配もある。止めておいた方がいいのでは――?
質の悪い弱気の自分の声を、なるべく聞き入れないようにしながら改札まで来たところで、僕の視界に見覚えのある顔がふたつ入ってきた。互いに不自然な間を空けながらも、同じ方向を向いて門番の如く立ち並んでいるその人達は、平手先生と木下さんである。なんとも奇妙な組み合わせに、見間違えかと思った僕はまぶたを擦ったが、ぼやけた視界が鮮明になっても、ふたりはやはりふたりのままであった。
いったい何をしているのかと思ったものの、声を掛ければ面倒なことになるのは目に見えている。見て見ぬふりして通り過ぎようとしたが、そんな僕を目ざとく見つけた平手先生は「おい田中」と僕の名前を呼んだ。
「……人違いではないでしょうか」
「馬鹿を言うな、田中秀成。教師が生徒の顔を見間違えるわけがなかろう」
「さすが、先生ですね。ではまた」
そう言って足早にその場を去ろうとした僕に、「どうもー」と木下さんも声を掛けてくる。
「元気みたいやね、秀成くん。何よりよ」
「そちらこそ、お元気そうで何よりです。それと、生八つ橋ありがとうございました。両親ともに喜んでいましたよ。それでは」
よくわからないがなんだか猛烈に嫌な予感がして、僕は挨拶もそこそこに逃げるようにして改札を抜けた。しかしふたりは当然の如く僕の2mほど背後についてくる。こちらが止まれば向こうも止まる。尾行と呼ぶにはいささか大胆不敵すぎではなかろうか。ふたりはきっと、忍者にはなれない。
「……おふたり共、何故ついてくるのでしょうか」
「なに、お前の行く方向にたまたま用事があるだけのことよ」という平手先生の言葉に、木下さんが「そうやで」と続く。
「だから、ウチらのことは気にせんと、はよ行ってえぇんよ?」
「……貴方達は、なぜ共にいるのでしょう」
「たまたまだ」という平手先生の答えに木下さんが「たまたまやね」と呼応する。
僕が唯一わかったことは、ふたりには僕の質問に答えるつもりが一切ないということくらいであった。
☆
秀成との約束の日。待ち合わせ場所まで向かう私の隣には杏花がいる。これにはもちろん理由があって、あの四王天京太郎とかいう忍びを警戒してのことである。あの日以来、奴に怪しい動きはないものの、狙いがわからない以上はこうして注意をせねばなるまい。
「ご安心を。おふたりのデートまでは邪魔しない所存ですので♡」
「お、お前はなぜ言わんでもいいことまで言うのだッ!」
「冗談ですよ」と杏花はへらへらと笑う。
その時のことである。私達の頭上から、突如、こちらを煽るような口笛が飛んできた。何事かと思い上を向けば、電信柱の上には件の忍び、京太郎が立ってこちらを見下ろしていた。
「……いい主従関係だ。まったく羨ましい」
吐き捨てるように言った京太郎は電信柱から飛び降りると、私達の前にふわりと着地した。柔らかく、そしてそのしなやかな動作は私に豹を連想させた。この男やはり、ただものではない。
私より先に懐刀を鞘から抜いたのは杏花である。身体全体に闘気を瞬時に充実させた杏花は、私を護るように一歩前に出ると「何の御用です」と静かに言い放った。その威圧感溢れる背中を見ただけで、今の杏花は修羅の如き表情をしているのだろうと想像がついた。
「いやいや、そんな怖い顔しないでくださいよ、柴田さん。あなたにはやっぱり笑顔ですって、え・が・お☆」
そう言って口元に作り笑いを浮かべた京太郎は、両手を後ろに隠したまま私達との距離を詰めようとする。しかし杏花はそれを許さず、まともな人間であれば気絶必至の殺気を飛ばし奴の足を止める。
「待って、待ってくださいよ。俺にゃ戦うつもりなんてありませんって。この距離で貴女のような武人とやりあって勝てる気なんてしない」
「よく言いますね。この前、あたしを殺そうとした癖に」
「ありゃーちょっとした誤解ですって。現に、あれ以来貴女を襲ったことは無いじゃないスか。それどころか、木下さんの一件の時は色々頑張ったんスからね、罪滅ぼしのために」
妙にへりくだった口調の京太郎は、その顔に笑みを貼り付けたままへこへこと頭を下げる。まったく信用ならない態度である。わざとやっているのではないかと思わせるほどだ。
緊張感のある沈黙をしばし続けた後、杏花はゆっくり口を開いた。
「……ならば問いましょう。四王天、貴方はなぜあたし達の元へ来たのです」
「いやいや、それが今日の朝からなーんかイヤな予感がしてましてね。で、星座占いでコイツがラッキーアイテムだったんで、是非とも柴田さんに渡しておこうと思って」
京太郎はそう言って、先ほどから後ろ手に隠していた紙袋をこちらに投げて寄越した。中身をちらりと覗いた杏花は、不満げに鼻を鳴らしてそれを投げ捨てた。なんだと思いその中を見れば、入っていたのは学生用の水着であった。
「ありゃ、そーいうの趣味じゃなかったスか? ほら、体育祭の時にブルマとか履いてたから、てっきり」
「そういうわけではありません。ですが、今は不要というだけです」
「必要になると思いますよ。俺の勘って、ケッコー当たるって有名なんスよ」
言うや否や辺りに白煙が立ち込めてきて、京太郎の不敵な笑顔が影となって消える。「伏せて!」と杏花に言われるまま身をかがめ、刀に手をやり周囲を警戒したものの、それ以上何かが起こる気配は無い。
やがて白煙が薄れてくる。後に残ったのは、あの忍びが投げて寄越した紙袋だけであった。
「……あれは、いったい何のつもりだったのだ」
「わかりかねます」と答えた杏花は、懐刀を鞘に納めると穏やかに笑った。
「さ、あのような者は気にせず行きましょう、お屋形様。秀成殿があなたの到着を今か今かと待っておりますよ♡」