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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

雨音に紛れて

作者: 藤宮こん

再投稿です(以前のタイトルは「梅雨の雨音」)。

 一瞬で、これは夢の出来事だと判断できた。が、俺は抗わずに、この夢の行く末を見守ることにする。

連絡が来てから、一体どのくらいの時間が経ったのだろうか。辺りはもう薄暗く、街頭の明かりが目立つようになってきている。

 全身から脂汗が滲む。頭が真っ白になり、彼女から送られてきた、たった三文字が、脳内を隅々まで埋め尽くしていった。

 公園に着くやいなや、入り口に自転車を乗り捨てる。ガシャンと嫌な金属音が聞こえたが、そんなことには構わずに、公園内をひた走った。


「ちょっと、放しなさいよ! じゃなきゃ、こ、殺すわよ」


 聞きなれた声が、闇の中の茂みから聞こえた。しかし、いつものそれとは違って、どこか弱弱しく震えている。


「いや~、威勢だけはいいね~、姉ちゃん。胸は全く立派じゃないのに、態度だけは一人前だな~」

「ほんとほんと、ほら、こんなに平べったい」

「きゃっ! どこ触って……け、警察呼ぶわよ!」


 茂みの陰からそっと覗くと、金髪の男二人に、とても見知った少女が取り囲まれて、両腕で胸を押さえながら、捨てられた子犬のように小刻みに震えていた。


「なあ、そろそろ」

「そうだな、誰か来るとマズいし」


 金髪男たちの一人が少女の後ろに回り、彼女の腕を捕まえて体をがっちりと抑え込んだ。


「いやっ! は、放しなさい! 放してぇぇ!」


 少女は辛うじて自由だった足をバタつかせ、必死に抵抗している。


「ったく、鬱陶しい小娘だな! ほら、いいのか? そんなに暴れまわると――」


 そう言いながら、もう一人の男が少女のスカートに手をかけ、一気に下ろした。彼女の下着が露わになる。


「っ!」


 少女は顔を真っ赤に染め、恥辱に満ちた表情に変わった。悔しそうに唇を噛みしめ、そこから滲み出した血が街頭に照らされて一層鮮やかに見える。


「ん? さっきまでの威勢はどうしたんだ、姉ちゃんよ?」

「それともなんだ、もしかして、こういうことされるのが好きなのか? とんだ変態だな」


 男たちがくすくす笑う。その度に彼女の唇から血が溢れ出した。


 助ける。


 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。


 少女を助けなければ。


 そんなことは分かりきっていた。そのために、ここに来たのだから。「助けて」と、たった三文字のメールが彼女から送られてきて、家に鍵もかけず飛び出してきたのだ。


 でも、動けなかった。


 自分が出ていってもあの二人には勝てないのではないか。自分のせいで事態が悪化しないか。少女を傷つけてしまわないのか。

 色々と考えた。


 だけど、今なら分かる。それはただ単に、怖かったのだと。恐怖で足がすくんでいただけだと。


「はは、可愛らしい身体してるな~」


 気づけば、目の前の少女は、一糸纏わぬ姿になっていた。


「…………」


 もう少女の目は光を失っていた。ただただ時が過ぎるのを待っているだけのように見えた。もはや男たちに抵抗しようとはしない。


「やっぱり、まだ全然発達してないな、ほら」


 少女の胸を執拗にいじる。


「なんか、小学生を犯しているみたいで不思議だな、ほんとにお前、中学生か?」

「…………」

「無視してんじゃねーよ」


 男が少女の左頬を殴る。唇から垂れていた血が周りに飛び散った。


「…………」


 殴られた拍子に、彼女の顔がこっちを向いた。

 目と目が合う。


「…………」

「…………」


 無言の会話を交わす。僅かに、彼女の目に光が宿ったような気がした。しかし、俺が何もしないと分かるとすぐに、もとの黒ずんだ瞳に戻ってしまう。何かが軋む音がした。


