今日は朝から馬乗って その7
劇的な勝利を収めたあの後。拍手喝采並びに一部の男子生徒から手荒い祝福を受けながら教室まで戻った僕は、柴田さんから織田さんが倒れたことを聞かされた。
「さっき保健室まで連れて行ったの。大丈夫だとは思うんだけど……お見舞いにでも行ってあげてね?」
電車に酔って倒れかけたことのある彼女のことである。あの人ごみに気分が悪くなったに違いない。「大丈夫だろうか」と心配になり、慌てて着替えて興奮冷めやらぬ教室を抜け出し、保健室の前までやってきたところで、僕の頭によからぬ考えが過ぎった。
「織田さんの無防備な寝顔を是非とも見てみたい」
その時の僕は勝利の美酒に悪酔いしていたに違いない。でなければ、助平心に理性が負けることなど断じてあり得ないことだ。
しかし、今となっては自己弁護の仕様がない。何せ僕は秘境へと繋がるカーテンを開けてしまい、その奥にいる織田さんと目を合わせてしまったのだから。
上半身だけ起こした織田さんは、初めて鏡を見た猫のようなきょとんとした顔をしている。僕は額に流れる冷や汗を指で拭いながら、「どうも」とぎこちなく微笑んだ。
「…………何をしに来た、秀成」
「その……柴田さんから織田さんが倒れたって聞きまして。それで、様子を見に来たんです。大丈夫ですか?」
僕の問いに「大事ない」とだけ答えた織田さんは、ぷいっとそっぽを向いてベッドの縁に腰掛けた。怒らせてしまったようだが、枕元に置いてある短刀で斬りかかられなかっただけ僥倖と思うべきだろう。
「ノックもせずに申し訳ありませんでした」と深く頭を下げた僕は、「ではこれにて」とそそくさ帰ろうとする。しかしそんな僕の背中を、織田さんは「待て」と呼び止めた。
「先の戦は誠に見事だった。褒めてやる」
「お褒めに預かり光栄です」
「しかし、本物の戦であればあの戦法は通用せんぞ。戦場で倒れることは、すなわち死を意味するのだからな」
「ご忠告、感謝します」
「うむ。では、下がってよい」
どうやらそこまでお怒りでもなさそうだと、ホッとしたところで改めて織田さんに目をやれば、なんと彼女は高校の制服を着ているではないか。やけに丈の長いスカートが一昔前の不良を思わせるが、今の時代ならそれは大和撫子の証だ。それに、そういう奥ゆかしさを感じさせる姿が、彼女にはよく似合っている。
僕は去り際、未だそっぽを向く織田さんに「その恰好、お似合いです」と言った。
「似合っているとはなんの話だ?」
「制服ですよ。個人的には、袴よりも似合っているかと」
「せいふく」と片言で呟いた織田さんは、自分の胸元に視線を落とす。それからしばし固まった後、彼女は壊れたゼンマイ仕掛けの人形のような速度で僕の方に顔を向けた。奇妙なことに彼女の表情は、まったくの〝無〟であった。
「……この出で立ちが似合っていると言うか、お前は」
「え、ええ。とても。……その、気に障りましたでしょうか?」
「かまわぬ」
それから織田さんは糸が切れた操り人形のようにがっくりうなだれ、「いけ」とだけ口にした。その意図がわからず「はい?」と尋ねてみたが、返ってきたのは同じ言葉であったので、僕は「帰れ」ということだろうと解釈して保健室を後にした。
☆
制服が似合っている。この制服が似合っている。この制服が〝とても〟似合っている。とてもというのはどれくらいだ? 安土城くらいか? 自分ではさっぱりわからぬが、もしかして私は、秀成から見てかわいかったりするのか?
