あなたは武士 その2
京太郎と別れて学校の最寄りの駅まで行くと、異様な人だかりが切符売り場の前に出来ていた。なんだろうかと思って見てみると、怪しげな格好の女性が券売機と対峙していた。
着込んでいるのは青い花がまばらに散った水色の袴である。腰に黒鞘の模造刀を下げ、長い黒髪を後ろ手に結んだその人は、千円札を握りしめて立ち尽くしている。
恥ずかしげもなくコスプレめいた恰好をしているところを見るに、海外からの観光客か何かだろうか。
人ごみを縫ってその人の元に近づいた僕は、彼女の背中に「ハロー」と声を掛けた。仮に言葉が通じなくても、ボディーランゲージでどうにかなるだろうと考えてのことだった、
「メイアイヘルプユー?」
「私が英国人に見えるか? 黒船に乗ってやってきたと?」
返ってきたのは流ちょうな日本語だった。僕は慌てて「申し訳ない」と頭を下げる。
「しかし、困っているように見えたのは事実です。よろしければお手伝いしますが」
「それなら頼みがある。川越までの切符を買いたいのだが、どうすればいいのかわからない。手を貸してくれるか?」
そう言って彼女はゆらりとこちらに振り向いた。
神経質そうな鋭い目つきに凛と上がった眉、きりりと一文字に結ばれた唇に、涼しげにつんと伸びた鼻先。顔のパーツひとつひとつが、熟練の人形師が丹精込めて作り上げたかのように美しくて、僕は一瞬、彼女に見惚れた。時が止まったような気がした。
「……どうした? 手を貸してくれるのではなかったのか?」
「も、申し訳ありません。すぐに」
懇切丁寧に切符の買い方を説明すると、彼女は「苦労をかけたな」と言って微笑んだ。
「褒めてやろう。お前、名前は?」
「田中秀成と申します」
「いい名だ。その服装を見るに、高校の生徒だな。覚えておいてやろう」
「ありがたき幸せ」と僕はなんだか時代劇のようなことを言って頭を下げた。その恰好のせいなのか、彼女にはこのように接しなければならない気がした
それにしても、上から目線の物言いが妙に板についているお方だ。どんな言われ方をされても不思議と腹が立たない。切符を買えないことといい、ひょっとすると彼女は、僕のような一般庶民が視界に入れることすら憚られるほどの名家のお嬢様か何かなのかもしれない。
川越までの切符を購入した男装のお嬢様は、「ではな」と言ってすたすた歩いていった。しかし今度は改札の通り方がわからないようで、ばちんばちんと勢いよく閉まる自動改札機に何度も足止めを食らっていた。
助けてあげようと僕が声を掛けるより先に、お嬢様が腰の刀に手を掛けた。いくら模造刀でもあんなものを駅の中で振り回されては堪らない。僕は慌てて彼女を羽交い絞めにする。
「放せ秀成っ! もう我慢ならん!」
「お待ちを! 切符は持っているだけでは意味がありません!」
今度は自動改札機の使い方を教える羽目になった。どこのお嬢様だかは知らないが、箱入り娘にも限度があるだろう。家族は彼女に電車の乗り方を教えた方がいい。
〇
結局、僕は彼女の目的地である川越までついて行くことにした。どうせ暇だし、乗りかかった船だ。それに、また何か彼女が問題を起こしたらと考えると他人事だというのにヒヤヒヤしてしょうがない。テレビを見ていたら、「電車内で模造刀を振り回した女性が逮捕」、なんてニュースが流れては寝覚めが悪いではないか。
しかし僕の心配とは裏腹に、彼女は電車に乗る最中、じっと座って石像か何かのようにぴくりとも動かなかった。強張った表情に冷や汗が数滴垂れているところを見るに、どうやら緊張しているらしい。電車に乗るだけでこれでは、この歳になるまでどうやって生活してきたのかわからない。
やがて電車が川越に到着した。到着案内のアナウンスが車内に流れているにも関わらず、それにすら気づかないのか彼女が動こうとしなかったので、僕は彼女の肩をトントンと叩いた。
「着きましたよ。川越です」