「――き! 紗来! どこだ!」

「紗来―! どこにいるの!」


 少女の両親の声が響いた。だんだんと、確実に、それは大きくなる。


「チッ、誰か来たぞ」

「ったく、これから楽しもうとしたのに、まあ、とにかく逃げるぞ」


 男たちは最後に少女の胸を軽く撫でてから、足早に去っていった。


「…………」

「…………」


 ようやく、動くことができた。ゆっくりと、彼女に近づく。


「…………」

「…………」


 地面にへたり込んでいる彼女の向かいに、俺は少し距離を空けながら座った。


「…………」

「…………」


 少女は震えている。どこかその姿がとても可愛くて、俺は我を忘れて彼女に手を伸ばした。


「触らないでっ!」


 その手がすぐさま弾かれる。


 何かが壊れた気がした。今まで積み上げてきた何もかもが、全て跡形もなく崩れ去る音がした。


 少女の瞳から、雫が零れ落ちる。その瞬間、自分がしたことの大きさが、しなかったことの重大さが、身に染みて感じられた。


「紗来!」


 茂みの中に入り込んできた、少女の父親と目が合った。


「――お前、紗来に何してる!」


 俺を押し倒し、馬乗りになった。

 俺を一発殴る。また一発。頬がヒリヒリと痛い。その度に意識が遠のき、頭がぼーっとする。

 反抗はしなかった。というより、する気が起きなかった。

 少女を見た。まだ泣いている。きっと泣き止むことは未来永劫ないだろう。

 

 そして、目の前が真っ暗になった。




「…………」


 目が覚めると、そこは自室だった。頬を触ってみても、特に痛みは感じない。

 やはり夢だったようだ。やけに現実味のある夢だった。

 そう、夢だ。それ以上でも、それ以下でもない。


「……はあ」


 台所に行き、昨日のうちに作り置きしていた野菜炒めやら焼き鮭やらを電子レンジで温め直す。

 一人、朝食を済ませ、歯を磨いて顔を洗い、制服に着替え始める。時折あくびをしながら、気だるげに玄関の扉を開いた。


「…………あ」


 思わず声が漏れてしまった。


 少女が走っていく。


 誰かと出合い頭にぶつかってしまいそうなほど、わき目も振らず、真っ直ぐに走っていく。ただひたすらに、ひたむきに走り続ける。

 横目で、ちらりと俺を見た。その眼は鋭く、凛としていて、とても透き通っていた。艶のある黒髪をなびかせながら、ところどころに小さな寝癖を跳ねさせながら、立ち尽くす俺を睨んだ――――ような気がした。

 が、それはきっと勘違いに過ぎないだろう。自分の勝手な思い過ごしだ。可愛い女の子の視線を感じるなんて、モテない男にはよくある経験のはずだ。


 朝の空は、雲行きが怪しかった。空は薄暗く、今にも土砂降りの雨が降ってきそうなほどだ。予報では、ちょうど放課後から激しい雷雨があるということだった。


 もう一度、、彼女の姿を思い出す。

 彼女の手に、傘は握られていなかった。


 そのことに気がつき、もう一度玄関の扉を開け、家の中へ引き返す。傘立てから一本、ビニール傘を手に取ってみたが、すぐさま戻してしまった。


 もう、気に掛ける義理はないだろう。


 そう思い直して、俺は家を後にした。今は自分一人の家となっているそれは、どこか空しく、寂しげに建っている。少し、似ているような気がした。


 その四、五軒隣には、少女の家が見える。子どもの頃はよく通っていた、青い屋根が目印の大きな家だ。二人で駆けずり回り、庭を滅茶苦茶にして、彼女の母親に叱られたこともある。今となっては懐かしい記憶だ。


 あの庭は、一体どうなったのだろうか。

 もう綺麗に直されているのだろうか? もしかしたら、もうすでに庭はなくなっているかもしれない。


 今となっては確かめようのない真実を思いながら、俺もまた、学校へ向かった。




 いつも通りの学校生活だった。特に話す友人はいなかったので、休み時間はひたすら本を読んでいた。授業はちょっぴり眠って、適当に掃除を済ます。本当に、何気ない日常の一コマだった。

