気弱な同僚
「大変だったな~ユキ!」
生徒が完全に音楽室を退室した後スーツの青年がにこにこと近寄って来たので、雪春は思わず睨みつけてしまった。本当に大変そうだと思ったならなぜ助けなかったと肩を掴んで揺さぶりたいぐらいだ。
しかし、彼が気づいた様子もなく「今時の高校生はおもしろいやつが多いなあ」と笑うものだから言及するのは早々に諦めた。きっと怒るだけ無駄だ。
ぷかぷかと体と共に心まで浮いている姿にそっとため息をつく。
彼――樋口幸太郎は幽霊だ。今年の五月に交通事故で亡くなったが、自分の妹のことが心配でこの世にとどまった。その妹が誰かに狙われたり、文化祭では奇妙な盗難事件が発生したり、雪春の体を使って盗撮犯をつかまえたりと色々とあったが、依然として成仏できず現在に至る。
霊感なんて一切ない雪春がどうして幸太郎を見ることができるのかは謎のままだし、一体どうしたら成仏できるのかわからないが、最近はあまり深く考えないようにしていた。
それは、もう打つ手がないからとか、考えても仕方ないからとかではない。
雪春が目をやると、幸太郎はいつものようにニカッと笑って言った。
「いやーこんなものが見れるなんて、幽霊にもなってみるもんだな。」
「・・・ばか言わないでください。」
本人がこの調子だからだ。
再び漏れそうになるため息を飲み込んで音楽室を出る。室内と違い廊下は少しばかり寒い。先程薄らかいた汗が冷えるのを感じて思わず身を震わせた。
“雪春”という名前だからと言って寒さに強いわけではなく、むしろ寒がりな方だった。毎年冬が近づくにつれ着込む部屋着の枚数が増え、友人の美咲には「だるまみたいになってるわよ」と笑われたことがある。エアコンは電気代がかかるためにつけられないのだから仕方ないのだが、たしかにあの格好ではあまり人には会えない。
雪春はクローゼットに閉まってある古臭いどてらやフリースを思い出して、出し始めるタイミングをはかった。
「そういえば、もうすぐだなぁ。」
すると、隣でくるくると宙返りをしていた幸太郎が思い出したように声を上げた。たまに彼のセリフには主語がない。この5ヶ月弱で多少彼を理解してきたとは言え、別のことを考えていた今は全くわからなかったので振り返って尋ねた。
「何がですか。」
「ほら、二年生の――。」
「三島先生!」
その時突然誰かに呼び止められてひやりとした。他の人には幸太郎の姿は見えないので、下手したら独り言を喋っているようにしか見えないからだ。
しかし振り向くと、そこにいたのは同期の英語教師、倉田彰純だったので安心した。彼はどこかおどおどするところがあるので、何か言われてもきっとごまかせるだろう。そんな失礼なことを考えながら、近づいてくるのをその場で待つ。
「なんでしょうか。」
おかしなところは何もないとでも言うように堂々とした態度で対応する。すると彼は途端にもじもじとし始めた。何というか、自分の周りには可愛らしい仕草が似合う男性が多い気がする。隣の幽霊然り、生徒会のおネエ然り。しかし雪春はそういう仕草以前に、無表情を直さないことには何も始まらないので真似しようとは全く思わないが。
そんなことをつらつらと考えながら見ていると、彼は英語の教科書を弄り倒してようやく決心がついたのか、バッと顔を上げてその勢いのまま告げた。
「こ、今度、ご一緒にドライブでも行きませんか!!」
その時雪春が思ったことといえば。それは驚きでも羞恥でもましてや喜びでもなく。
(こんなデートの誘い方する人って未だにいるんですね・・・。)
という少しずれた感心だった。