17
「……アシト…様」
懸命に涙を堪えながら、たどたどしく愛しい人の名を呼ぶ。
たったそれだけの事なのに……ただ、アシト様の名を口にしただけなのに、涙が溢れそうになるのです。
「…カナン」
宥めるような優しい声音で紡ぐのは、わたくしの名。
アシト様は、とてもうれしそうに目を細めてわたくしを見ていました。
「アシト…様」
「…ああ」
再び紡がれたわたくしの声に、アシト様が破顔しました。
わたくしの大好きな笑顔です
でも、その笑みをもっとはっきりと見たいのに、涙で視界が歪んで見えないのです……。
零れる涙を堪えるように口を固く閉じたわたくしの瞼に、アシト様はそっと指を這わせました。
滲む涙を優しく拭い、そのまま頬を、辿るようにわたくしの唇に触れ、そしてわたくしの髪を一房掴むと、愛おしそうに口づけを落としたのです。
「…カナン」
切なげにわたくしの名を呼ぶその優美な唇が紡ぐのは―――
「君を…愛している…」
その言葉を聞いた時、わたくしはとうとう堪えきれずにぽろぽろと涙を零していました。
「…夢……これは、夢なの。だから、うれしくても、信じちゃいけないの」
「カナン、夢じゃない。私はここに居る」
泣き崩れるわたくしを、アシト様はそっと抱き寄せました。
「分かるか? 今、君を抱きしめているのは、私だ。アシトだ」
まるで、ご自分の存在をわたくしに刻み付けるかのようにアシト様はその胸にわたくしを抱き込む。
聞こえるのは、アシト様の心の音。
早鐘を打つその鼓動が、これが夢なんかじゃないと、わたくしに知らしめる。
でも――
「…嘘です。嘘ですわ! だって、アシト様……わたくしと」
婚約を解消したいって……。
わたくしは妹なんだって……そう言ってましたもの!
だから、わたくしを愛しているなんて嘘です。
信じちゃだめなんです。
「嘘じゃない、カナン。君が、君を傷つけた私の言葉など信じたくないのも分かる。今更何を言ったって言い訳にしかならないのも…理解している。事実、心無い言葉で君の心を傷つけていたのは紛れもなく、この…私なのだから」
嘘じゃない……?
本当に…?
……信じて…良いの?
わたくしは――貴方を諦めなくて良いの?
「だけど、カナン。お願いだから、これだけは信じて……。私の気持ちは幼いころから何一つ変わってはいない」
ずっと、諦めなくてはと思っていた。
アシト様が好きなのはわたくしではなくスティーナさんだとそう思っていたから、もう、わたくしに振り向くことは無いんだって……。諦めなくてはいけないんだって、そう自分に言い聞かせていた。
それが―――
「ずっと、君が…君だけを愛している」
胸に縋りつき涙ながらに頷くわたくしを、アシト様は愛おしそうにその胸に抱き、抱きしめる腕に僅かに力を込めました。
「ほら、そこで、上向かせて口づけですわよ、アシト様」
「無理だろう? あいつにそこまでの度胸はない」
「君には言われたくないと思うよ、サリス」
「それ以前に、公衆の眼前だというのを忘れてないか?」
「そこが良いのですわ、ノティオ様」
なにやらこそこそと言い合っている声に視線を巡らせると、レチュナが顔を紅潮させてわたくしたちを見ていました。
レチュナだけではありません。
ノティオ様もヒューリ様も、どこか微笑ましい表情で見ていたのです。
そ…そういえば、みなさんここに居ましたわね。
「……も……もしかして…見られて……いた?」
わたくしの言葉に、レチュナがこくこく頷いています。
「当り前だろう? 恥ずかしげもなく突然目の前でイチャつかれたらいやでも見るだろう? というか、こんなところで見せつけるな」
そう言いながらも、良かったな、と言葉をつづける従兄様は、苦笑ともつかない複雑な笑みを浮かべながらわたくしの頭を撫でてきました。
「見せつけていたんですよ、兄上」
口元に何やら不敵な笑みを浮かべて従兄様を見るアシト様は、次の瞬間わたくしの唇に自らの唇を寄せてきたのです。
「……っ」
軽く、本当に触れるだけの口づけ。
わたくしは一瞬、なにが起きたのか把握できませんでした。
「きゃあ~、素敵ですわ!」
すぐ側で、レチュナの奇声が聞こえます。
また別の側では、従兄様の呆れたようなため息が―――
「これで、度胸はないなんて言わせませんよ、兄上」
「そこまでするか?」
「見せつけなくてはいけないでしょう? 彼女に。根拠のない噂を吹聴してカナンを悲しませていた元凶なのだから、徹底してやりますよ、私は。カナンを傷つけた報い、受けてもらわなくては…ね」
ゾクリとする冷ややかな声。
根拠のない噂と言うものが何なのかは分かりませんが、アシト様は相当腹に据えかねているようです。
つい先ほどまでわたくしに見せていた甘やかさは一瞬で消え、アシト様が見据えるのは困惑した表情でこちらを凝視していた一行。
違う…。
一行じゃない。
アシト様がみているのは―――居殺さんばかりの視線をわたくしに向ける、スティーナさん。
★
「……なんなのよ、これは。なんでアシト様が悪役令嬢と……。おかしいじゃない。ちゃんと攻略してきたのに……アシト様の好感度だって高かったはずなのに…どうしてこの私がアシト様に拒絶されるのよ」
ぶつくさと意味不明な言葉を発する声はスティーナさん。
その瞳は、睨み付けるように、というより、ほぼ殺意すら宿している目でわたくしに向けられていたのです。
そのあまりの鋭さに、背筋に悪寒が走ります。
それほど、わたくしが憎いのでしょうか?
