寝返り注意して その2
まったく、我ながらよくやったものだ。秀成を昼食に誘うとは。褒めてやるぞ、私! お前はなんと勇気のある女だ! 偉い! この天下人!
そんな風に有頂天になりながら、秀成を従え屋上に向かっていると、内なる織田信子が私に語りかけてきた。
――このうつけめ。何を浮かれる必要がある。たまたま廊下で出くわした友人が、何やら落ち込んだ様子であったから昼食に誘っただけのこと。それ以上があるわけではない。他意などどこにも存在しない。そうだろう? 冷静になれ。
そんな私を咎めるように、さらに信子がもう一人脳内に現れる。
――うつけの言うことなど聞かんでよろしい。信子、お前はそこが駄目なのだ。嬉しかったら嬉しいでいい。違うか? 違わないだろう。何せ、お前は普通の高校生。うっかり刀を滑らせて手から落としたり、きらきらと輝くしゃれこうべを盃に珈琲牛乳を飲んだりと、少しはかわいげのあるところを秀成の前で見せたらいい。さすればお前達はすぐにでも戦を共にする間柄になるだろう。
「なんだと」「やるか」「このうつけ」「うつけはお前だ」と、内なる私達が喧嘩を始める。心中で「止めろ!」と叫んだが、ちっとも言うことを聞きやしない。ええい、何故私が私の言うことを聞こうとしないのだ。織田信子の指揮系統はいったいどうなっている!
はっと気づくと、私は屋上で立ち尽くしていた。隣に立つ秀成が、「日の当たらないところで食べませんか」と私の制服の裾を引く。「うむ」とうなずいた私は秀成に導かれるまま、給水塔の影に座った。
「それにしても、織田さんのお弁当は豪華ですね」
秀成は何やら細長いパンをかじりながら、私の弁当をのぞき込む。
鮭の切り身、里芋と人参の煮物、玉子焼き、漬け物、豚の肉を紫蘇と梅で巻いて焼いたもの。言ってしまえば何の面白味もない至って普通の幕の内弁当。しかし秀成の羨望の眼差しは弁当に注がれてやまない。
物欲しそうに尻尾を振る子犬を前にしたような気分になった私は、「ひとつ分けてやろうか」と提案した。
「よろしいのですか?」という秀成の問いに、私は「うむ」と答える。少し迷ったように視線を動かした秀成は、「それではこれを」と言って玉子焼きを指した。
箸でつまんだ玉子焼きを手のひらに乗せてやると、秀成は「頂戴いたします」とうやうやしく頭を下げ、一口にそれをたいらげた。玉子焼きを噛みしめる秀成の顔ときたらまったく幸せそうであり、普段どのようなものを家で食べているのかと不安になった私は、「家ではどんな食事をしているのか」ということをそれとなく尋ねた。
秀成は苦々しく笑いながら答えた。
「実は最近、母の実家の方でちょっとしたトラブルがあったみたいで。母がしばらく家に帰ってないんです。父も僕も料理なんてダメなものですから、ここ一週間は毎日コンビニ弁当かカップめんでして……手作りのものを食べるなんて久しぶりなんですよ」
「なるほど。それが、先ほどあまり元気が無かった理由か」
「それはそれでまた別の理由がありましてですね……」
「何があった? 話して楽になることもあるぞ」
秀成は「大したことではないのです」と言って明後日の方向に視線を逸らす。あのようにあからさまな態度を見れば、大したことがないとは到底思えない。
「秀成、私に隠し事はしない方がいいぞ。すぐにわかる」
「い、いえ。隠していることなんて――」
私が黙って刀の柄に手を掛けると、秀成はすぐさま態度を翻して白状し始めた。
歯の奥にものが詰まったようなうだうだとした喋り方で、五分ほどかけて秀成が説明したのを簡潔にまとめれば、この学校に水練場が出来るらしく、泳げない秀成は来年から始まるであろう水泳の授業が不安で堪らないらしい。情けない。まったくなんとも情けない。元服を迎えた歳になって泳ぎもまともに出来ないとは。
苛立ちを隠せない私はため息を吐きながら、「それでいいのか」と吐き捨てた。
「泳げないままでいいと思っているのか、秀成は」
「いいわけがありません。僕だって何度も挑戦してきました。ですが、駄目なものは駄目なんです」
「百回駄目でも、百一回目はもしかしたらということもあるだろう。百一回駄目でも、百二回目だ。嘆いてばかりでは何かが変わることはあり得ないぞ」
「わ、わかっております。ですが……」
悔しそうに唇を噛んだ秀成は、喉までせり上がってきた思いを流し込むように紙パックの珈琲牛乳をごくごくと飲んだ。
「……どうしたって駄目なんですよ、僕は」
☆
まさか秀成があのような泣き言を吐く情けない男だとは思わなかった。細い身体の中心に一本芯が通った、強い男だと思っていた。それがなんだ。泳げないだけではなく、あんなにあっさり物事を諦めるとは。それでも男か、恥を知れ。
秀成に対して面と向かって罵倒の言葉を浴びせなかったのは、私の強靱な理性ゆえである。しかし、もしあの男があとひと言でも弱音を吐いていたら、私は迷わず罵詈雑言の三段撃ちを浴びせていたことだろう。
まったく! ああまったく! 見損なったぞ、田中秀成!