 彼女は、たいていクラスの中心グループの中にいた。その美貌からか、男女ともに人気がある。噂では、高校に入ってから、僅か数か月で二十回以上は告白されているのだとか。


 でも、どうやら全て断っているようだった。その理由を彼女の周りの友人が尋ねてみるが、やんわりと、気まずそうに、いつもこう誤魔化すのだ。


「んー、今は恋愛はいいかな」


と。


 その真意を当然、誰も知らない。もちろん俺も。

 ただ俺は、なんとなくの推測はつくのだ。俺と、幼馴染みである彼女しか知らないことがある。


「…………」


 あの夢を思い出した。恥辱を受けた少女は、涙を流したあの少女は、今はもう笑顔で友人と話している。しかし、男友達は一人もいない。

 外は、案の定土砂降りの雨だった。屋根の端から、次から次へと雨水が流れ落ちてくる。傘をさしていても濡れてしまいそうなほど激しい雨だ。


 そしてやはり、家に着くころには靴下まで水浸しになっていた。

 傘の水を払い落とし、玄関に立てかけておく。

 外は肌寒く、少し寒気がしたので、風呂を沸かすことにした。浴槽を洗い、スイッチを押す。便利なものだ。


 待っている間、牛乳を温め、一口啜る。体が温まって心地いい。

 体が温まるにつれて、今度は眠気を催してきた。椅子に座ったまま、うとうととし始める。


 そのまま気持ちよく俺は眠り始めた。


「…………ん?」


 誰もいないはずの家に、ふと人の気配がした。が、俺は霊感がある方ではない。きっと夢でもみていたのだろう。夢と現実との狭間でぼーっとしながら、もうひと眠りしようとするが、


「――くしゅん」


 可愛らしいくしゃみが、玄関先から聞こえた。もう頭ははっきりとしている。これは夢ではない。

 そして何より、聞き覚えのある特徴的なくしゃみだった。


「…………あ」


 玄関を十センチほど開けると、ずぶ濡れの制服姿の少女が、口をぽかんと開きながら、弱弱しく立っている。


「……何の用だ」

「…………別に」


 少女は目を合わせたのはそれきりで、もう俺と目を合わせようとはしない。だから俺も合わせず、彼女の顔以外を見る。びっしょりと濡れた彼女は、肩が小刻みに震えていた。


「……くしゅん……」

「……はあ」


 玄関を全開にし、そのまま家の中へ引き返した。


「…………」


 彼女はきょとんとして突っ立ってる。


「……中で待ってろ」

「あ……うん……」


 小さく促すと、彼女も小さく返事をした。

 そして、二階の自室に畳んであったタオルを引っ張り出して、彼女の頭にふわりと投げた。

 彼女はそれを受け取ると、無言で髪の毛を拭き始める。

 そこでちょうど、風呂が沸いたことを伝える音声が聞こえてきてしまった。


「……風呂、沸いたけど」

「……え、あ、うん」

「…………」

「…………」

「……入って、いくか?」

「え?」


 俺がそんな提案をしてきたのが意外だったのか、目を丸くさせて驚いている。


「……で、でも、着替え、ないし」

「……妹のが残ってるから、貸してやる」

「……でも――」

「後で持ってくから、もう入ってろ」

「……うん」


 どこか遠慮がちに、彼女は風呂場へと向かった。

 俺も意外だった。まさか俺の家で彼女が、また風呂に入ることになるとは思いもしなかった。

 風呂からシャワーの音が聞こえてくる。何年ぶりだろうか? とても新鮮だった。


 二階に上がり、妹の部屋に入る。クローゼットの中を覗くと、妹が使っていた服やら下着やらがしまってあった。


 一体どの服を持っていったらいいものやら分からない。オシャレなものの方がいいのだろうか? 無難なシャツとかにしておいたほうがいいのだろうか? 


 散々迷った挙句、妹が部屋着にしていたジャージにすることにした。

 それを綺麗に畳んでから、風呂場のドアの外に置いておく。


「着替え、ここにあるから」

「……あ、うん」


 シャワーの音とともに、くぐもった声が響く。

 懐かしいものだ。子どもの頃はよく一緒に風呂に入ってたというのに、いつからかそれが恥ずかしく思い始めていた。

 今となっては話をすることすらない。今日は実に数年ぶりのことだった。天変地異でも起こるというのだろうか。


 高校に入ってまだ一か月ちょっと、上手くクラスに馴染めない俺に対して、彼女は既にクラスの雰囲気に慣れている。というか、その雰囲気を作っているような気さえする。まあ、当の本人はそんなことには気づいてはいないだろうが。

