第7話「目の前の蛇は焼いても喰えない」
黒い影が大地を滑るように這う。
人間など一飲みするほどの巨躯でありながら、それは突き出た岩の間隙を縫って高速で先頭を歩いていたウォルガンフへ迫る。彼が反応するより早く巨大な口が開かれた。まるで洞窟の入り口を思わせる暗闇の空間が彼を飲み込もうとした時、その間に割って入るように白い翼が羽ばたく。
その瞬間、ホーンド・サーペントの牙は真横に逸れ空間を噛み砕く。余りに不自然な動きに俺は一瞬、目を疑った。
ウォルガンフの前に立つプリムの眼前に奇妙な物体が浮遊している。全身を小さく縮め丸くなっている黒いドレスのような服を着た女だった。
目の前で威嚇する巨大な蛇は幾度もその奇妙な女を噛み砕こうと牙を剥く。しかしことごとく全ては不自然に逸れ空間を裂いた。その動きはまるで蛇そのものが彼女を避けているかのようだった。
プリム本人から話には聞いていたが実際に目にすると驚愕の一言だった。彼女の前にいる奇妙な女は「愚者」のアルカナだ。「愚者」は自らを対象とする攻撃を全て捻じ曲げる。彼女の前ではネームドモンスターの牙といえども無力だった。
俺はスマートフォンへ口を近づけると次の手を打つ。戦闘時は会話によるパーティチャットで指示や状況の確認、意思の疎通などが可能だった。
「シャルル。アルカナで遠距離から攻めてくれ。ヘイトには注意」
「……はぁ? ヘイトって何よぉ!? 日本語で頼むわぁ!」
シャルルの声に混ざるようにシーリスの戦闘ログとハピネスの声がスマートフォンから響き渡る。
『ライン・ヴァイスリッター。突撃しましタ』
「ちょっと!? ウォルフ!? バフかける前に突撃しないで!」
「バフってなんだ!? うるさいんだよクソ鳥!」
「ねぇレヴィ君。あたし攻撃していいのかしらん?」
三者三様が入り乱れるパーティチャットを聞きながら俺は頭を抱え嘆息した。オンラインゲーム用語の勉強会が必要だと心の底で思った。
その時、通常のパーティチャットとは違う通知が鳴る。見るとWhisperだった。Whisperとは「囁き」や「耳打ち」と表現される「個人間」のチャットだ。当然、他のメンバーには内容は見えない。相手はプリムだった。
「ねぇ。ウォルガンフが近接攻撃してて邪魔なんだけど何とかならないかな?」
「なぁプリム。リーダー変わってくれねぇ?」
「やだ」
俺は再びため息をつくと一度、深呼吸をしてゆっくりとスマートフォンに口を近づける。
「……お前ら。ガタガタぬかしてねぇで死にたくなかったら人の話きけや」
その一言で場が凍り付いたように感じた。俺はそれに構う事無く言葉を続ける。
「ウォルフさんはヴァイスリッターを砲撃モードに変更して中距離から攻める。シャルルはそのまま遠距離から魔法で攻撃。ハピネスさんはリバフを」
燦燦と輝く「太陽」のアルカナ、ファイアロート・サンバードが口ずさむ。「上位魔法障壁」と「自動回復」そして「全能力強化」だ。
轟音。着弾と共に飛び散る血と黒い欠片。洞窟内に耳をつんざく砲撃音が響き渡り、皇魔「カイザーサーヴェラー」が繰り出す火球が黒い鱗を紅蓮の炎で染める。しかしホーンド・サーペントの動きは衰えない。なおも牙で噛み砕かんと巨大な口を開けプリムに迫る。
彼女はそれを近くにいるウォルガンフ達へ届かないように的確にさばいていた。どうやら愚者の扱いにはもう慣れたようだった。
『ライン・ヴァイスリッターの装填完了まで残り三十秒。ホーンド・サーペントの耐久値二十パーセント減少』
シーリスの戦闘ログを耳に収めながら俺は思案を巡らせた。
ホーンド・サーペントは例えネームドモンスターとはいえもっとも弱い部類のものだ。それがヴァイスリッターとサーヴェラーの集中砲火を受けてなお二十パーセントは少なすぎると思えた。
炎に耐性があるのかもしくは、効率的にダメージを与えていないかのどちらかだ。巨大な化け物とはいえ相手は設定上は生物のはず。同じ生き物なら必ず弱点はあるはずだった。
俺はシーリスに語り掛ける。
「シーリス。相手のウィークポイントは?」
『頭部でス。ですがライン・ヴァイスリッターの砲撃の命中率は七十五パーセントまで減少しまス。対象が停止した場合は百パーセントでス』
「炎に耐性は?」
『ありませン。むしろ炎には弱く怯ませる効果がありまス』
俺は「よし」と短い声を上げるとハピネスに一つの指示をした。それは「炎の壁」を発生させることだ。
プリムには攻撃が通用しないことを悟ったかのようにじりじりと後退していくホーンド・サーペントの周辺を灼熱の炎が吹き荒れる。
洞窟内を赤く照らす炎は高い壁のように立ち塞がり蛇の巨躯を囲んだ。しかしそれは黒い体を焼き尽くすためのものではなく、視覚的効果により「怯ませる」ためだった。
それと同時に「装填完了」の言葉がシーリスより告げられる。ウォルガンフの操るライン・ヴァイスリッターの銃口が動きを止めた蛇の頭部へ照準を定めた。