憤怒の怒りを抱えたまま家へと戻った私は、そのまま真っ直ぐ道場へと向かい一心不乱に刀を振った。しかし、汗は流れど怒りの炎は衰えず。しかたがないので風呂に入り、そこでも汗を流したがやはり変わらない。夕食を食べてもそれは同じで、それどころか卵料理を見ただけで玉子焼きを食べていた時の秀成の顔が連想されて、はらわたはいっそう煮えくり返った。
自室で夕食後の茶を飲んでいると、断りもなく襖が開かれ杏花が現れた。一見したところ平穏を装った顔をしているが、やや寄った眉からは僅かに怒気が読みとれる。
「無礼だな。声もかけずに入るとは」
「お屋形様はお馬鹿さんですねぇ。まったく底抜けのお馬鹿さんです」
「……仮にからかうつもりならば止めておけ。いまの私はすこぶる機嫌が悪い」
「あら、それは奇遇ですね。実はあたしもいまいち機嫌がよろしくないのです」
明らかに喧嘩腰の物言いだ。いいだろうならば、受けて立つ。
私は湯飲みを叩きつけるよう盆に置くと、「ならば何しに来た」と言った。
「お屋形様ともあろうものが、爺の企みにちっとも気づいておりませんようでしたので、それを存分に煽ろうかと思いまして」
「……なんだと? どういうことだ、詳しく話せ」
「単純なことです。爺は秀成殿が泳げないことを調べ上げ、どこかから資金を調達して学校に水練場……もといプールを作った。泳げない秀成殿をお屋形様に見せ、そして幻滅させようとした。どうです? 脳筋の爺らしい、なんの捻りもない策でしょう。ま、お屋形様はまんまとそれにはまってしまわれたようですが」
淡々と並べられた杏花の言葉に私は閉口した。
嗚呼、私はなんと愚かなのだろうか。その程度の企みも見抜けず、何が頭目か、何が天下人か。うつけどころの騒ぎではない。これでは、盲目の琵琶法師の方がまだ物事が見えているというものだ。
それにしても爺め、下手な小細工を弄しおって。私の交友関係に文句があるのならば堂々と言えばいいのだ。もちろん、聞き入れるつもりは毛頭無いが。
悔しさを奥歯で噛みしめながら、私は杏花に頭を下げた。
「……すまなかったな、杏花。お前が伝えてくれねば、私は危うくあの男に一杯食わされるところだった」
「そんなことは構いません。それに、あたしが怒っているのはそこではありませんので」
そう言うと杏花は私の顔を両手で掴み、有無を言わさぬまま自らの額を私の脳天にぶつけた。その衝撃ときたらまるで石でもぶつけられたようで、私は危うく涙をこぼしそうになる。私は反射的に「何をするッ!」と声を荒げたが、それに全く動じることなく杏花は再び頭突きを見舞ってきた。
声も上げられないほど悶絶する中で、思い出したのはその昔のこと――杏花が本気で私に説教する時、決まって奴が頭突きを見舞ってきた記憶である。
私がその場にうずくまっていると、まず杏花は「なぜ秀成殿にあのようなことを言ったのです」と言い放った。痛みを堪えながら「どこで見ていたッ!」と食い下がると、杏花はさらりと「給水塔の上から」などと答え、それからさらに続けた。
「誰にだって苦手なことはあります。誰にだってどうしようもならないことはあります。それをなんです、信子ときたら。向こうの言い分を聞こうともしないで。貴女だって苦手なものくらいあるでしょう。オバケ嫌いは治りました? お注射嫌いは? 歯を弄られることも嫌いでしたね。食べ物でいえば、茄子も食感が気にくわないとかで未だお食べにならないでしょう。そういえば、綿あめもあまり好きではありませんでしたね。これは意味がわかりませんが。とにかく、人間なんてものは誰しも完璧ではないのです。秀成殿も、信子も、当然あたしだって。貴女は秀成殿が完璧な人間だから惚れたのですか? そんなわけがないはずです。だいたい貴女は――」
「もういいッ!」
痛くて、恥ずかしくて、熱くて、恥ずかしくて、恥ずかしくて、とにかく恥ずかしくて。とうとう恥の涙を堪えきれなくなった私は杏花に抱きつき、情けなくも眼からこぼれるそれを誤魔化した。
「勘弁してくれぇ! 私が悪かったから!」
「あたしにいくら謝られたところで、問題の解決にはなりませんね」
「わかった! 秀成に謝る! 明日謝るから!」
「そもそも、謝っただけでは解決しませんねぇ」
「ならばどうしろと言うのだ、私に!」
「簡単なことです。秀成殿を誘い、共にプールへ行って泳ぎを教えてあげればよろしい。デートも兼ねて、一石二鳥ではありませんか♡」
「で、出来るかそんなことッ!」
「いいえ、やるのです♡」
恐る恐る顔を上げた私は、大きな胸の向こうにある杏花の顔を垣間見る。その顔に浮かんでいるのは、やはりと言うべきか女狐的笑顔であった。