 中学校のときは違った。いつも誰に対しても壁を作りたがる癖があった彼女は、今の俺と同じくらい友人がいなかったし、話す相手と言ったら、俺ぐらいだっただろう。


 不思議と、俺に対する遠慮は、他の人と比べるとちょっぴり少なかった。俺も、見知った間柄である彼女とならリラックスできた。

 昔を思い出しながら、俺はもう一度牛乳を温め直すと同時に、お湯も沸かす。紅茶がどこかにしまってあったのを思い出し、それを探しているうちに牛乳が吹きこぼれてしまった。

 慌てて火を消し、すぐさま拭き取ろうとするが、


「熱っ!」


 直前まで火がついていたことを忘れていた。右手の人差し指が赤くなっている。急いで水道水で指を冷やしていると、今度はコンロで沸かしていたお湯が沸騰していた。

 水を止め、手を拭いてからコンロを止めに行くが、


「……お湯、沸いてるけど」

「ああ、ありが――」


 いつの間にか風呂から出ていた彼女が、ジャージ姿で目の前に立っていた。


「……何」

「いや、別に……」


 思わず見入ってしまった俺に変わって、彼女がコンロのスイッチを止める。


「……まあ、そこに座ってろよ」

「……言われなくてもそうするわ」


 そう言って俺が指を差しかけた椅子に、彼女が座った。

 食器棚からティーカップを一つ取り出し、軽く洗ってから、先ほど見つけていた紅茶のティーバッグを入れ、お湯を注ぎ、皿で蓋をして数分間蒸らした後、彼女の目の前に差し出す。


「あ……ありがとう」

「……別に」


 彼女は戸惑いながらも、一口飲む。気に入ったのか、間髪入れずにもう一口飲んだ。

 俺は紅茶は苦手だったので、先ほど沸かした牛乳を自分のマグカップに注いだ。


「…………」

「…………」


 二人して、ひたすら無言で啜る。さすがに気まずかったので、


「……なんでうちに来たんだよ」

「……雨降ってたから」

「だったら自分の家に帰ればいいだろ。数軒先なんだし」

「……忘れた」

「は?」

「鍵、家に忘れた」


 どうやらそういうことらしい。鍵を忘れて家に入れず、そのままでは寒かったので、仕方なく、最終手段として俺の家に来たらしい。


「……馬鹿だな」

「……うるさい」


 口を尖らせる少女。


「変わんないな、お前は昔から」

「……何それ、成長してないって言ってるの?」


 彼女の口調がケンカ腰に変わる。


「そうじゃねーよ。そういうドジなところが変わってないってことだよ」

「成長してないってことじゃん、それ」

「い、いい意味で言った」

「全然フォローできてないし」


 何年も話していなかったとは思わせないほどに、淡々と話していた。幼馴染みという関係は、骨の髄まで刷り込まれているようだ。


「――ねぇ」


 すると、彼女がさっきまでの雰囲気を変えて、切り出した。


「……あんたは……なんで私を助けてくれたの? 幼馴染みだから? それとも…………彼氏だったから?」

「……なんで急にそんなこと訊くんだよ」

「……ううん、やっぱりなんでもない。忘れて」


 彼女なりに、勇気を振り絞った結果だった。彼女は傷ついてもなお、自分自身と、俺と向き合おうとしてくれたのだ。


 本当に、お前は強いな。


 あの時は、何もできなかった。だから、せめて――


「……俺は……お前を助けてなんていないよ」


 自分なりに腹をくくり、俺は続ける。


「……俺は、お前が犯されてるのを見たとき、俺もお前を犯したいって思った」

「……何よ、突然」

「あの時のお前が、とても艶めかしく見えた。すごく、興奮した」

「…………」

「だから、俺はお前を助けてない」


 言ってはいけないことというのは、この世に溢れかえっている。やってはいけないことがありふれている。確かに、それらは言ったりやったりしなければ何の問題もないのかもしれない。しかい、言ったりやったりしなくても、心の中で少しでも考えてしまったら、既に手遅れなのだ。その罪悪感に、永遠と苛まれていかなければならない。


「……だから、俺がお前を犯した。俺がお前を見放した。俺がお前を傷つけた」

「…………」


 なんとなく、彼女がわざわざうちまで来た理由が分かってきた。彼女はきっとけじめをつけたかったのだ。なあなあで済ましてしまったことに対して、何かしらの形で決着をつけたかったのだ。


「…………違う。わかんない、わかんないよ」


 悩ましそうに、苦しそうに、続ける。


「なんで……なんであんたは……そこまで優しくなれるの……? 私が……あんたの人生も、あんたの家族も、全て壊したのに……なんで……なんでなんでなんでなんで、そんなに…………優しいの……?」


 わかんないのはこっちの方だった。


 優しい? 俺が?