彼女はハッとした表情で立ち上がり、「済まないな」と呟いた。辛うじて言葉を紡いだその唇は薄紫に染まり、微かに震えていた。
共に電車を出た僕は、彼女に「肩をお貸しましょうか?」と提案した。実際、彼女の足取りは支えが必要なほどにふらついていた。
「必要ない。余計な世話だ」
「しかし、どうにも体調が優れないようです」
「要らんと言っている。秀成、もし私に触れてみろ。その時は……一片の容赦なく斬り捨てる」
そう言って彼女は相変わらずふらふらしながら歩き始めた。僕はそんな彼女の背後についていく。助ければ斬ると言われたが、だからといって見ているだけなど出来なかった。
彼女はふうふうと息を吐きながら、手すりを使って階段をなんとか上っていく。大丈夫だろうかと心配になった次の瞬間――彼女は階段を踏み外し、バランスを崩してこちらに倒れてきた。
僕は両腕を伸ばして彼女を受け止める。一瞬ひやりとしたが、ある程度予想していたことなのでなんとか対処出来た。やはり、後ろについていて正解だった。
安堵したのも束の間のこと、僕は顎に掌底を食らった。見えはしなかったが、彼女からの一撃であることは間違いない。
痛みはほとんど無かったものの、突然のことに驚いて思わずその場に膝を突いた僕が視線を上げると、そこには殺意を宿した瞳で日本刀を鞘から引き抜く彼女の姿があった。
構内にいる人がざわつき始める。遠巻きにこちらを眺める人は何人もいるが、助けに入るような人はいない。
「……秀成、私に触れたらどうなるか……説明しただろう?」
「お、お待ちを! 貴女が怪我をすると思うと、どうしても放っておけなかったのです!」
「問答無用。辞世の句を詠め」
「そ、そのようなこと! 出来るわけが――」
「いいから詠めッ!」
戦国大名ではないのだから、辞世の句など思い浮かぶはずもない。そもそもこのような場所で殺されたくない。しかし彼女の鋭い視線からは逃れることなど到底出来ない。仕方ないので、泣く泣く「夏草や、つわもの共が、夢のあと」などと詠み上げると、彼女は振り上げていた刀をゆっくりと降ろし、鞘に納めた。
「……見事な句だ。殺すには惜しい。秀成、この場は生かしてやる」
どうやら彼女は松尾芭蕉を知らないらしい。
この場では殺されずに済むらしいと、内心安堵していると、彼女は右手に持っていた黒鞘の刀をぶっきらぼうに突き出して僕に持たせた。
「な、なんでしょうか、これは」
「ここまで案内してくれた駄賃の代わりだ。とっておけ」
言うや否や、彼女はふらふらとした足取りで階段を上って行った。僕は慌てて彼女の後ろについて歩いたが、今度は足を踏み外さなかったので安心した。
改札の外へと出ていく彼女をこっそり見送った後、僕は来た方とは反対方向の電車に乗って家へ帰った。
まさに驚きの三段撃ちを浴びせられた一日であったが、中でも一番僕を驚かせたのが、彼女から頂戴した日本刀が真剣だったことだ。
廃刀令が敷かれて幾星霜。こんなご時世にまさか日本刀を持って歩く人間がいるとは。というよりも、そもそも銃刀法違反である。親御さんは何をやっているのだろうか。
帰りの道中、警察から職質を受けなかったという幸運に感謝しながら、僕は刀を家の押入れの奥深くにしまい込んだ。
☆
城に戻ってもまだ動悸が止まらなかった。身体が宙に浮遊したような気がして落ち着かない。指先が震え、食欲が湧いてこない。だというのに熱はない。もしや、私は城の外で何かとんでもない病を拾ってきたのではないだろうか。
心配になって布団に潜り目をつぶると、ふと思い出す顔がある。あの秀成とかいう男の顔だ。見た通りの頼りの無い優男で、仮に戦に出れば一刻ともせず殺されるだろう。しかしなかなかどうして男気がある。
そう思うと益々動悸が激しくなり、益々浮遊感が強くなり、益々食欲が失せてくる。
「……あの男、さては私に毒を盛ったな」
そうだ! そうに違いない! でなければこの体調不良の説明がつかん! まったく! まったくまったく!