アシト様を奪ったから?
でも、それを言うなら、アシト様をわたくしから奪ったのはスティーナさんが先です、と言いたのだけど……。何も言わないほうが、身のためのような気がします。
だって、本当に怖いのですもの。
賊のお頭から、この襲撃を依頼したのがスティーナさんだって暴露されたにも関わらず、まったく悪びれていないのです。それの何がいけないの? とでも言いたげな態度なのです。
まるで、自分の思う通りに事が進むと思い込んでいるみたい……。
いいえ、違う。
思い込んでいるというより、そうなのだと確信しているようなそんな感じなのです。
それって―――
ちらりと向けるのは従兄様。
思い出すのは、幼いころから言われ続けていた従兄様の言葉の数々。
従兄様曰く、前世の僕、が言う事だから、と言いながら告げるそれらが、スティーナさんの言動と、似ている、と思ってしまったのです。
そんな事あるはずないのに―――
ゾクリとした身体を思わず抱きしめていたら、アシト様が気遣うように見てきました。
「カナン…すべてに片が付いたら、ゆっくり話そう。本音を言えばこのまま君を連れてすぐにでも帰りたいところだけど、そういう訳にも行かなさそうだ。辛いだろうけど、もう少し我慢して。まずは、彼ら…いや、彼女との事に終止符を打たないと…。そうだろう? 兄上」
ひどく冷めた眼差しでスティーナさんを見るアシト様は、わたくしをレチュナに託し、隣に立つ従兄様に視線を向けました。
「随分とやる気だね、アシト」
「ここまで良いように扱われたんだ、この私が。許せるわけがないだろう?」
「そうだね。ぼちぼち日も暮れてきたことだし、早めに決着といこうか?」
口の端を上げて、意味ありげな視線を向ける先はスティーナさん。
そしてスティーナさんも、苦々しい表情で従兄様を見ていました。
アシト様以外の取り巻きたちは、なぜかスティーナさんから微妙な距離を取っています。あ…いえ、ナジュラス様は未だにスティーナさんの側にいらっしゃいますね。
背に庇うようにしていらっしゃいますもの。きっとスティーナさんを守ろうとしているのでしょう。
「さて、スティーナ嬢」
「な…なによ?」
なによ、って、すごいですわね。
従兄様、紛れもなくこの国の王太子ですわよ。
その王太子に対して、その口調はかなりの不敬だと思うのですが…、良いのでしょうか?
ちらりと同行している騎士たちに目を向ければ、かなり憤慨している様子でスティーナさんを睨み付けていました。従兄様が制していなければ、すぐにでも切りかかっていきそうな雰囲気です。
「君がこの私を殺害しようとしていたのは明白なんだが、それについての君の言い分を聞こうか? ああ、嘘を言ってはいけないよ。カナンに罪を擦り付けようとしても無駄だから。そんな虚言に惑わされる愚かな者はもうここには居ない。強いて言うなら君を妄信的に信望しているそいつ以外はだけど…」
冷え切った声音ですが、その言葉の端端に、どうもこの現状を面白がっている節も見えます。
見据える先は、従兄様がそいつと称したナジュラス様。
ナジュラス様は、声こそ発しませんが、従兄様の発する威圧で若干顔色を悪くしながらも、スティーナさんを守るように立っていました。
「そういえば、私にスティーナと会うよう仕向けたのはナジュラスだったな」
思い出すかのようにそう言うのはアシト様。
「相当、彼女に魅入られていたんだろう。君との出会いを彼女が望んでいるからそう動いたとみるべきだね」
「それほど好きなら独占したいと思うのが男ではないですか? 兄上。私はそうだ。カナンは誰にも会わせたくないし紹介すらしたくない」
な…なにをおっしゃっているのですか? アシト様は!
独占したいって…独占したいって……っ!
