真実はない
「いやあ、付き合わせて悪いねえ」
そう言うひるまは全然悪怯れているようには見えなかった。いつものようににこにこと笑っている。しかし、だからと言って不快というわけでもない。ここが彼女のいいところだ。
しばし談笑しながら再び公営墓地を目指す。ううん、一度に二回もお墓へ赴くことになろうとは。異界帰りをするのはご先祖様の方だというのに。
「それにしても、浪江ちゃんの家のお墓もあそこにあるんだねえ」
「そうね。思いがけないこともあるものだわ」
まさか友人の家の墓がある場所に自分の家の墓もあるだなんて思わない。
「じゃあ、私たちは死んだら同じお墓に入ることになるのかあ」
「いや、同じ墓には入らないわよ」
墓場まで持っていける友情って……。そりゃあいい話と言えばそうかもしれないが、それ以上に重い。
「それに結婚して名字が変われば同じ場所とは限らないわよ」
よく知らないけれども。
「そっかあ。じゃあ私が結婚できなかったら浪江ちゃんも結婚しないでね?」
「じゃあ、私が結婚できなかったらひるまも結婚しないのね?」
「それとこれとは別だよ」
何の話をしているのだろうか。そうか、重い友情の話か。
多分、軽口だと思うので適当に切り上げて怪談話を振ってみる。もちろん父から聞いた『生首の入った骨壺』の話である。
これから墓参りに行こうというのに、全く私は不謹慎もいいところだった。どうやら私は父に似たらしい。
「へえ。そんな話がねえ」
ひるまは全く怖がる様子を見せずにそう言った。まあ、高校生の反応としては正しいのかもしれない。流石に話だけで怖がることのできる歳はもうとっくに過ぎているだろうから。しかし、これはこれで悔しいものだ。怪談話は怖がってもらってなんぼである。
「確かにあそこ、ご先祖様が不憫になるくらい不気味な場所だもんねえ。そういう噂が流れるのもさもありなんって感じだよね」
「そうね。やっぱり川が近いからこういう噂が流れるのかも知れないわね」
「ん? どういうこと?」
ひるまは得心しかねるように首を傾げた。私は怪談の種明かしを披露した。
しかし、ひるまはそれでも眉をひそめたままだ。
「どうかな。下水と繋がってるのはもっと川の先の方だし、増水しても数日経てばかなり川も流れるからほとんど下水なんて残らないはずだよ」
確かに下水道と繋がっている河原はまだ先の方だ。ひるまの言うことは尤もである。下水道に繋がってる河原でもない限り臭いなんてほとんど残らない。しかし、ではあの墓地に、確かに漂っていた臭いはなんだというのだろう。
「本当に腐敗した生首だったりして」
「あははー。そんな馬鹿なー」
ひるまは笑い飛ばすけれど、他に理屈の付けようなんてあるだろうか。
不安に駆られながらも公営墓地に入る。
やはり暗い。行政はこの柳をどうにかすべきだと思う。この柳の所為で明かりが遮断されているのである。
「あれ? ここなんにもないじゃん」
ひるまは今更のように言う。そう、彼女は手桶も柄杓も持参してきていないのだった。黙っていたのは私の意地悪である。
「くっそー。どうしよう」
「いいじゃない。お線香だけあげて帰りましょ」
ひるまと私は墓村家の墓まで移動する。
ひるまは線香に火をつけて墓に供える。一応私も友人として線香をあげさせてもらった。
線香の匂いが鼻を刺激する。一度匂いを意識すると、私の鼻は他の匂いをも捉えた。
なにかが臭い。
なんというか、アンモニアが腐った感じだろうか。おかしな表現だろうがそうとしか言いようがない。どこか刺激臭がするのである。
「やっぱりなんか臭うわ」
「ちょっとちょっと、うちのご先祖様の前で臭うとか言わないでよ。傷ついちゃうでしょ、ご先祖様が」
目を瞑りながら合掌したままひるまが呟く。
すみませんでした。
私もお墓に向かって手を合わせた。
そして臭いのもとを探そうときょろきょろと辺りを窺う。すると、墓村家の墓から五つほど先、墓地の出口付近にある墓石に女の人が柄杓で水をかけているのが見えた。どうやら今日でも参拝する人はいるようである。
