そこそこキュートな私と一緒に その3
学校へ行こうと家を出ると、少し歩いたところで柴田さんと出くわしたので驚いた。まさか、彼女が近所に住んでいるとは思いもしなかった。
やけに眠たげにあくびをした柴田さんは、「おはよう」と言いながら目を擦った。
「さっぱりした顔してるじゃん、秀成くん。昨日はよく眠れたみたいだねっ」
「そういう柴田さんはあまり眠れなかったみたいですね」
「うん。ちょーっと寝不足でさ。夜のオシゴトのせいで」
彼女の唇から紡がれる〝夜のオシゴト〟という言葉は大変なインパクトがある。官能的というか、艶めかしいというか、生唾を呑み込まざるを得ないというか。
朝早くから面を上げた助平心を「なにやってんだ」と諫めた僕は、隣を歩く柴田さんのエベレストを視界に入れないようにするため空を見上げた。汗ばんでくるほど良く晴れた日で、ひとつの雲も浮かんでいない。
「これだけ晴れた日だと、良いことが起きる気がしますね」
「それはどうかな。こういう日こそ、イロイロと大変なことが起きるものだよっ」
やけに後ろ向きな発言が投げつけられると同時に、僕が思い出したのは昨日の織田さんの言葉だった。
――嵐が来る前触れのような、嫌な予感。
女性の勘はよく当たるというし、気を付けるに越したことはないのだろう。
「ご忠告ありがとうございます」と頭を下げると、柴田さんは「いいのいいの」と笑顔を浮かべる。唐突に向けられた柴田さんの女狐のような微笑みに、僕は漠然とした不安を覚えた。
〇
教室に着くと、みんながやけにざわついていた。それを見た柴田さんは「また体育祭かなぁ」と呟くと、クラスメイトへの挨拶もそこそこに自分の席に着いて机に突っ伏し、安らかなる眠りの世界へと旅立っていった。どうやらよほど眠いらしい。
しかし、うちの高校はまた体育祭をやらかすのか?
まさかそんなことがあるはずは無いと思いつつ、先に来ていた京太郎に念のため聞いてみれば、「んなわけあるかよ」という答えが眠たげなあくびと共に返ってきたので一応はホッとした。
「なんでも、交換留学生が来るんだってよ。どこのクラスに来るかは知らねーけど」
僕が不思議に思ったのは、〝交換留学生襲来〟なんて珍しいイベントを前にして、京太郎がいやに落ち着き払っている点だった。普段の彼であれば、8月の蝉のようにわんわんと騒いで、ありもしない妄想を膨らませているころだろうに。
「京太郎、今日はやけに大人しいね」
「……そんな気になれなくってな」
刑事ドラマの主人公のように、やけにシリアスな顔つきでそう答える京太郎が可笑しくて、半ば笑いながら「なにそれ」と尋ねると、彼はぺろっと舌を出して自分の頭をぺちんと叩いた。
「……なーんて、俺ってちょっぴりハードボイルド? まあ、白状すれば夜中までゲームやってて、スゲー眠いってだけなんだけど。ホラ、俺って意外とゲームにマジになっちゃうタイプだから。しかも、いま流行りのソシャゲとかじゃなし。正々堂々、真っ向からテレビゲーム。タイムアタックとか縛りプレイとかやっちゃう人。なんなら秀成、今度スマブラでもやるか? 俺、地元じゃ負けたことないからマジで」
いつものうるさい京太郎が帰ってきたことに僕はどこか安心したが、「てか、よく考えたら交換留学生ってヤベェな。もしかしたら可能性アリ? 海を越えた恋が発生しちゃう可能性アリ?」などとアクセルべた踏みで妄想エンジンを空ぶかしする様を見て、やはり少しは大人しくしてもらった方がいいのかもしれないと考えを改めた。
それから京太郎の妄想に付き合っているうちに中村先生がやってきた。いつにも増して気だるそうな猫背歩きなのは、夜の仕事のせいか、ゲームのやりすぎか、あるいは――。
先生は教卓に肘を突き、「はーい」と重たげな声を上げる。
「すっかり噂になってる交換留学生なんだけど、ウチのクラスに来ることになりましたー」
クラスのみんなが一斉に「ええーっ?」と声を上げたのは、留学生が来ることへの期待と、日本語の通じない相手と生活を共にすることへの不安があったからなのだろう。