 もし本当にそう思っているのなら、彼女は相当の馬鹿だ。目利きも値踏みもへったくれもない。男を見る目が無さすぎる。


 人を見る目が無さすぎる。


「私は、何もできなかった……あの時、私のパパが、あんたが私を強姦したって勘違いして、あんたを何度も何度も何度も殴りつけてたのに、私は…………何も…………できなかった」


 ところどころで、込み上げてくるものを堪えながら、彼女は続ける。


「それなのにあんたは……こんな最低な私をずっと、勝手に気にかけてくれて、わざとこの話題には触れないようにしてくれて……でも、私はあんたのそういう勝手な自己満足が大っ嫌いなの。いつも人のことばかりで、自分は毎度毎度後回しで、自分を殺して、他人を生かす。私は、そんな美しい死に様が、大っ嫌いなの」


 言葉を重ねるにつれて、彼女の言葉に深く憎しみが込められていくのが分かった。その言葉が、重く響く。


「でもね、それ以上に気に入らないのは……そんなあんたのくだらない優しさなんかに甘えて、何一つ行動しようとしない私。そんな私が、私は……心底、憎い……」


 彼女が唇を噛みしめる。本当に腹立たしく、そして悔しく思っているときに出る彼女の癖だった。血が滲み出るほど強く噛みしめている。痛々しくて、とても直視できない。が、俺は目を離そうとはしなかった。しっかりと、この目に焼き付ける。


「……何勘違いしてんだよ」

「……へ?」


 彼女は俺の声につられて、弱弱しくこちらを見上げた。


「勘違いするなって言ってんだよ。何がくだらない優しさだよ、それこそお前の思い過ごしだろ。俺はお前のためにやったんじゃない、俺のために、自分自身のために、自分勝手にやったんだ。お前にどうこう言われたくはない」

「……何それ、本気で言ってるの?」

「ああ」


 一瞬の間の後、彼女が「そう……」と小さく息を漏らすと、


「ふざけんじゃないわよっ!」

「痛っ! お前何すん――」


 平手打ちを思いっきり左頬に食らった後、間髪入れずに今度は右の頬にもクリーンヒットした。


「なんでいきなり殴るんだ……よ……」


 俺も半ば怒り気味で彼女に反抗するが、彼女の表情を見た途端、その怒りもどこかへ消えてしまっていた。


 彼女は、泣いていた。


「学校であんなにしんどそうな顔してて……それでも、本当に自分のためにやったんだって言い切れるの? 昔から人と話すのが好きだったあんたが、人と話せなくなって、どんどん孤立していって、つらそうな目をしてて、そういうらしくないあんたを、黙って見続けてるこっちの身にもなってよ! 幼馴染みが――大好きな人が苦しそうにしているのを見続けなきゃいけないこっちの身にもなってよ!」

「…………」

「…………あ」


 しばらく沈黙が続いた後、俺が気まずそうに眼を逸らしているので気がついたのか、


「ち、違うの! い、今のはそういう意味じゃなくて……す、好きっていうのはその、恋愛とかじゃなくて、普通に幼馴染みとして好きっていうか、まあ別に嫌いじゃないんだけど、それは昔の話で……今のはなんか口が滑ったというか……」


