寝返り注意して その1
色々と話が動いてくる予定です
六月の末、季節は早くも夏真っ盛り。太陽が絶えずコンクリートを焼いて、昼間は灼熱地獄めいた暑さになる。アブラゼミのじぃじぃという鳴き声が煩わしい。少し外を歩くだけで汗をかいて仕方ない。クーラーは涼しくて便利だが、反面、頼りすぎると風邪を引くことがあってよろしくない。しかしこれだけ暑いとどうしたって頼らざるを得ない。夏祭りに行けば浴衣姿を見られるのはいいが、屋台の価格はぼったくりである。どこへ行っても大変混みあい、暑いのと相まって億劫だ。
やんわりとした罵詈雑言を浴びせているのを見てわかる通り、僕は夏があまり好きではない。それは夏に特別嫌な思い出があるわけでもなくて、単純に僕がカナヅチであるからという理由に起因する。夏の象徴たるプール・海に入れないと、人間誰だって夏が嫌いになるというのは僕が昔から提唱してきた持論だ。
僕だって男だ。苦手だからといって泳ぎに挑戦してこなかったわけではない。しかしどうしても駄目だった。どれだけ準備運動を入念にしていようとも、水に入ったその瞬間に、まるで四肢が蝋で固められたようにぴったり動かなくなる。前世はきっとブリキの人形だったに違いない。
僕は夏が好きではない。プールが、海が好きではない。塩素の、潮風の匂いを嗅いだだけでむせ返りそうになるほどだ。ゆえに、一般的な男子高校生に比べると水着をそこまで好まないのも必然と言えよう。
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季節はずれの体育祭が終わったころから、学校には重機の類やヘルメットを被った土木作業員が頻繁に出入りしている。体育館の裏手にあった旧集会場を取り壊して、その場所で何やら作っているらしいが、工事現場一帯がシートに覆われているため詳しいことはわからない。
いったいアレは何なのか? 学校には様々な憶測が飛び交った。
それらのどれもが「お化け屋敷でも作ってるんじゃないの」とか、「観覧車とかかもよ」とか、「希望の像のテーマパークかも」だとか、とてもまともだとは思えない予想ばかりなのは、この学校がまともじゃない、正気とは思えない、あり得ないことを平然とやらかす恐れがあることを、ここ最近の傾向から誰しもわかっていたからである。
ちなみに僕の教室では「ペタンク広場説」が有力であった。この説がまことしやかに囁かれるのにもきちんとした理由があって、工事現場に平手先生が頻繁に出入りする姿が目撃されているためである。体育祭にペタンクをやらせるほどの平手先生であれば、ペタンクのためだけの広場を学校内に作ったとしてもなんら不思議はない。
しかし、そんな僕達の予想はものの見事に裏切られることになる。恐らく、大半の男子生徒にとっては良い意味で。僕にとっては悪い意味で。
テスト期間を目前に控えた朝のことだった。HRの五分前に教室に駆け込んできた京太郎は、浮かれた調子で「ちゅーもくーッ!」と声を上げて僕達の注意を惹いた。
「なんだよ」「今度はなにやるんだアイツ」「どうせアホなことだろ」「勉強しろアホ」などといった思いが込められた視線が京太郎に向けて一斉に注がれるが、彼は気にせず語り出した。
「自分で言うのもどうかなって感じだけど、俺って結構、コミュ力高いじゃん? だから、工事のオッサンとも結構仲良くなっちゃってさ。缶コーヒー奢ったり奢られたり。からあげクン一個あげたり貰ったり、読み終わったマンガ雑誌あげたり貰ったり、タバコ吸うかボーズなんて言われちゃったり。いやでも、タバコは断った。俺、健康第一がモットーだから。150まで生きるから、ゼッテー」
「要点だけ言え要点だけ」「バカにしてんのかお前はー」「時間のムダなんだよ」などの国会顔負けの野次が飛び、一旦話を切った京太郎はやけに満足そうな顔で頷いた後、さらに続ける。
「でさ、俺、いま何の工事やってんのってオッサンに聞いたわけよ。でも、オッサン答えず。なんでも、平手に口止めされてんだって。で、そっから俺の粘りの見せどころ。いいじゃんいいじゃん、言っちゃおうぜ、吐いてラクになっちゃおうぜ、てな感じで、ベテラン刑事顔負けの説得。ま、カツ丼は無しだけど。財布の中身的にちょっとキツいから、せいぜい牛丼並。でも、俺の場合は牛丼並すらいらず。口だけで十分。てか、口だけってそーいう意味じゃないから。俺、ソッチの方向はNGな感じで」
無駄話を延々聞かされた挙句、肝心なところは聞けず終いで時間切れを迎えてしまいそうだったため、僕は手を挙げて「あれかな」と割り込んだ。
「つまり、あそこに何が出来るのか、京太郎はわかってるのかな」
「そゆこと」と言って親指を立てた京太郎は心底嬉しそうな笑顔を浮かべながら言った。
「この学校にプールが出来るんだってよ」
○
僕が高校を選ぶ際、第一条件にしたのが偏差値とかそういう点ではなく、「プールが無いこと」であった。僕はプールがないからこそ、この高校を受験しようと決めた。だというのにこれからプールを作るというのは、もはや僕個人に対する裏切り行為といっても差し支えないレベルである。声を大にして断固抗議したい。
「ま、たぶん今年中の完成は間に合わねーだろーからさ。諦めて練習しろよ、ヒデナリ」
僕がカナヅチであることを知る友人達は、薄情にも口々にそう言った。「そんな簡単な問題じゃない」「あれは僕達の授業料を勝手に使って作ったものなんだぞ」「共にこの圧政に対して戦おう」「邪知暴虐の校長は引きずり下ろそう」と僕は必死に訴えたが、彼らはまったく聞く耳持たずであった。
彼らの頭にあるのは、水着に押し込まれた柴田さんのスイカである。ゴジラである。エベレストである。夢、希望、その他諸々をいっぱいに詰め込んだ女子の胸を前にした時、男子高校生の友情はなんと儚く脆いものか。これでは発砲スチロールの方がまだマシだ。
僕は悩み、嘆き、そして悲しんだ。こんな世の中を恨んだりもした。工事現場を爆破してやろうかと、ほんの一瞬だけ本気で考えもした。しかし四時間目の終わり辺りになれば、さすがに「やはりどうしようもないのだ」という現実がわかってきて、鉛のように重く冷たい諦めを僕は呑み込んだ。
その日の昼休み。購買で仕入れたパンを片手にとぼとぼ歩いて教室に戻っていると、ばったり織田さんと出くわした。片手に弁当箱、腰には刀。いつも通りの素敵なアンバランスだ。
「秀成、そのような顔をして、どうしたというのだ?」
「色々ありましてね」と僕はため息を吐く。彼女に自分が泳げないことを告白するのは、なんとなく憚られた。
「織田さんは、これからお昼ですか?」
「うむ。教室にいると色々面倒でな」
そう言って織田さんはスタスタ歩いて行こうとしたが、二歩ほど進んだところで思い立ったようにぴたりと足を止め、ふいにうつむいた。
「どうされました? ご気分でも優れませんか」
「い、いや……。その、共にどうだと思ってな、昼食を。いつも屋上で食べているのだ。景色もいいし、誰もいないからな」
「それは嬉しいお誘いですが……急にどうされたんです?」
「う、うるさいッ! いいから行くぞほらッ!」
織田さんは刀を引き抜いて、僕の喉元にその切っ先を向けた。仮に誘いを断っていたら、首と胴体がサヨウナラしていたのかなと、僕はぼんやり考えた。