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彼らの一行は、ある意味で目立っていました。
その空間だけが、まるで別世界のように異質だったのです。
だから、とても注目を浴びていた。
わたくしが従兄様と一緒に入場したときも、確かに驚きの喚声が上がっていましたが、それは王太子である従兄様が初めて女性を伴って入場した事への驚きの声でした。
けれど、なんと言ったらいいのでしょう?
彼らが入場したときは歓声というより、声が…音が一瞬無くなりました。
なぜならそれは、一人のご令嬢を五人の殿方がエスコートしている、というあまりにも異様な光景だったからなのです。
殿方が複数人の女性を伴う事は稀に見られます。お父様も昨年まではそうでしたもの。わたくしとお母さまの二人を伴っていた。
そう、複数人とは言っても、それは家族や親族に限定されているのです。
特に未婚の女性はしっかりと相手を選びますわ。
だって、夜会や個人の邸宅で行われる小規模な舞踏会などは別ですが、王国の三大舞踏会だけは衆目を気にしますもの。ともに参加しただけで、その相手との噂が飛び交います。だからわたくしも、今回従兄様がエスコートをすると言われた時は驚いたのです。
今までそのような噂を忌避して女性を伴わなかった従兄様でしたもの。本当にいいのか、心配していたのです。
けれど、それは杞憂でした。
従兄様は、あくまでもわたくしの親族。
皆もそのように認識しているみたいです。
けれど、彼らは違います。
明らかに一人の女性に対し複数の殿方がエスコート……というより、付き従っているのです。
誰もその女性の側から離れません。
「すごいですわね、あの方。いったい何様のつもりなのでしょう」
「伝統ある秋季祭の舞踏会にあのような……。程度が知れますわ」
「そういえばあの方、昨年は出席していませんでしたわよね?」
「噂で聞いたことがあますわ。なんでも、母親が市井の女性らしく、男爵様に引き取られたのが昨年の春、という事らしいですわよ」
「その噂、私も聞いたことがあります。確か男爵令嬢としてのお披露目は、昨年の今頃だったはずですわ。まずは小さな夜会などから出席させて社交に慣れさせていたと…」
「それで王宮の舞踏会は今年の春季祭からでしたのね」
ひそひそと聞こえてくるのは、衆目を集めている一行の中心にいるご令嬢の噂話。
いえ、ご令嬢ばかりではありません。
わたくしのすぐ近くでは―――
「何をしてるんだ? あいつは―――」
「ここまで愚かだったのか?」
苦々しい口調なのは、ヒューリ様とノティオ様。
視線を辿ると一行の中にいる殿方へと向けられていました。
ああ、あの方々は―――
ご令嬢を取り巻く殿方の中にお二人と面立ちがとてもよく似ている殿方がいるのです。きっとあの方たちがお二人のご兄弟なのですね。そして―――
「…アシト」
従兄様のその呟きが聞こえた時、わたくしは否応なく現実を直視することになるのです。
ええ、ずっと見ないふりをしようと思っていた。
現実逃避と言われようと、臆病者と罵られようと、わたくしは見たくはなかったのです。
だって、認めたくないもの。
彼が、わたくし以外の女性を伴ってこの舞踏会に参加しているという現実を――
でも、それは許されないようです。
「カナン、目を背けてはいけないよ」
そっとわたくしと手を繋ぎ握りしめてくれる従兄様は、態度とは裏腹に酷な事を言う。
見たくないのに……。
仲睦まじく微笑みあうあの二人を……わたくしは、見たく…なかった。
逸らすことなく見つめる視線の先、ご令嬢を取り巻く殿方の中に――わたくしの婚約者、アシト様もいたのです。
アシト様は、ご令嬢の手を取りながら微笑んでおられました。
愛しむような…とても、とても優しい笑み。
それは、もう二度とわたくしには向けられないはずのもの。
分かってる。
分かってはいる。
でも、すごく胸が痛いのです……。
まだわたくしの婚約者なのに、どうして彼女の側にいるの?
まだこんなに貴方が好きなのに、どうしてわたくしの目の前で彼女の手を取るの?
どうしてわたくしではいけないの? アシト様――っ!
「カナン、駄目だよ」
諫めるような従兄様の声。
分かっているわ、従兄様。
感情に任せて怒りをぶつけてはいけないって、抑えなくちゃいけないって、分かっているの。
でもね、従兄様………。
仲睦まじい二人を見ているだけでとても辛いのよ!
それでも我慢しなくてはいけないの? このわたくしが?