思えば思うほど苛立たしくなってきて、私は枕にあの男の顔を思い描き何度も拳を打ち付けた。それでは到底怒りが収まりそうにもなかったので、両腕を使って首を絞めてやった。夢想の中で秀成を幾度と打倒した私は、ふと無性に恥ずかしくなって畳の上を転がった。
何をやっているんだ! 私は! 恥を知れ! しかるのち腹を切れ!
冷静になったところで部屋の襖が僅かに開いていることに気が付いた。慌ててその場に正座して取り繕い、「誰だ」と凄みを利かせた声で尋ねると、入ってきたのは私の剣術指南役兼世話係である柴田杏花という女だった。
「杏花か。どうした」
「どうしたもこうしたも……お屋形様がずいぶんお暴れになっているようでしたから、心配になって見に来たのです」
「少し身体を動かしていただけだ。大事ない」
「そうですか」と言いながら、杏花は私の顔をじっと見た。この女の瞳は苦手だ。眠っている時ですら途絶えることのないこの女の笑みの前では、どうにも心を見透かされている気がしてならない。きっとこの女の前世は、天狗かもしくは女狐だ。
やがてふっと息を吐いた杏花は、口元にからかうような微笑みを浮かべた。
「……お屋形様、さては今日、恋をしましたね?」
――瞬間、私の本能が選んだのは、枕元の刀に手を掛けるという行為だった。
刀を引き抜いた私は刃を真っ直ぐ女狐の頭に降り下ろしたが、そのひと振りは虚しく空を切った。腹立たしい話だが、産まれてこの方、私はこの女の面をまだ一度も取ったことがない。
それから私は幾度と刀を振った。しかし、ただでさえ実力差があるのに加えて、冷静さを欠いた刃が当たるはずもない。杏花は柳の如き柔らかい動きで、ひらりひらりと紙一重で刃を躱す。私はただただ無暗に体力を失っただけであった。
とうとう刀を取り上げられた私は、肩で息をしながら、「何を言うのだッ!」と杏花を怒鳴りつけた。刀は届かないが声ならば届く。
「別に。思ったことを言っただけです。しかしその焦り方を見るに、図星のようですね♡ いやあ、おめでたいおめでたい。お赤飯でも炊きましょうか?」
「ず、ず、ず……図星なわけがあるかッ! 色恋沙汰も赤飯も、私には不要だッ!」
「そう言わずともよいではないですか。あたしは嬉しいですよ。お屋形様が〝普通のおなご〟の喜びを味わえて♡」
杏花は私の隣に座ると、ひっそり耳打ちしてきた。
「それで、お相手はどんな殿方なんですか? 細い髭をお生やしになった細面の菅原道真系? それとも、無骨な筋肉のゴリマッチョ、勝家様系?」
「だから、恋など――」
「わかりました。ですが、今日お会いした秀成殿の顔を忘れられないのは確かなのでしょう?」
「な、何故奴の名がわかるッ! お前、やはり女狐かっ?!」
「おやおや人聞きの悪い。『秀成』という名前を呟きながら枕を抱きしめておられたのはお屋形様でしょうに」
なんと、全て筒抜けであったらしい。これほど恥ずかしいことがあるか。私は五体を畳に投げ出し、「いっそ殺せ!」と叫んだ。
「まあまあ、気に病むことはありません。ほらほら、早くお相手がどんな方だったのか、この杏花に教えて下さいまし。というか、教えてくれなければこのことを家中の者に言い触らしますが?」
「私を殺す気かお前っ!」
「そんなことはありません。愉しみ、そして応援するつもりです」
「愉しむなッ!」
「いえいえ、存分に愉しみます。だって、お屋形様がかわいいんですもの♡」
杏花は無駄に大きさのある胸をむんと張る。その仕草を見た私は、稽古中でもそれ以外でも、この女からは逃げられたことがないことを思い出した。