事件は音楽室から
―九月。厳しかった夏もようやくその陰りが見え始め、風が快い季節となった。制服も間服から冬服に完全に移行し、学園内の色も深まって数週間。
音楽室では、かつてない程の異様な空気が漂っていた。
「・・・え、と。もう一度お聞きしていいですか?」
新人教師・三島雪春は、涼しいはずの室内でかいた汗をぬぐい、目の前の女子生徒を見つめた。
彼女は腰に手をあて、勝気なそうな目を釣り上げ、先ほどの言葉を再度繰り返した。
「ですから、先生の好みの男性はどんな方ですか?とお聞きしています。」
あ、やっぱり冗談じゃなかったんだ、と思うと同時に、聞き流せば良かったと後悔した。
新人教師の洗礼、というものがある。最初の授業で自己紹介をする時に、「先生恋人いるの~?」とか「先生の3サイズは~?」などの質問を受けることだ。大抵の教師は教育実習でも経験しているため、上手い流し方というものを心得ている。
しかし、基本無表情だった雪春にそんな質問を投げかけるような猛者はおらず、それはこの学園の最初の授業でも同じだった。よって、雪春はこの場合の正しい対処法というのを知らない。
「・・・今は授業中なので、そういう質問は控えてください。」
結局当たり障りのない言葉で場を濁す。しかし彼女は諦めてくれなかった。
「生徒の質問に答えていただけないんですか?」
「いや、ですから、」
「私は真剣に聞いているんです。」
どこまでも強気な態度に、周りの生徒も戸惑いから面白がるような雰囲気になってきていた。
雪春は教壇の上の名簿をちらりと見る。
“二年二組、柳千鶴”
現在の勇ましい姿からは全く想像できないが、彼女は病弱で学校も休みがちな生徒だ。今日も新学期が始まってから初めての登校日だった。授業開始から妙に見つめられているなとは感じていたが、特に支障もなかったので気にしないでいた。しかしまさか残り10分という所で、突然こんなことを聞かれるとは。
それまではむしろ順調だったのだ。完全な自分の趣味で、今日の鑑賞内容はプッチーニの「トゥーランドット」だった。初心者が観る題材ではないかもしれないが、どこか「かぐや姫」を思わせる内容と、有名なスケート選手がこの中の有名なアリアをバックに大会で賞をとったために、生徒たちの中での知名度があったことも幸いした。
人物紹介やあらすじを簡単に説明したプリントに、ピックアップして流す親しみやすい音楽。下準備はばっちりだ。現に、彼女も食い入るようにスクリーンを見つめて―――と、先ほどの彼女を思い返して、雪春は考えを止めた。
(いえ、今思えば少し様子が変だったかも・・・)
その目が、授業に集中しているというものとはまた違っていた気がするのだ。それが先ほどの質問に関係するのかどうかは謎だが。
雪春は助けを求めるように教室の後ろにいるスーツ姿の青年にそっと目をやった。しかし“空中で”あぐらをかいている彼は、雪春と目があってもにこにことするだけで動く気配がなかった。
(この無重力能天気男・・・!)
いつもは人がいるところでも構わず声をかけてくるのだから、こういう時こそ何か助言をくれてもいいのにと教壇の下で拳を握り締める。
すると千鶴はなかなか答えない雪春に焦れたのか、再度促してきた。
「なにかないんですか?優しい人、とか穏やかな人、とか。」
「・・・そうですね。そういう人はいいと思いますよ。」
なんだか疲れてしまってかなり投げやりな返答になってしまった。しかしこうなったら彼女の気の済むまで答えた方が得策かもしれない。ふざけた雰囲気で聞いてくれれば誤魔化しようがあるものの、彼女の目からは逃れられない本気が伺え、長丁場になることを覚悟した。しかし今ので彼女は納得してくれたようだった。
「わかりました。」
そう頷くと、何か考え込むような仕草をした。
何とかやり過ごせたようだ。彼女の意図はまったくもって分からないが、やっとこの妙な焦燥感から解放されるらしいと雪春はほっと胸を撫で下ろした。するとそこで再び千鶴が顔を上げた。
「では、デートに行くならどこがいいと思いますか?」
(新手のいじめですか!!)
雪春はいよいよ頭を抱えたくなった。
視界の端では一人の男子生徒が必死で笑いをこらえている。周りの生徒も制止する気はないようだ。
味方はいないのかと雪春は四面楚歌の気分を味わって、のろのろと口を開いた時。
間延びしたチャイムがなった。
今日程この音に助けられたと思った日はない。結婚式の音楽を聞いた「フィガロ」の村娘たちも、きっとこんな気分だったに違いない。
「では授業を終わります。そういった疑問は私に聞くよりも雑誌などを見たほうが参考になると思いますよ。」
勢いにのって急いで締めくくる。
千鶴は不満そうだったが、渋々と着席した。
①「トゥーランドット」・・・中国を舞台にしたプッチーニのオペラです。この中の「誰も寝てはならぬ」というアリアは、荒川静香さんがオリンピックで金メダルを取られた時の曲として使用されて更に有名になりました。
②「フィガロ」・・・モーツァルトのオペラです。第三幕では、伯爵を出し抜いて結婚式を成功させようとするフィガロと村娘たちの計画が失敗しそうになりますが、鳴り響く結婚式の音楽のおかげでなんとかやりすごすシーンがあります。