清潔な佇まいからあまり無精者という感じは受けないから、お盆中は定期的にお参りに来ているかひるまのように事情があって来られなかったのかもしれない。
すらりと伸びた髪は暗い中でゆらゆらと揺れ、その柔らかさを主張している。顔はよく見えないけれど、美人なんだろうなと予想できた。
女の人がゆっくりこちらを向いた。
目が合った私が会釈するとあちらも会釈を返してきた。やはり顔はよく見えない。
「さ、ご先祖様にも挨拶したことだし、帰ろうか」
ひるまが顔をあげて言う。同時に女の人から目を離してひるまへと視線を移す。
「ようやくだらだらできるわ」
「浪江ちゃんはだらだらするのが好きだねえ」
その通り。私は三度のメシよりだらだらするのが好きなのだ。
出口の方へ身体を向けると、いつの間にか女の人はいなくなっていた。幽霊みたいに音も立てずに。
少し寒気を覚えながら家路を一歩踏み出し、歩き出す。
墓地の出口が近くなったとき、ふっとまた嫌な臭いが鼻を突いた。
横を向くと墓がある。あの女の人が水をかけていた墓だろうか。立ち止まって墓に向かって鼻を突き出す。
「うっ……」
ここだ。臭いのもとはここだ。
「ちょいとちょいと、浪江ちゃん。お墓の臭いを嗅いでしかめっ面とは正気か君は」
「いや、このお墓、ちょっとおかしいでしょ」
私の言葉に眉をひそめ、ひるまもすんすんと鼻を動かす。
「うわっ! くっさ!」
それは私より酷い反応なのでは?
「便所臭いよ浪江ちゃん!」
乙女が便所とかいう言葉を安易に使ってほしくはないが、その言葉は正鵠を得たものだった。トイレでも手洗い場でもない、正に便所の臭いだ。意識しなければちょっと臭い程度の臭いだが、嗅ごうと思って嗅げば、かなり強烈な臭いとなる。
あの女の人はなにをかけていたんだろう。
にわかに恐ろしくなった私はひるまの手を引いて早足で歩き出した。出口近くの水汲み場。ここまで来れば多少町灯りが入るので安心できる。しかし、その安心も砕かれてしまった。
水汲み場には手桶と柄杓が残されていた。今この狭い公営墓地には私とひるまとあの女の人しかいなかった。それは確かだ。
ひるまは一式を持ってきていない。私たちがここに来たとき、ここには手桶も柄杓も置いていなかった。だから、これはあの女の人のものだ。間違いない。
では、何故ここに置いてあるのだろうか。
怖いもの見たさで近付いてしまう。さっさとここから離れろと天使の自分が警告するが、私の身体は全く天使の言うことを聞こうとはしない。どんどん手桶との距離が縮まる。縮まるにつれて臭いは強くなる。間違いなく臭いの原因は手桶の中の液体にある。
覗く。
町灯りが私の影を伸ばして手桶を覆う。手桶に影がかからないところに移動して、もう一度覗く。
「ひっ……」
絶句して声が漏れる。そのとき、誰かがぐいと私の手を掴んで墓地の出口へと引っ張った。私の腕を掴んだのは顔面が蒼白になったひるまだった。
その後、ひるまとは一緒に街へ出て遊ぶことにした。そうでもして紛らわさなければ、静かな住宅街へと戻ることができなかったからである。
私の見たもの。手桶の中に満たされていたのは黄色い液体だった。そう。尿だ。人のものかあるいは他の動物のものかはわからないけれど、それは臭いからも間違いなくそうだと言い切れる。
そしてひるまが見たのは、墓地の入り口から、戦く私を覗き見ている女の青白い顔だったという。
何故女の人が墓石に尿をかけていたかなんてわからない。それ以上に水汲み場に手桶と柄杓を見せつけるように置いていった意図がわからない。いや、「見せつけるように」ではない。事実、見せつけていた。悍ましいものを見て絶句する私を覗き見ていた。恐ろしい。まるで理解不能の神経だ。
忘れよう、このことは。綺麗さっぱり。それが無理なら頭の隅に追いやってしまおう。だから夜も近いこの時刻にも関わらず街へ出ることに決めたのだ。もう一人、仲のいい友人を呼び出して。
そして私とひるまは友人を待っている間、将来は絶対に結婚して他の墓地へ入ることを誓い合ったのだった。