第43話「プロセルピナの元で死神は笑う」
女の声音で俺は目を覚ますと、天使の姿はもはやなかった。
いつも髪をといていた後ろ姿も「おはよう」と声をかける可憐な笑顔もない。すべてがまるで幻であったかのようにプリムの姿は視界から消えていた。
思わず大声で彼女の名を叫ぶ。しかしあの凛としたそれでいて可愛らしい声音も聞こえない。
「ごめんなさい。本当はまだプリムさんから起こすなって言われていたんですけど……私。もう耐えられなくて」
俺を起こした声の主は如月乃愛だった。
彼女の言葉で俺の脳裏に最悪の状況が浮かび上がる。時計を見ると時間はワールドボス戦開始から五分後。つまりクエストの期限から二十五分前だ。
何故、こんな時間まで寝ていたのかわからない。だがそんなことに思考を巡らせる余裕などなかった。咄嗟にすぐ脇で漂う銀色のスマートフォンを掴み、視線をパーティ画面に移す。
見るとプリムの項目は「EXIST」と表示されていた。しかしその隣に赤く表示されている「戦闘中」という文字が目についた。
俺の全身が逆立つのを感じる。それは彼女が死ぬことへの恐怖によってだ。
「あのバカ!」
黒いコートに袖を通すと外に飛び出た俺はバイクにまたがり、乱暴にアクセルをひねる。大地との摩擦によりタイヤはけたたましい音をたて、前輪を浮き上がらせるかのごとく車体を加速させた。
同じ速度で銀色のスマートフォンが追従する。
「乃愛はあいつのスマホにいたんじゃないのか!?」
「シーリスを経由して今、レヴィさんに話しかけています!」
「プリムの状況は!?」
「現在、ワールドボスと交戦中。ワールドボスエリアまで案内します!」
「どうやって戦ってんだあいつ!?」
「逆位置です! 愚者の逆位置は全てを捻じ曲げる効果を相手に与えます。つまりそれはあらゆるものを断ち切る剣と化します。そのかわり……あの強固な防御性能をすべて失います」
「まさか……あいつ……」
「はい。相手の攻撃ターンのみ正位置の愚者で守り、自分の攻勢時に逆位置に転換し攻める。それの繰り返しです。でもそんな死と隣り合わせの綱渡りを見てられなくて……私……」
戦法としては確かに理にかなっている。
守るのが自分のみであるソロ戦なら周囲の状況を察知する必要もない。守る時はしっかり守り、攻めるべき時のみ相手の耐久値を削る。しかしそれは判断力の欠如により、いとも容易くプリムの命を奪うだろう。
「プリムさんは言ってました。最後までソロで耐久値を削れるだけ削り『レヴィが到着するころに全てを任せる』と。だけどそれは……その言葉が意味することはつまり……」
乃愛が今にも泣きそうな声で力なく言葉を紡ぐと黙り込んだ。
プリムが意図していることを彼女もそして、俺も即座に理解したからだ。
いつからだ。
いつからあいつは……死ぬつもりだった?
プリムの笑顔や涙に濡れた顔が走馬燈のように脳裏を駆け巡る中、彼女の言葉が蘇る。
「私にとってはそれが重要なのよ」
「例え私が犠牲になっても」
「元の世界に戻るんでしょ?」
「……やっぱり私は間違ってなかった」
ウィルトとのお茶会をした時からか? 乃愛と再会したあの時か? それとも……俺から「死神の事を聞いた時」からか?