 顔を真っ赤にして、自らどんどん墓穴を掘っていく彼女。焦りに焦って溝にはまっていく彼女が、とても愛らしく、思わず笑みがこぼれてしまった。


「ちょ、今笑ったでしょ!」

「やっぱりあれだな、お前、全然成長してないな」

「もう! からかわないで!」


 雰囲気がガラッと変わった。お互いに、久しぶりに、心から笑えた。


「……ねぇ、なんか不公平なんですけど」


 お互いに一通り小突き合った後、彼女がどこか不満げに呟く。


「何が」

「だから! ……その……私だけ、す、好きとか言って、不公平じゃん?」

「それで?」

「だからその……あ、あんたも、言いなさいよ。私のこと……どう思ってるのか」


 顔を背けながら、チラチラと横目で俺を見てくる。よほど恥ずかしいのか、耳たぶまで赤く染まっていた。


「なんで今更そんなカップルじみたことをやんなきゃいけないんだよ。そういうのは付き合ってるときにやればよかっただろうが」

「だって……あの時は、お互いどう接していいか分からなかったし、それに付き合ったのだって、周りから囃し立てられて、仕方なく、流れで付き合っただけだし……」

「じゃあなんだ、仕方なく流れでっていうことは、さっきの俺のこと好きだとか言ったのは嘘ってことか」

「別にそういう意味じゃ……あんたのことは、その……ふ、普通に好きだし…………って、なんで私ばっかり言ってるのよ!」


 本当に馬鹿だ。だんだんと茶化すのが楽しくなってくる。


「そういや、付き合うのも流れだったけど、別れもまだちゃんと言ってないな」

「話を逸らさないで」


 再度、平手打ちの構えを決める。どうやら馬鹿を騙すのもこれまでのようだった。


「はあ、俺がお前のことどう思ってるか言えばいいんだろ? 言えば」

「……で、どう思ってるのよ」

「別に、普通」

「はぁぁっ!? ふざけんじゃないわよ! ちゃんと答えなさい!」

「だから、普通」

「ちゃんと――」

「普通」

「答え――」

「普通」

「もう!」

「普通」

「……はあ、もういいわよ、私の負けでいいわ」


 疲れたのか呆れたのか、まあおそらくは後者の方だと思うが、彼女はへたりと椅子に座り込んでしまった。


「もう、疲れた。帰る」

「泣き疲れたのか?」

「…………」


 相当疲れているらしく、無言のまま帰り支度を整え、濡れた制服と鞄を手に取り、そのまま真っ直ぐに玄関へと向かって行ってしまった。


「まあ、気をつけて帰れよ」

「……言われなくてもそうする」


 彼女は靴を履きながらそう言い、ふと思い出したように、


「…………まあ、ちゃんと借りは返すから」

「借り?」

「だから! その……しっかり話してくれたお礼! 必ず何かしらの形で、返すから」

「……頼むから、仇で返しましたとかいうふざけたことはしなくていいからな」


と、念には念を入れて釘を刺したのが裏目に出たらしく、


「……なるほど、その手があったわね」


 先ほどまでの疲れなどが嘘のような、不敵な笑みを浮かべて、


「じゃ、明日楽しみにしてなさいよ、ふふふ」


 ああ、学校行きたくねえ……。


 人生の中でそれを最も実感した瞬間であった。




 朝のHRまでは、いつもと変わらない日常だった。遅刻すれすれに学校に着いて、担任の話を聞きながら、鞄から教科書類を取り出して机に押し込む。そこまでは、いつも通りだった――

HRが終わるやいなや、彼女の周りに人が集まりだす。いつもならそこで話しているはずの彼女が、それを全て無視し、こちらの方角へ進軍してくる。


 トイレに逃げ込もうと慌てて立ち上がるが、その前に彼女が自陣まで攻め込んできてしまっていた。

クラス一パッとしない男と、クラス一モテる少女。このツーショットは異様な雰囲気を払っており、一同の注目の的だ。


「おい、何のつもりだ」


 小声で彼女に問うと、


「まあ安心しなさい。仇では返さないわ」


 そう言い残すと、彼女は声を張り上げて、こう言い放った。


「私は、まだあんたのこと諦めてないから! あんたが私のことを好きって言うまで、私は絶対諦めないからね!」

「…………」


 絶句した。もちろんそれは俺だけではなく、彼女を除くクラスメイト全員もだ。


 全員が全員、目の前で行われた茶番に唖然としている。そして、少しずつざわつき始めるにるにつれて、着実に男子の視線が痛く突き刺さりつつあるのが感じ取れた。


「これであんたは人気者ね」


 心底嬉しそうに、台風の目は自分の席に戻っていった。

 女子たちが彼女に群がり、ついさっきの彼女の奇行について問いただしている。たまに視線の矢がこっちにも飛んできた。


 ああ、そうか。

 ようやく、彼女の真意が理解できた。


 ほんと、余計なお世話ばっかりするな。


 まあそれは俺もかもしれないが、と苦笑しながら、彼女からお返しに送りつけられた仇を、俺は強く噛みしめ、大切にすることを決めた。


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