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一花の心配

「でも潤ちゃん、これからはもっと覚悟しておいた方がいいんじゃない?修学旅行は文化祭と同じぐらい、カップル成立しやすいんだから!」

 朔太郎が指を立てながら諭すように言った。口元はいたずらを思いついたように楽しげに弧を描いている。

 すると幸太郎も空中で思い出す様に腕を組んだ。

「そう言われれば、俺が学生の時もその前後は空気が違ったなぁ。」

 その言葉を受けて雪春も学生の頃を思い返したが、いかんせんあの時は人とあまり関わり合っていなかったのだ。空気などわかるはずもない。しかし生徒会長までやった幸太郎ならその中心にいたのではないだろうか。告白されたことだってあるに違いない。

(そういえば・・・。)

 ふと、幸太郎の恋愛関係について全く考えたことがないことに気がついた。

 

 亡くなった時恋人はいなかったのだろうか。もしくは好きな人が。


「それになんて言ったって、今度行く場所は関西だもの!」

 そう言って、朔太郎は持っていた雑誌を開いて机の上に置いた。

 恋占いや恋愛成就の神社。そしてデートに最適な場所など、恋愛関連の場所の特集が数ページに渡ってされている。

「この雑誌、俺の班の女子も持ってたな。」

 潤平が表紙をめくりながら言った。

 これは旅行関係では定番の雑誌で、定期的に発行されているものだ。参考にする生徒も多いだろう。学校生活における一大イベントを楽しむために、どの生徒も情報収集をかかさないようだ。

「あぁ、楽しみだわー!修学旅行といえば夜通しこっそりやる恋バナ、憧れの人への告白、夜の自由時間のデート、そして異性とのドッキリびっくりハプニングよね!」

 朔太郎は空中を見つめてうっとりとしている。目をキラキラと輝かせ、傍目にも何を想像しているかが丸分かりだった。

「そんな相手もいねぇくせに何言ってんだ。」

「私はそれを観察するのが楽しいのよ!言っておくけど、恋バナは潤ちゃんにも付き合ってもらうからね!」

 その言葉に、潤平はうげ、と顔をしかめた。

 それを苦笑しながら聞き流していると、先程話題に出た奈良公園の記事が現れた。

 実は関西に行ったことがない雪春は、密かに気になっていたことがあった。

「本当に、道端に鹿が歩き回っているんですか?」

 奈良公園の鹿は有名だが、どうしても鹿がその辺を普通に歩いているのを想像することができなかったのだ。その問には一花が答えてくれた。

「いますよ。でもあんまりぼーっとして歩いていると、お菓子とか取られますから気をつけてくださいね?」

 お兄ちゃんもアイスクリームを食べられてました、と楽しそうにつけたす。幸太郎だったらありそうだなと雪春も一緒に笑った。

「でも今は発情期らしいからあまり近づけねえみたいですよ。」

「え~?そうなの?残念~!」

 潤平の言葉に朔太郎が大きな落胆の声を上げた。確かに9月から11月は鹿の発情期に重なっている。気が荒くなっているので注意が必要、と雑誌にもきちんと記してあった。

 雪春も残念だったが致し方ない。他の生徒たちも不用意に近づかないように注意しないといけないなと考えていると、一花がはっとしたように先ほどの笑顔を止めていることに気がついた。

「発情期・・・。」

 なにやら引っかかるワードだったらしい。幸太郎と二人で顔を見合わせていると、一花がおずおずと尋ねた。

「先生も先輩たちと同じ旅館に泊まるんですよね?」

 話の流れからして修学旅行の泊まる部屋の話だろう。教師陣も生徒たちとは違う階に部屋が割り当てられている。どうやら宴会をするようなので、交代で見回りを割り当てられている教師以外は基本的に一階らしい。新人である雪春は当然の如く生徒と同じ階だ。