唐突に告げられた言葉に思わず赤面します。
「す…すごいですわね、アシト様。このようなお方でしたでしょうか? もう少し、落ち着きがあって、冷静に物事を捕らえるお方だと思っていましたけれど、こうも素直にご自分の感情を曝け出すなんて……いったい、どうなさったの? やはり、カナン様を傷つけてきた反動なのでしょうか? それともご自分を責めるあまり……頭の螺子がどこか緩んだのでしょうか?」
隣でレチュナがしきりに目を瞬かせています。まるで、見てはいけないものを見たようなそんな目つきなのです。若干アシト様から視線を逸らす仕種がすべて物語っています。
わたくしだってそう思います。
今まで、こんなにはっきりと言われたことなんてなかったのですもの。
「カナン、挙動が怪しい」
それは仕方ありません、従兄様。
聞きなれていない言葉を向けられたら、わたくしだって平静でいられません。
早鐘を打つ胸を押さえながらアシト様を見ると、動揺するわたくしとは対照的に、スティーナさんを威圧したまま平然としていらっしゃいました。
な…なんか、悔しいですわ。
わたくしだけが、アシト様の言葉に一喜一憂して……。
こうなったら、絶対にアシト様にも動揺してもらいます!
だって、わたくしの言葉にたじろぐアシト様が見てみたいのです!
だから、いつかわたくしがアシト様を――――
「カナン…何を考えてる。目が吊り上がって顔が悪役みたいだよ。そんな顔では、アシトに嫌われるぞ」
わたくし不穏な感情を読み取ったのか、従兄様から戒めの言葉が飛んできました。
はい、自重します。
アシト様に嫌われるのは嫌です。
「………な…なんで、アシト様が悪役令嬢を独占したいなんて言うの? そんなのあり得ない。だって、アシト様と私は結ばれる運命なのよ。アシト様がヒーローで私がこの世界のヒロインなんだもの。私を独占したいならともかく、なんで悪役令嬢なの! ナジュラスたちだってそう、攻略対象はみんな私のものなの! 私を愛でることが彼らの役どころなの!」
突然狂ったように叫びだしたスティーナさんに、びっくりしました。
その態度だけではなく、言っている事にも驚いたのです。
だって、ずっとわたくしの事を悪役令嬢と連呼しているのですもの。
わたくし…そのように言われたこと……ああ、ありましたわね。
実際面と向かって言われたことはありませんが、社交を休んでいる間、いろんな場でわたくしがスティーナさんを陰湿に虐める悪役令嬢だと言われていると噂で聞いたことがあります。
確か、噂を広めていたのがスティーナさんや、彼女を取り巻く殿方たちでしたのよね。
ふと、スティーナさんの少し離れた場所でこちらの様子を窺っている取り巻きの方々に視線を送ると、皆さん一様に顔色を悪くしていました。
今更ながらに、自らの犯した罪に気付いたという事でしょうか。
どうしてあれほどスティーナさんの言動を信じ擁護していた彼らが、突然そのような……それこそ、悪夢から目が覚めた、というような態度でいるのかは分かりませんが、今まで彼らが行ってきた数々の言葉と行動は決して消えることはありません。
それを十分理解されているのでしょう。
だからこそ、その表情を暗くしている。
でも、今更、ですわ。
いくら後悔したところで犯した罪は消えない。
だって、彼らが貶めたのは、何の罪もない、公爵家令嬢であるこのわたくしですもの。いくら、スティーナさんの言葉を信じていただけと言っても、真偽を確かめもせずわたくしを糾弾したのだからその責は負わなくてはいけない。
仮に彼らの家族が――ありえないと思いますが――擁護したって、わたくしのお父様が許さない。公爵家の力を余すことなく使い彼らの責を追及すると思いますわ。
あ……もしかして、お母さまが、お父様が動いていると言っていたのはこの事なのでしょうか?
すでに、各家に苦情という名の脅しでもかけているのでしょうか?
それも、しっかりと証拠を集めたうえで……。
ありえそうですわね。
だって、お父様、わたくしをとても可愛がっていますもの。わたくしを傷つける言動をした方々を許すはずがありませんわ。
ああ、それを言えばアシト様もですわね。
アシト様にも、何か罰を与えるつもりなのでしょうか?
でも、彼は王族ですし、罪は見逃されるのでしょうか?
見逃されるのでしたら、わたくしが罰を与えるというのはどうでしょう?
だって、婚約解消なんて言ってわたくしを苦しめたんですもの。少しくらいは、アシト様にも反省してほしいのですわ。だから、ちょっとだけなら、良いですわよね。
ああ、どんな罰にしましょう?
ええ…と―――
「……カナン。そんな顔をしているとアシトに、以下同文」
どうしてわたくしの考えが分かるのですか、従兄様!
わたくし、声に出していないですわよ。
それに、アシト様も!
背を向けていられますが、笑っているのはバレバレですわよ!
読んでくださってありがとうございました!