活気づいた京太郎が「女子ッスか!」と手を挙げるのを、中村先生が「うるさい」と撥ねつける。「だいたい、なんでウチのクラスご指名なのよ」などとこちらに聞こえる大きさの声でぶつぶつ文句をこぼしているのは、教師としていかがなものか。
「ま、いいわ。さっさと入って自己紹介してもらいましょうかね」
先生が投げやりに言うと、教室の扉が静かに開き、女子生徒がしゃなりしゃなりと僕達の前に姿を現す。「おお……」という感嘆のため息があちらこちらから漏れたのは、彼女がまるで京人形の如く上品な顔立ちをしていたからだろう。
目尻の下がった目でゆらりと教室中を見回した彼女は、ゆったりと頭を下げた。綺麗に切り揃えた絹のように細い前髪が揺れて、ぽってりと太い眉がちらりと見える。香の匂いが僅かにこちらまで漂ってくる。
夏用ブラウスに赤いリボン、スカート。恰好は至って普通だというのに、不思議と高貴な印象を受けるのは、6月の光が透けて通るほど華奢な身体つきのおかげだろうか。
口々に「ハロー」と言って頭を下げた僕達を前に、はんなり美人の女子生徒は満足顔であった。
「京都からやってきました、木下晴美と申しますぅ。短いお付き合いになると思いますけど、お手柔らかにお願いしますぅ」
彼女の唇が紡ぎ出した大変流ちょうな日本語で、僕は「なるほど」と理解した。この学校は交換留学生の語義を間違っている。
〇
「私だっておかしいと思ったよ? 交換留学生だってのに京都からって、あり得ないでしょフツー。でも、こっちはあくまで雇われの公務員に過ぎないわけ。資本主義社会の悲しい歯車なわけ。上からのお達しには逆らえないわけ。だから、校長から肩ぽんぽん叩かれて、『君のクラスに京都からの交換留学生が来るから、ひとつヨロシク』なんて言われたら断れないし、『なんで京都から?』なんて疑問も許されないわけ。君達も大人になったらわかるよ、世の中は常に理不尽に溢れてるってことを」
このような調子で社会への不満と大人のしがらみをつらつらと語り、あと十年もしないうちには間違いなく僕達の元までやってくる現実の辛さをまざまざと見せつけた中村先生は、木下さんの席を僕の隣に用意した後、「じゃ、あとはヨロシク」と僕の肩を叩いて教室を出て行こうとした。
高校一年生の僕に大人のしがらみの一端を掴ませるとは言語道断である。そういうこととは、せめてあと3年は無縁で生きたい。
僕はすかさず先生の腕を「待ってください」とがっしり掴んだ。
「ヨロシクってなんですか。なんで僕なんですか」
「田中くんってそういう人の扱い得意でしょ。だからいいかなって」
「そういう人ってなんです」
「……歴史系女子?」と小首をかしげた先生は、僕の額をデコピンで弾き、僅かに生まれた隙を逃さず教室を逃げ出した。〝とんずらこく〟とはまさにこのことである。
呆気に取られた僕であったが、すぐさま「いや」と気持ちを切り替えることが出来たのは、木下さんが「ひとつお願いいたしますぅ」とぺっこり頭を下げる姿を前にしたからだ。
そうだ。彼女は今、見知らぬ人に囲まれた慣れない環境に不安がいっぱいの状態なんだ。彼女にとっては、この学校が交換留学生の語義を間違っていることも、中村先生がしがらみの押し売りを平然とやってのけたことも関係ない。今の彼女にとっては僕だけが頼りなのだから、その期待には応えねばなるまい。
僕は「任せてください」と自らの胸を叩いた。
「あら、頼もしいお返事やねぇ。期待してるよ、秀成くん。これ、お近づきのしるしにどうぞ」
そう言って木下さんが手渡してきたのが京都の生八つ橋だった。「受け取れませんよ」と断ったのだが、「ええのええの」と言って聞かなかったので、僕は恐縮しながら受け取った。
「あれ、そういえば僕、いつ自己紹介なんてしましたっけ?」
「知らんかもしれんけど、有名人なんよ、君」
木下さんの微笑みがなんとなく怪しさを増したように見える。
スポーツやその他で名前を残したことは無いと思うが、そんな僕がなぜ有名人なのか。嫌な寒気を感じて、「そんなに有名かな」と冗談交じりに探りを入れると、木下さんはけらけらと笑った。
「じょーだんやって。ただ、センセから聞いただけ」
「ですよね」とぎこちなく笑った僕は、内心で小さくため息を吐いた。