「はい。谷崎くんたちのような大部屋ではないですが。」

 その言葉に潤平は「いいなー個室。」と羨ましそうな顔をした。生徒たちは5、6人で一部屋だから少し窮屈だろう。

「夏目先輩もですか?」

「それは当然でしょう。いくら生徒会長でも、一人部屋の権限はありません。」

 いや、実際にはしようと思えばできそうだが、そんなことに権力を振りかざしたりはしないと思いたい。それを言い始めたら、そもそも夏目が大人しく修学旅行に参加するところがあまり想像できないのだ。

 雪春は鹿にせんべいをあげる夏目の図を思い浮かべようとして何度も画像の読み込みを失敗し、結局強制終了させた。どちらにしろ、今回の修学旅行では鹿には近づけないだろうが。

 雪春はもう一度奈良公園の鹿の写真に目を落とした。

 本音を言うと、鹿が歩き回っているのに近寄れないのは残念でならなかった。学校の行事以外で動物園には行ったことがなかった雪春は、動物にあまり触れ合ったことがない。

(あ、でも一度だけ・・・)

 そういえば、一度だけ“あの人”に動物園に行きたいか聞かれた事があった。

 でもあの時はたしか断ったのだ。どうしてだったろうか。


“・・・―春”


 雪春は脳裏に“あの人”の姿が蘇り、瞬間意識が捉えられるのをぼんやりと感じた。

 右目下の泣きボクロ、いつも笑みを湛えた薄い唇、スラリとした体躯、そして長いまつげに縁どられた目の奥の瞳は、光に当たると不思議な色をしていた。それはイタリア人のクウォーターだからなのか、それとも―――優しげな面立ちに不釣合いな程の冷たさが隠れていたからなのか。


“――雪春”


 冬の早朝の空気のようなその声は胸に染み込むようで、しかしどこかにわずかな痛みを伴っていた。その小さな欠片が少しずつ、確かに雪春の積もっていき、終いには―――


“ねぇ、どうして――――”


「ユキ?」

 はっと息を呑む音が聞こえ、それが自分のものだと気がつくのに数秒かかった。

 心配そうに覗き込む幸太郎と目が合う。

 同時に背中に当たる教卓の感触や、差し込む夕日で染まる教室内の色を取り戻した。

 ひやりとして潤平たちに目をやる。

 彼らは依然として修学旅行の話しで盛り上がっていた。

 その様子にほっと息を吐くと、自嘲するように小さく笑った。

(・・・情けないですね)

 雪春は胸にそっと手を当てた。

 少しだけ早くなった鼓動を抑えるかのように。


「先生・・・。」

 一花の声に顔を上げると、彼女は未だ思案するように考え込んでいた。よほど気がかりなことがあるらしい。

 雪春は頭を切り替えて、目で続きを促す。やがて一花は不安げな表情で、しかしどこか照れたように恐る恐る雪春を見た。

「・・・あの、襲われないように気をつけてくださいね?」

 途端、朔太郎が隣で吹き出した。潤平は呆れたように「樋口・・・。」といい、幸太郎も呆然としている その大げさな反応に、雪春は戦慄した。


 まさか発情期の鹿はそこまで危険なのだろうか。


 可愛い顔をして意外と獰猛というのは本当のようだと、雪春は気を引き締めるためにぎゅっと拳を握り締めた。

「ちゃんと用心します。」

「はい。絶対にそうしてください。」

「押し倒されたら怪我では済みそうにないですしね。」

「は、はい、当然です。」

「やだユキちゃん先生大胆発言!」

 何故かますます顔を赤らめる一花と、きゃーっと騒ぐ朔太郎に内心首を傾げるが、雪春は安心させるように精一杯の笑みを浮かべた。

「大丈夫です。ちゃんと鹿せんべいを常備しておきます。」

 そこで一花は一瞬きょとんとしてから、何かに思い至ったようにがくりと肩を落とした。

「いえそうではなく・・・。」

 鹿の話ではなかったのだろうか。その様子が気にかかったが、「なんでもないです・・・。」と疲れたように言われてそれ以上聞けなかった。同時に幸太郎からもため息が聞こえる。 

