鹿とスカルピア
しかし、夏目の答えはあっさりとしたものだった。
「いいですよ。」
「え?」
思わず耳を疑う。すると夏目はもう一度言った。
「樋口幸太郎を修学旅行に連れて行きたいのでしょう?いいですよ。」
「ほ、本当ですか?」
生徒会室の隣の空き教室に夏目を引っ張ってきた雪春は、拝み倒す覚悟を決めていただけに俄には信じられなかった。
しかし夏目はにこやかに了承してくれた。
「とにかく向こうで落ち合えればいいんですよね?方法は企業秘密なので言えませんが、何とかしましょう。」
企業秘密というのがとてつもなく気にかかったが、何とかしてくれるなら文句はない。
どうやら本当に自意識過剰だったようだ、と胸をなでおろす。
その様子に目をやった夏目は例のごとく胡散臭いほどの笑顔を浮かべた。
「どうしてそこまでして彼を連れて行きたいのかは聞かないでおいてあげますね。」
「・・・ソレハドウモ。」
絶対分かっているくせにこういうことを言うから信用ならないのだ。しかし今、彼の機嫌を損ねるわけにはいかないので黙っておいた。
「それで?」
「はい?」
続きを促す夏目に、まだ何か言うことがあったかと首を傾げる。すると彼はやれやれと首を振って困ったように笑った。
「まさか先生――タダでとは言いませんよね?」
きた。
雪春は背中に汗が伝うのを感じた。
そうだ。夏目との交渉がこんなにスムーズに行くわけがない。それは初めからわかっていたことだが、雪春はそれに抗うように顔を背けた。
「・・・まさか教師にたかる気ですか。」
「嫌だなぁ先生。僕がそんなこと言うと思っているんですか?」
言うと思っていないから敢えて言ったのだ。
悲しそうなフリをする夏目に、反論の言葉を飲み込むのは至難の業だった。
空き教室の静けさや背中の窓からの冷気が今更気になり始めて、まずい空気になる前に終わらそうと雪春は単刀直入に聞いた。
「何が望みですか。」
よもやこれは教師と生徒の会話ではない。
しかし夏目は気にした風もなく、笑みを深めて言った。
「修学旅行中、先生の部屋に「却下です。」
まだ全部言っていませんよ、と苦笑する夏目が心底腹立たしい。
本当に予想を裏切らない男だ。この場合、普通ではないことをしでかすという予想だが。
まさか一花が昨日心配していたのは鹿ではなくこの魔王の化身のことだったのだろうか、という考えがちらりと頭をかすめる。
しかし夏目が告白してきたことは言っていないし、一介の男子高校生に対して彼女がそんな懸念を抱くわけがない。夏目は“一介”というくくりはできないが、それでもまだ17歳の少年なのだから。
その17歳の少年に身の危険を感じている自分は棚に上げて雪春はその仮定を振り払った。
すると口元に手を当てて思案していた夏目は、思いついたように顔を上げた。
「では修学旅行が終わってから先生の家に「却下です。」
一体何がどう変わったのか教えて欲しい。雪春は頭が痛くなった。
部屋に入って何をするつもりなのかは怖くて聞けないが、とても良くないということだけはわかる。
すると夏目の方も困ったようにため息をついていた。
「仕方ないですね。わがままな先生のために、ここは一つ貸しにしておきましょう。」
当然の主張をしただけなのに、どうして聞き分けのない子みたい言われなくてはいけないのか。
雪春は出そうになる手を必死に押さえた。
「その代わり、担保をいただきます。」
「え?」
背中を窓に押さえつけられる。見上げると、とてもいい笑顔をした夏目が間近に迫っていた。
首筋に感じる冷たいガラスの感触と肩を掴む手の温度に雪春は口元が引きつった。
「な、何をするつもりですか?」
「何って、キ」
言い終える前に抑えきれなかった拳が飛び出た。
しかし夏目は動じることなく受け止める。渾身の一擊だと思ったのに悔しい。
「先生、なかなか攻撃的になりましたね。」
「幸太郎に習っていますから。」
手を押し合いながらお互いに平常通りに会話する。
今まで夏目は「フィガロ」の伯爵とケルビーノ、「ドン・ジョバンニ」のドン・ジョバンニときて、今日は「トスカ」のスカルピアのようだ。
賄賂で恋人の助命を得ようとするトスカに、お金ではなく彼女の身体を求めるスカルピア。トスカは絶望し、なぜこんな過酷な運命を与えるのかと神に助けを求めて祈る。
―Viss d'arte, vissi d'amore, non feci mai male ad anima viva!
いや、やめよう。今この曲はシャレにならない。
しかしこういう場面で上手なのは、どうしたって夏目の方なのだ。彼はふ、と笑うと、軽々と受け止めた雪春の手をゆっくりと指で撫でた。
「そうやって必死に抵抗されると、小動物のようで可愛いですね。」
「しょ・・・」
いくら雪春が小柄だからといって、22歳の成人女性を捕まえて小動物とは何事だ。さすがに大人としてここは注意しなければいけないと顔を上げて、夏目の目を見た。
そして後悔した。
「思わず―――食べてしまいたくなる。」
その過分に熱を孕んだ目に、雪春は背筋が震えた。
まるで鋭利な牙を持った獣に喉元を甘噛みされているようで、身動き一つできない。
一体どう育てたらこんな高校生が出来上がるんだ。一度親の顔が見てみたい。
その出かけた言葉ごと、夏目に飲み込まれそうになった時。
「夏目、いい加減に仕事に―――。」
空き教室に副会長の宮下賢仁が入ってきた。
お互いに目が合って固まる。深く刻まれた眉の下の目は大きく見開かれていた。
数秒後、賢仁は眼鏡を片手で直してから踵を返した。
「失礼しました。」
「待ってください失礼じゃないですお願いですから行かないでください・・・。」
雪春の消え入りそうな声がよほど哀れだったのか、賢仁は立ち止まってくれた。深々と恒例のため息をついて振り向く。
「一体なにやってるんだお前は・・・。」
「無粋だな。聞かなくてもわかるだろう。」
「あぁ、心底聞きたくないな。」
雪春は腕が緩んだ隙に急いでその場を離れる。流石に夏目も引き止めなかった。
他の生徒に見られてしまったのは痛手だが、夏目の幼馴染の賢仁のことだ。きっといつもの突拍子もない行動の一貫だと思ってくれるだろう。
朔太郎と同様、幼馴染であるからこそ夏目の気持ちに気づいている可能性は必死で考えないようにした。
「それで、何の用だ。」
夏目は全く動じずに尋ねる。そもそも彼が動揺することなんてないとは思うが。
すると賢仁は眼鏡をかけ直しながら思い出したように言った。
「嶺藤が、お前に用があるって生徒会室に来てる。」
①「トスカ」・・・プッチーニのオペラです。記載してある歌詞は、トスカの有名なアリア「歌に生き、愛に生き」です。恋人が拷問される声を聞かされ、憎いスカルピアに体を求められ、悲しみにくれるトスカが切々と歌うこのシーンは本当に涙を誘います。短いですが名曲です。