「…カナン」
わたくしの胸の内が分かっているのか、従兄様は宥める様に繋ぐ手に力を込めました。
そして――
「…今は駄目だ。気持ちはわかるけど、抑えて」
膨れ上がる激情を一瞬で冷ますような冷淡な声。
えっ?
そのあまりにも冷ややかな声に驚いて従兄様に視線を向けると、射竦めるかのようにアシト様……いえ、ご令嬢を見ていた従兄様がいました。
いったい何が?
従兄様がこのような怖い顔をするなんて初めて見ました。
「…従兄様?」
怪訝に思い声をかけたら、従兄様は先ほどまでとは打って変わって、ふわりと優しい笑みを浮かべてわたくしを見てきました。
え?
なに?
「どうした、カナン? 喉が渇いたのか? 何か飲み物でも取りに行こうか?」
はぁ?
「飲み物なら、俺が取って来るよ」
「いや、ヒューリ。僕たちが行くよ」
僕…たち?
「なんだ、もう仕掛けるのか?」
仕掛ける?
「少し様子をみる。……ノティオ、後は任せたよ」
―――なんの…事?
突然訳の分からない会話を始めた従兄様たちを、思わず胡乱な目で見てしまいました。だって、本当に何が何だかさっぱり分からなかったのですもの。
助けを求めるかのようにレチュナを見ると、レチュナは件のご令嬢を居殺さんばかりの視線で睨み付けていました。
「……レチュナ?」
いったい…なにが?
「さあ、カナン、行くよ」
「え?」
困惑するわたくしの手をきつく握りしめ、問答無用とばかりに手を引く従兄様は、表情を硬くしたまま歩き出しました。
「従兄様? いったい、どうしたのですか?」
「……………」
問いかけになぜか答えはなく、従兄様が見ているのは殿方に囲まれている一人の美しいご令嬢。
「従兄…様?」
じっと何かを見定めるかのように見ていた従兄様の口角が―――僅かに歪んだ。
★
「ごめん、カナン。少しここで待っててくれるかな? レチュナに何を飲むか訊いてこなかった」
「はぁ……」
飲み物を取りに行くよ、と従兄様に手を引かれ連れてこられて早々、なぜかわたくしは置いてけぼりとなっています。
目の前にはおいしそうな料理が並び、飲み物も多種多様。
何を飲むのか悩むのは分かりますが、訊きに戻るというのもどうかと思いますわよ、従兄様。レチュナの好みくらい知っているはずなんだから、ここは紳士として、男として、従兄様がレチュナのために選んで差し上げるべきでしたわよ。
本当に従兄様の挙動にはため息が出ます。
肝心なところで抜けているんですもの。
レチュナと従兄様の付き合いだって長いのです。
噂には聞いていますわよ、わたくし。
従兄様の婚約者候補筆頭だって―――
それに、レチュナから従兄様のお話もよく聞きますもの。
主に、愚痴…ですが―――
よく聞くのが、何を考えているのか分からない…でしたわよね。それにはわたくしも同感ですが……。
今だって、従兄様の突飛な行動にレチュナが憤っているのが見えていますわ。
微笑ましい二人の姿に知らずに笑みがこぼれます。
それこそ、先ほどまでの燻りや従兄様の不審な言動などすっかり忘れてしまうほどに。
―――だから気付かなかった。
気付くのが遅れた。
件のご令嬢が、わたくしのすぐ側まで近づいていたことを…。
「きゃあ」
「え?」
小さな悲鳴に驚いて振り向いたわたくしは、一瞬自分の目を疑いました。
だって、そこにいたのは―――
「気を付けて、スティーナ。怪我をするよ」
「ごめんなさい、アシト様」
そこには、件のご令嬢をまるで抱きしめるかの様に支えていた――アシト様がいたのです。
「……カナン」
驚きに目を見開くわたくしの名をアシト様が呼ぶ。
「…アシト…様」
彼の名を呼ぶ声が震える。
まさか、ここで声をかけられるとは思ってもいませんでしたもの。
秋季祭の舞踏会ですから会場で会えるとは思っていた。
けれど、言葉を交わせるとは思ってもいなかったです。
「…久しぶりだね、カナン」
「…はい」
思わず俯いてしまう。
こんなこと、初めてです。
アシト様の目を見れないなんて―――
「元気にしていた?」
「…はい」
会話が途切れる。
言いたいことは沢山あるのに、どうしてか、言葉が……出ない。
「今日は、兄上と一緒なんだね?」
「…はい」
どこか棘のある問いかけ。
「兄上が女性をエスコートするなんて初めての事だ。それが君だなんて……ね」
「…はい」
「ああ、こんなところで兄上の選んだ女性と話し込んでいると、余計な詮索をされそうだ。それに……君も私と話すのは迷惑だろう?」