昨日のプリムの表情が浮かび上がる。俺の胸に身を寄せた彼女のあの涙に濡れた顔は、死を覚悟し俺へ向けた最後の思いを打ち明けた姿だった。
胸が締め付けるように痛くなる。死なせない。そう言ったはずなのに。
風を切るように突き進む眼前にプリムの後ろ姿を思い浮かべ、俺はさらにアクセルをひねった。
どのくらい走っただろうか。もはや時間感覚すらとうに見失っていた。
見渡す限りの大地はまるで鮮血を吸い込んだかのように赤く染まっている。ワールドボスエリア。如月乃愛に案内され俺がたどり着いた場所だ。
体に打ち付けられるのは、大地が揺れんばかりの衝撃音。耳に響くのは竜の咆哮。体を揺さぶる振動は、巨大な何かが大地を踏みしだく音だとすぐに理解した。
目に映るのは三つの頭を持つドラゴンだった。全身を黒い鱗に覆われ巨大な翼脚が大地を震わす。それぞれの頭には二つの赤く光る目を携え二本の角がねじ曲がり生えていた。
一目で邪悪な存在だと認識できるほどの濃密な闇を立ち昇らせ、巨竜の咆哮が鼓膜を震わせる。
「……ワールドボス。<アジ・ダハーカ>です」
そのあまりの巨大さに。そして見るものに例外なく恐怖を与える邪悪さに俺はその場に立ち尽くした。彼女はこんなものと一人で戦っているのか。
巨躯から発せられる濃密な闇の瘴気を光が切り裂く。純白の翼を大きく広げた光の塊をアジ・ダハーカの赤い目が追った。
閃光。ワールドボスの口から発せられた光の束が一直線に輝く天使へ撃ち出される。しかしその光線は彼女の寸前で捻じ曲がり地平線の彼方へ消えていった。
「逆位置変換!」
凛とした力強い声と同時に天使の前に、その背丈を優に超える黒い物体が浮かび上がる。俺の目に映るそれが、立ち上がり四肢を伸ばした愚者だと理解するのにそう時間はかからなかった。
愚者の手に光が収束し高速で打ち出される。その瞬間、アジ・ダハーカの体が切り裂かれ血煙を吹いた。
「プリム……」
赤く染まる大地で闇の瘴気に覆われた中、ただ一人巨大な闇に立ち向かう美しき天使。いくら手を伸ばそうともう掴むことができないと感じるほど彼女は遠い。
だけど俺は叫ばずにはいられなかった。今まで何度言いたくても言えなかった言葉。そうだと思いながらも心の中で否定し続けた言葉だった。
「凛愛!」
俺の叫びに彼女は反応した。
振りむいたプリムは、アメジストの瞳にうっすらと光をまとわせ優しく微笑んだ。
「……来るのが早いよ。結翔」
刹那。竜の咆哮が響く。
一直線に伸びた光が彼女の前にいる愚者を貫いた。純白の翼を散らせ涙を浮かべたままプリムがゆっくりと落ちていく。
地に沈む天使はもう飛び立つことはなかった。
「凛愛!」
俺の腕の中で彼女が横たわっていた。今彼女の体には凄まじい激痛が走っているはずだ。しかしその表情はどこか穏やかだった。
突如、体を大きく痙攣させるとプリムは口から大量の鮮血を地面に吐いた。紅に染まった大地が彼女の血でさらに赤く染まる。
愚者はすでに消滅している。それが何を意味するのか俺にはわかっていた。しかしどうすることもできない。
ただひたすらに彼女の名を呼ぶだけだった。その声に呼応するかのようにゆっくりと震えるプリムの手が俺の頬に添えられた。
「……立ち上がってレヴィ。そして現実世界に帰って」
「馬鹿天使が! お前置いて俺だけ帰ってどうするんだよ!?」
「違うよ。レヴィ。置いていくわけじゃない。……二人で帰るんだよ?」
俺の頬を優しく撫で「ね?」と消え去りそうな声音で語る彼女は美しい笑顔を形作った。そして涙に濡れる瞳を閉じると同時に、その手が力なく地面に垂れ下がる。
地面にぽとりと何かが落ちた。それは俺の銀色のスマートフォンについているものと同様のマスコットだった。現実世界で凛愛と一緒に買った代物だ。
俺は震える手でそれを拾い握りしめる。シーリスの声が静かに響いた。
『プリム様の耐久値が消失。プリム様の死亡を確認』
体の震えが止まらなかった。どう声をかけていいのかもわからなかった。
ただその手で彼女の亡骸を抱きしめることしかできなかった。
奇跡など……起こりはしなかった。
『現実世界への帰還クエストの制限時間が終了しましタ。クエストの達成に失敗しましタ』
涙は流れない。何故か溢れ出るものは笑いだった。
力なく静かに俺の口元は歪んでいた。死神はブラッディノアなんかじゃない。俺自身だ。
プロセルピナで死神は笑っていた。