まさか、いや、そんなはずは、しかし、なんだ、その、なんていうか、うれしい。とても。とてもうれしい。
私は壊れた赤べこの如く頭を上下させる。こうでもしなければ、なんだかわからない叫びが出てきそうだったのである。
しばしの間そうしていると、幕が突然開けられた。心臓を鷲掴みにされたような衝撃にハッとして、咄嗟に音のした方を向けば、そこにいたのは杏花であった。
「ほら。ですから、似合っていると言ったでしょう? 着替えさせたあたしに感謝して頂きたいですね」
私は「うむ」と頷いた。耳から頬まで燃えるように赤いのは、夕焼けのせいだけではない。
?
その日の夜空には壊れそうなほど細い三日月が浮かんでいた。風が吹けば折れてしまいそうだというのに、その怪しい光は存外はっきりしている。
そんな光に照らされる影が、秀成の通う高校の屋上にふたつある。
片方は男。背が高く、一見したところ細い身体つきだが、黒装束の下に隠れた筋肉は限界まで絞られ、そして鍛え上げられている。
もう片方は女。化粧はしていないものの、おかげで却って若々しく、見ただけで年齢の判別はつかない。桃色の寝間着を着込んでおり、学校の屋上に立っているには大変不釣り合いな恰好ではあるが、やけに堂々とした立ち姿のため、それを指摘しがたい雰囲気を纏っている。
両者の間にある距離は5m。それはそのまま互いの心の距離を表しているかのようだった。
「それにしても奥様、相変わらずお綺麗ッスね。高校生、ってのは言い過ぎな感があるにせよ、大学生でジューブン通用しますよ。てか、むしろだからこそ制服が似合う的な? コスプレ女子大生的な? どすか、着てみたりしません?」
軽薄という言葉の用例に載せたいほど薄っぺらい喋り方の男はヘラヘラと笑っている。女の方は「笑いごとではありませんよ」と静かに言って軽薄な男を睨んだ。
「私の聞きたいことがわかりますね?」
「なんでアイツを助けたか、ですか? それ、わざわざ聞いちゃいます? 無粋ッスねー。男同士の友情に決まってんじゃないッスか」
「ふざけた答えを聞きたいわけじゃないの。言っておくけど、次はありませんよ」
「わかってますよ」と答えた男はふと苦々しい顔つきになる。
「そりゃ、俺だって〝お姫様の恋の手助け〟をしたかったわけじゃありません。でも……なんていうかムカついたんスよ、あの男が」
「あの猪武者のこと?」と尋ねる女に、男は「そうッス」と何度も頭を上下に振って肯定の意を示した。
「だって実際ムカつきません? 俺達には騎馬戦のクセに女子にはペタンクッスよ? ま、意図はわからないでもないんスよ。お嬢様を怪我させたくない一方で、お嬢様の見てる前で坊ちゃんに恥をかかせたい。でも、ありゃないでしょ。マジの馬連れてくるって、反則もいいとこ。一発レッドカード退場モン。出場停止三か月、ってな具合で――」
「いいわ、もう。つまりあなたは、与えられた役目よりも自分の感情を優先させた、ということね?」
「いや、まあ、そうなんスけど。でも、その身に流れる血には抗えないのか、坊ちゃんも結構乗り気だったみたいですし、いいかなって」
「よくありません。あの子が怪我をしたらどうするつもりですか?」
「大丈夫ッスよ。いざとなったら俺が腹斬りますから」
「馬鹿なことを。あなたの命ひとつでは到底賄えません」
「こわ。その目、マジヤバいッスね。ゾクゾクしますわ」
男は口元に笑みを浮かべる。一見、余裕の笑みではあるが、実のところそれは自らを呑み込もうとする恐怖に抗う者の表情だった。
「ま。ともあれ、反省してますんで許してくださいよ。今後は、坊ちゃんを必要以上にあのお姫様に近づけないように精一杯努力しますから」
「ええ、そうしなさい」と頷いた女は前髪を逆なでた。
「明智と織田が交わるなど、決してあってはならないことなのだから」
3話終了
次の話で新キャラが出ます