砲撃音が洞窟内を揺らす。らせん状の風を纏い高速で空間を切り裂く砲弾はホーンド・サーペントの頭部へ直撃し、鮮血と共に黒い鱗を飛び散らせた。
『ホーンド・サーペント頭部被弾。耐久値四十パーセント減少。残り四十パーセントでス』
「こいつで終わりだ!」
ウォルガンフの声と同時にホーンド・サーペントは岩肌を震わすほどの咆哮を上げる。それはまるで断末魔の叫び声のようだった。
轟く轟音。大きく開いた口へ砲撃音と共に砲弾が駆け抜けた。それは着弾と同時に牙を折り口内から頭部を貫いていく。咆哮が鳴りやむと同時にその黒い巨躯はゆっくりと崩れ去り動かなくなった。
シャルル達の歓声が響く中、俺はほっと胸をなで下ろすとスマートフォンの画面に表示されている「クエストクリア」の文字を見つめた。その時、再びプリムからWhisperが流れてくる。
「今日の晩御飯は何がいい?」
俺はその囁きを見て苦笑した。
康寧亭に戻った俺はぐったりとソファーに横になっていた。霞色の頭はプリムの柔らかい膝の上に置かれ足元にはノアトークンが座っている。
ホーンド・サーペント討伐後、スタビリスの街へ戻った俺はウォルガンフとシャルルを別室に呼びオンラインゲーム用語を片っ端から叩き込んだ。二人ともひぃひぃ言いながら聞いたりメモしたりしていた。
それが終わった直後、体全体が疲れに襲われこの様だ。初めてのネームドモンスター討伐で気負いすぎたせいだろう。
横になる俺の胸元に赤い体が舞い降りた。つぶらな瞳を向けるハピネスの姿だった。
「ご苦労様。リーダー。なかなかの指揮ぶりだったわよ」
「大変でしたよ。ウォルフさんは勝手に動くわ、シャルルは明後日の方向に魔法撃つわ、ゲーム用語通じねぇわ、プリムからは晩御飯のWisがくるわ……」
「晩御飯何がいい?」
「お前な……」
俺とプリムの様子を見てハピネスが首を上げる。どうやら笑ったようだった。彼女は首を傾げるように頭を斜めにしながら黒い瞳を俺の碧眼へと混ざり合わせた。
「お似合いね。まるで夫婦のようだわ。……昔を思い出すわね」
「思い出すってハピネスさん結婚してたんですか?」
「そう。以前、主婦だったのよ。でもね。……離婚したわ」
離婚という言葉に俺の脳裏に母親の姿が浮かび上がる。俺の父親と母親も離婚した。そして俺は母親に引き取られたんだ。
理由は知らない。そして今更、それを聞こうとも思わなかった。
「離婚した理由はね。夫の浮気よ」
その言葉を皮切りに彼女は自らの過去を話し始める。
「夫はね。それなりに大きな会社に勤めていて給料も良かったから生活に困った記憶はないわ。彼は仕事で忙しいから私は支えようと自分なりに頑張ったの。でもある日、浮気現場見ちゃってね。彼、愛人作ってたのよ。それもかなり前から。それ知ったらなんか馬鹿らしくなっちゃってね。もうどうでもよくなったの。追及もしなければ浮気をやめて私を愛してと懇願することもしなかったわ」
まるで水泳選手が息継ぎをするように彼女は一度、呼吸を整えると再び言葉を紡ぎ出す。
「そんな時にね。ネトゲを始めたのよ。そうしたらこんなボロボロの私でもみんな褒めてくれてね。ゲーム内で強ければリアルがどうであれみんな私をかまってくれる。話を聞いてくれる。ネトゲ仲間は傷ついた私の心の支えになったのよ。それでね。そこからどっぷりはまっちゃって。じゃぶじゃぶ課金したわ。彼からの離婚届もネトゲしながら印を押したのよ。あとは実家に戻ってネトゲ三昧の生活。慰謝料もたんまりあったしね。そしてこうして鳥になってここにいるってわけ」
俺はハピネスの話をただ無言で聞いていた。彼女の気持ちは少しだけわかる気がする。
オンラインゲームだと相手の現実なんてわからない。だからこそハピネスは傷ついた現実を一時的に捨てゲームの中で心の拠り所を見つけたのかも知れない。現実逃避と笑うのは簡単だ。だけどそれで彼女を一時的にでも救えるのならたとえそれが仮想世界であったとしてもいいんじゃないかと俺は思った。
その時、俺はふと膝枕をしてくれているプリムへ視線を移す。彼女はじっとハピネスを見つめていた。この世界に来た時、彼女は「心の拠り所がある」と言った。今でもそれが何なのかわからないけどいずれは訊けるのだろうか。
ハピネスは黒いつぶらな瞳をプリムへ向けると首を上げる。彼女の笑っているサインだ。
「私の昔話はおしまい。プリムさんには私みたいになってほしくないわね。レヴィ君みたいな素敵な旦那さんを見つけて欲しいわ」
彼女の言葉を受けプリムは膝の上で横になる俺へ桜色の髪を揺らし視線を落とした。そのアメジストの瞳が碧眼の奥を見つめる。彼女の表情は穏やかで優しいものだった。
俺は見つめ返して言葉を紡ぐ。
「……お前は次にこう言う。よし結婚しよう」
「『よし結婚しよう』」
「マジで言いやがった。本当に言ってることが嘘か本当か冗談なのかよくわからない女だぜ……」
オウム返しのように同じ言葉を呟いたプリムに俺は苦笑してみせた。
その言葉に彼女は笑顔を見せる。百合のように可憐な微笑みだった。