 兄妹揃って一体なんだというのだ。

 朔太郎は朔太郎で「ま、そんなことだろうと思ったけど。」と苦笑している。なんだか呆れられているような気配を感じて、雪春は言い募ろうと口を開いた。

 しかし誰かが教室内に入ってくる扉の音で、質問の言葉が宙に浮いた。

「あ、三島先生!」

 そのカンと響くソプラノの声に体が固まる。振り返ると案の定、授業で突拍子もない質問をしてきた千鶴だった。

「探しましたよ!まだちゃんと質問に答えてもらってません!」

 突然の乱入者に、一花も朔太郎も困惑している。

「質問ってなんのこと?ユキちゃん先生?」 

「えーっと・・・。」

 雪春は再び頭を抱えたい気持ちになり、言葉を模索した。すると潤平が雪春の代わりに答えた。

「好きなタイプとか、デートに行きたい場所だよな?先生?」

 そのにやにやとした表情に、授業で一人笑いをこらえていたのは彼だったことを思い出す。

 あの時の八方塞がりな気分が蘇り、少々憮然とした表情になった。

 それにしてもまだ諦めていなかったのか。今度は何といってこの場をやり過ごそうかと考えていると、

「え、と柳先輩、お久しぶりです。」と一花が戸惑いながら声をかけた。

 すると千鶴も一花に目をやり、驚いたように少し目を見開く。

「一花さん?」

「新年会以来ですね。お体の調子は大丈夫ですか?」

「えぇ、まぁ・・・。」

 それまで勝気だった表情に初めて影がさし、言葉を濁した。まだそこまで関わりがない彼女だが、それでも珍しい様子だ。

 雪春は千鶴の病気に関して詳しく聞いたことはない。今のところは校長と教頭、そして担任だけにしか告げられていないようだ。音楽が担当なだけで話が回ってくることはないだろう。もしかしたら触れてはまずいことだったのかもしれない。

 雪春が言葉を探している間に、空気を変えたのは潤平だった。

「そういえば、先生より前にお前は行きたいところはないのか?今日のHRでも全然発言してなかっただろ。」

 すると千鶴は勝気な表情を取り戻し、なんでもないことのように肩をすくめた。

「私は別に・・・同情で仲間に入れてもらったメンバーだし。」

「そう言うなよ。みんな中学からの付き合いだろ?」

 千鶴は病気のせいで休みがちで、行事にも中々参加することがない。友達もできにくいのかもしれない。

 それを感じ取ったのか、一花は雑誌を掲げて千鶴にも見えるように開いた。

「京都はおしゃれなカフェとか多いですよね。」

 雑誌には今流行りの自然食を取り扱ったものや、スイーツが豊富なところも載っている。そのほとんどがゆっくりできるアットホームな雰囲気を持っていて、最近では一人でカフェにいく女性客が多いようだ。

「一花と行ったカフェは、女の子ばっかりで居づらかったな・・・。」と幸太郎。その声には少し疲れたような色があった。

 それに内心苦笑しつつ、雪春も思いつくことを言ってみた。

「寺巡りとか紅葉が綺麗な散歩道とかいいですよね。」

 旅行の時期は紅葉には少し外れているが、それでも散策する場所が多い。鴨川付近などは等間隔で座るカップルがよく見られるほどらしい。

「夜はおしゃれなバーで飲んだりして♪」

「京都見学は夕方までだろうーが。」

 朔太郎が楽しげに続き、潤平もそれに応じる。

「それ以前に未成年です。」

 最終的に一花が呆れたようにつっこんだ。

 千鶴はそれを静かに見つめてから、やがてポツリと言った。

「本当に・・・どこだっていいのよ。」

 教室に差し込む逆光で、その表情を伺うことができない。


 結局、彼女が希望を言うことはなかった。

 

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