寝返り注意して その3
カナヅチを織田さんに謗られた時、まったく頭にこなかったと言えば嘘になる。いくらはっきり物を言う織田さんといえど、あの言い方はどうかと思ったし、「僕だって努力したんだぞ」と言い返してやりたくもなった。
もやもやとした気持ちを抱えたまま昼休みを終え、5時間目を受けている最中。僕はふと思った。僕は、本当にこのままでいいものかと。
たかが泳げない程度、コンクリートジャングルに囲まれたこの時代を生きていくならば大した欠点ではないのかもしれない。水泳の授業なんて適当にやりすごせばいい。海やプールなんて行かなければそれで済む。泳げないで困る事なんてほとんど存在しない。心の奥底で、僕はそんな考えを抱いていた。そしてその考えは今でも間違ってはいないと思う。
しかし、泳げないことが真の問題ではない。苦手なことから逃げているその心根こそが問題なのだ。苦手なことを生涯苦手なままでいても構わないという、その逃げの姿勢がよろしくないのだ。織田さんはきっと、僕にそのことを僕に教えたかったに違いない。
織田さんにお礼を言わねばならない。彼女の言葉が無ければ僕は、諦めを平然と受け入れていた。
翌日のこと。自分の教室へ行く前に、まず織田さんに会おうと心に決めて学校へ向かっていると、道中でばったり彼女と出くわした。明るい黒毛の馬に跨がる制服姿の彼女は、まるで戦の女神である。
「おはようございます」と頭を下げた僕は昨日の一件について礼を述べようとしたが、僕が口を開くよりも早く、馬から降りた織田さんは「昨日は済まなかった!」と勢いよく頭を下げた。
これは少し予想外で、面食らった僕は「どうされましたか」と彼女に尋ねる。
「いや……あれだ、昨日は言い過ぎたと反省してな。人間誰しも苦手なものはあって然りのはずなのに、あの物言いは……その、駄目だ」
そこで言葉を切った織田さんは懐から何やら取り出し、それを僕に差し出す。何かと思えば任侠映画でたびたび見かける白木の鞘で包まれた匕首である。
嫌な予感が背中を走ったその直後、その場に座り込んだ織田さんは、うなじを見せつけるように後ろ髪をまとめ上げると、「さあ私の首を取れ!」とヤケクソのように叫んだ。
こんなの少し予想外どころの騒ぎではない。その時の僕は、さながら初めて鉄砲の威力を目の当たりにした武士のように動揺していた。
「お、お、お待ちを! 意味が分かりません!」
「ええい! 許されないことをしたのはわかっている! 杏花の案は私にはできん! ならば自分のやり方で決着をつけるだけのことよ! さあ、秀成! さあさあ!」
「そ、そんな気にすることではありません! それどころか僕は、織田さんからあのように言われて感謝しているのです!」
「どういうことだ」と意外そうな顔をした織田さんがこちらを見る。どうやら、やや落ち着いたようである。この機を逃すわけにはいかないと、僕は匕首を彼女の手に握らせながらさらに続けた。
「言葉の通りの意味ですよ。織田さんから言われて、僕は気づくことが出来たんです。どんな理由をつけたところで、苦手なことから逃げる言い訳にはならないと」
僕の必死の説得に、織田さんはしばし間を置いてから「そうか」と小さく呟く。虚空を眺める猫のような、何を考えているのかわからない表情のまま僕を眺めていた織田さんは、やがてもう一度「そうか」と呟き、下唇を噛みしめながら僅かに微笑んだ。そのあどけない仕草は、間違いなく初めて彼女が僕に見せてくれた年相応の一面で、僕はやけに嬉しくなった。
瞬きひとつしないうち、元の表情に戻った織田さんは、心底嬉しそうに僕の肩をぽんぽんと叩いた。
「秀成、お前はやはり天晴れな男だ。その心意気、なかなか出来るものではないぞ」
「あ、ありがとうございます」
「うむ。今の私はすこぶる気分が良い。褒美を取らせてやるぞ」
「い、いえ。そのようなものは――」
「いいから取っておけ。何でもいいぞ。馬か? 刀か?」
褒美と言われて、僕の頭にある考えがよぎる。しかし、これを言ってしまっていいものだろうか? すぱっと斬られはしないだろうか?
ええい、迷うな田中秀成。この歳になって両親は頼れない。京太郎他、男友達は相手にしてくれない。スイミングスクールという歳でもない。となれば頼りは織田さんしかいないだろう。聞くは一時の恥、聞かないのは一生の恥。やらずに後悔するよりやって後悔。人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。
「やってやるさ」と腹を括った僕は勇気を振りぼって織田さんに尋ねた。
「お願いがあります。僕に、泳ぎを教えて頂けないでしょうか」
☆
気づくと私は天井を見上げていた。覚えのある湾曲した桧の梁を見て、どうやらここは私の部屋らしいと理解する。しかし、私はどうしてここにいる。学校へ出たはずだが、あれは夢か何かだというのだろうか。
それにしても、脳が溶けているのかと思うほど頭が痛い。いったい私に何があった? 鉛玉でも撃ち込まれたか?
あまりに気怠いものだから、半身すら起こさずしばらく横になったままでいると、「失礼します」という声と共に襖が開かれ杏花が現れた。やらしい笑みを口元に浮かべており、怪しげな雰囲気である。
「いま何時だ。どれだけ私は眠っていた」
「午後の四時です。お屋形様、ずいぶん長いこと気を失っていらっしゃいましたよ」
「……私に何があった、杏花」
「あら、本当に覚えていらっしゃらないので? 秀成殿とのあの一件を?」
秀成の名前を聞いたその瞬間、穏やかであった記憶の海原が瞬く間に荒れ始めた。心の臓が筆でなぞられたようなむずかゆい感覚が走ったと思いきや、一瞬にして景色が遠のく。白黒に視界が明滅して距離感があやふやになる。息が出来ないほど苦しくなって、私は自らの胸を抱くようにして腕に力を込めた。
そうだ。私は秀成に誘われた。水練場へ。泳ぎを教えてくれないかと言われた。二人きりで。つまりこれは人目をはばからぬ逢引。すなわち、〝でぇと〟。
まずい。顔が火照っている。というよりも熱い。比叡山焼き討ち。本能寺炎上。熱い。熱い、熱い。
身体中の細胞の沸騰を抑えきれず、仰向けに布団へ倒れ込み再び気絶しそうになる私を、すかさず杏花が抱いて支える。私は息も絶え絶えに「ねむらせろ」と呟いたが、杏花は「なりません」と言ってにっこり笑った。
「なぜだ。わたしをころすきか」
「そんなつもりはありません。そもそも、恋煩いで死んでしまうほど人間脆くはありませんよ♡」
「ばかをぬかせ。こいだのと。わたしは、ひでなりにおよぎをおしえるだけだ」
「はいはい。重々心得ておりますとも♡」
私の身体を鼻歌混じりで抱え上げた杏花は、ゆらり歩き出し部屋を出る。
「まずは水着からですねぇ。とびっきりかわいくて、秀成殿を一発で悩殺できるのをご用意致しますから♡ さて、さっそく採寸といきましょうか♡」
「ふざけるな」という言葉は喉の奥に詰まって出てこなかった