「いえ……」
そんな事は…ない。
「私も今日は彼女を伴っているんだよ。知っているかな? ボルシム男爵の御令嬢でスティーナという」
ちらりと視線を向けた先には、紫色の瞳を震わせる美少女がアシト様に寄り添っていた。
「いま、ちょっと彼女がふらついてね。君にぶつかりそうになっていたから支えていたところだ」
「そう…なのですか?」
ああ、それで先ほどの悲鳴なのですね。
軽く視線をわたくしに向けるスティーナと紹介されたご令嬢は、申し訳なさそうに微笑んでいた。
そう、爵位が上であるわたくしに対し礼をするわけでもなく、ただ微笑んでいただけ……。
「言葉はないのか? いや、君からしたら、スティーナには声をかける価値もないと思っているのかな?」
えっ? ……そんなことは思っていません。わたくしは―――
「まあ、良いよ。君がもともと選民意識の強い女性だという事は知っていたから…」
わたくし……そんな…こと―――
「アシト様、もう良いですわ。私、カナン様には嫌われていますから…」
愛らしい声。
悲し気にそう告げる彼女は、縋りつく様にアシト様の腕に自らの腕を絡める。
まるで、見せつけるかのように―――
でも、そんなあからさまな態度も仕種も…何もかもが愛らしくて、わたくしとはまるで正反対……。
「スティーナは優しいな。君も見習うと良いよ、カナン」
見習う?
誰を?
スティーナさんを―――?
アシト様は、わたくしが優しくない…と、そう言うのですか?
『カナン、ありがとう。君の優しさが…想いが、沢山込められているこのお守り、大切にするよ、絶対になくさない…』
わたくしを優しい…と。
そう言っていたのに……っ!
「アシト様、行きましょう?」
「そうだね、スティーナ。あまり君を独り占めしているとあいつらがうるさい」
「まあ、アシト様ったら」
甘えるようにアシト様に凭れるスティーナさんは、まるで勝ち誇ったかのような表情でわたくしに視線を向ける。
その表情は、アシト様には見えていない。
アシト様はその時、スティーナさんから視線を外し、なぜかわたくしを見ていた……。
「……言い忘れていたことがある。―――アグランゼム公爵令嬢」
「…え?」
さっきまで、カナン、って名前で呼んでくれていたのに、どうして?
「失礼な物言い、まことに申し訳ありません。彼女に代わり心より謝罪いたします。何分、彼女は社交にはまだ不慣れなのです。お怒りはどうか私に……」
「な…なにを」
深く謝罪の礼をするアシト様に困惑する。
これは、なに?
わたくしが……責められているの?
何も言っていないのに…?
ただ黙っていただけなのに腹を立てていると思われているの?
「ではこれにて失礼いたします。今宵の舞踏会、楽しまれますよう―――」
声も…仕種も…まるで別人。
春季祭の舞踏会で婚約の解消を願われた時の方が、まだ親しみがあった。
わたくしを妹としか見られないってそう言っていたけれど、それでもまだ言葉の端端に親愛の情が残っていた。
でも、今日のアシト様は、まるで他人を見るような目でわたくしを見てくる。
傲慢で、他者を見下す令嬢と認識して、嫌悪すら、その瞳には浮かべている。
わたくし……嫌われてしまったのでしょうか?
ううん、違う。
もう、アシト様にとってわたくしは……わたくしは―――
「……っ!」
泣くまいと思っていた。
何があろうと人前で涙を流す事だけは止めようと思っていた。
泣いたら、負けを認めることになるよ、と従兄様にも言われていたから……絶対に泣かないって決めていた。
でも…無理。
無理よ、従兄様。
もう……抑えきれ…ない。
「カ…ナン?」
僅かに動揺したアシト様が、驚いたようにわたくしを見てくる。
わたくしの泣き顔が珍しいのですか?
そうですわよね?
だって初めてですもの。
貴方の前で泣くのは―――
逡巡するように手を伸ばすアシト様。
けれど、その手は、
「行きましょう、アシト様」
わたくしに届くことはなかった。
まるで、わたくしに伸ばした手を止めるかのように添えられたスティーナさんの手。
アシト様は、我に返ったように彼女に微笑むと、わたくしに背を向けた。
アシト様の心に……もうわたくしはいない。
アシト様が大切にする人は……もうわたくしではない。
立ち尽くすわたくしの頬をゆっくりと涙が伝い―――静かに……落ちた。
読んでくださってありがとうございます!