その位置
〓=〓=〓=〓=〓=〓
「ぎゃああぁぁあははぁはははははぁはあああははあはあはあはぁぁははあははぁはぁあぁあはぁあははははははぁはあぁぁぁははあはぁぁはははぁはああははははぁあはぁあはははははははぁぁぁぁあああはああはあああはぁぁあはぁあはああああああははあああははあああぁああぁあああああぁあぁあああ」
協会の外にまで響く叫び声。
床に散らばる数十人の人間であったはずの肉塊と赤い液体を背にし、サイズの合っていないぶかぶかの作業服を身に纏った少年は、悲鳴とも笑いともとれぬ奇声を上げていた。ゆらりゆらりと、おぼつかない足取りで、五歩、六歩前に進む間も奇声が止むことは無かった。そして少年は顔を上げ、奇声をより一層大きくした。教壇の前まで進んだ少年の少しくすんだグレーの瞳は、ただ一心に目の前のクリスタルでできた自分の身長より大きな十字架を捉えていた。十字架の中で安らかに目を閉ざしている女性を捉えていた。
不意に少年が発声を止め、左掌をクリスタルに当て、何かを呟いた。少年は左手を下ろし、代わりに右腕を振り上げた。その手には歪な形をした、人を殴り殺すことだけの為に作り出された金属棒が握られていた。暫くの間、時が止まった様にそうしていた少年であったが、急に、再び叫びだした。声のトーンがだんだん大きくなっていき、それがピークに達した時、少年は金属棒を何の躊躇も無くクリスタルに振り下ろした。
パリーンと子気味いい音と共に砕け散るクリスタル。そしてその中から、華奢な姿をした女性が膝を
付くように現れた。いつの間にか少年の声は止んでいた。バタンと、うつ伏せに倒れた女性を見下ろし、少年は『不思議でたまらない』というような表情をしていた。その表情もすぐに憎悪に歪んだ険相となり、右手を振り上げ振り下ろした。振り下ろされた金属棒は女性の後頭部に当たり、飛び散る濁った血液とともに鈍い音を響かせた。その音に快感を覚えたのか、少年の顔は恍惚とした表情になった。しかし、その瞳だけは憎悪に染まったままで、そのアンバランスが余計少年を不気味に見せた。
そして少年は自分の遥か後ろにもう一つの人影があることにも気付かず、何度も何度も何度も何度も金属棒を女性の華奢な体へと振り下ろすのだった。
〓=〓=〓=〓=〓=〓
――やっぱり言い訳って必要な事だと思う。
何処にでも居る月並みな女性、唐野美衣は、上司に向かって深々と頭を下げながらそんな事を思った。
特に何か持っているわけでもない。美人では無いが、さりとて残念な顔つきでもなく、スタイルも悪くわない。良くもないが。特技と言えば、『文章の速読』という微妙な答しか持ち合わせていない。その特技を活かし、声優を志したのも束の間であった。残念な演技力が足を引っ張り、どこの事務所にも入る事ができなかった。それでもアニメに携わりたいと心が叫んだのか、今現在、何故かアニメ制作会社『Gキュウト』に勤めていた。
そんな彼女は、とある上司に遅刻を理由に激怒されていたのだった。
「でも……」
「『でも』じゃ通じないんだよ。まだしっかりとした功績を積んでいるならまだしも、君は本当に。どうしようも無いね。こないだだって、君が原画担当を誘ったせいで期日に間に合わなかったんだよ? 分かってる? そもそも……」
上司の叱咤はいつしか只の愚痴へと変わっていった。美衣はそれに気付いているのかいないのか、苦虫を噛み潰したような顔で頭を下げ続けるのであった。
美衣は出社前、いや、出社途中に横断歩道で困っている老婆に手助けをしていたせいで出社に遅れたのだが、その旨を上司に伝えるタイミングを逃し続けていた。たとえ伝える事ができたとしても上司がそれを真摯に受け止めるとも思えなかった。
「もういいよ、下がって。仕事始めて。ほら、早く」
上司の叱咤激励|(?)も程々に終了し、美衣は自分のデスクへと足を向けた。椅子に腰を下したところで備え付けの電話が鳴った。美衣が取るより早く、向かいに座る男性社員が受話器を取った。
「もしもし。はい。……、はい。……分かりました。伝えておきます」
時折、美衣を見やりながら電話口に向かって頭を下げる男性社員を不審に思い、美衣はそわそわした。
「はい、……了解しました、伝えておきます。……あ、はい。では」
ガチャ、と受話器を置いて、男性社員は「ミイちゃん?」と美衣に声を掛けた。
「はい、何でしょう?」
何となく心構えができていた美衣は間髪入れずに返事をした。
「なんか、上の上の方がミイちゃんを呼んでるみたいなんだけど」
例の上司から見えない為になのだろうか、彼は顔を美衣に寄せて、掌で壁を作りながらひそひそ声で美衣に話しかけた。
「田巻さんにバレるとまずいらしいんだけど、何したの? ミイちゃん」
田巻と言うのは、あの上司の名前である。
「何もしてませんって。てか、上ってどこなんですか?」
「いや、よく分からないんだよね。『死火下』とか名乗ってたけど、僕、聞いたこと無いんだよね。でも社内の様子を把握しているみたいだったし」
二人の様子を見て、ゴホンと上司が咳払いをした。
「ほら、田巻さんに勘付かれないようにね」
男性社員が、大急ぎで書いたメモ用紙を美衣に渡した。
ハイと答えて、美衣は立ち上がった。
「すみません、ちょっと御手洗いに……」
メモ用紙をポケットに収め、上司の鋭い視線を回避するように廊下に飛び出る美衣。安全な所まで歩いたところで、ポケットからメモ用紙を取り出した。殴り書きで書かれた文字の様な図形の様なよく分からない内容を美衣は理解したようで、階段へと足の向きを変えた。
目的地は五階のようで、美衣は三階にあるオフィスから二階分の階段を駆け上がった。
――なんなのかな、クビにされちゃったりするのかな?
それならば上司から伝えられるのが妥当であろうが、美衣はその事に気が付かず、マイナス的なネガティブな事ばかり思考した。
タイル張りの廊下を暫く歩き、曲がるべき場所を右に曲がった。その廊下の一番奥の部屋が指定の会議室なのだが、そこに立ちはだかるように一人の男が腕を組んで壁に寄りかかっていた。
――? 誰だろう、会社の人……じゃないよね?
男は漆黒のスウェットのズボンを穿いており、上半身にはこれもまた真っ黒で無地のセーターを纏っていた。そのセーターの首元はやたら大きいタートルネックになっており、その部分が顔の下半分を隠していた。手には黒いライダーグローブが嵌められており、足にも黒い運動用シューズが履かれていた。全身を黒でコーディネートした男は肩幅と腰の幅がとても広く、手足が長かった。その手足の長さは異常と言って相違無い程であった。
何をするでもないのに自然と蜘蛛を連想してしまう容貌をした男に、美衣は若干の恐怖を覚えた。しかし足を止める言い訳にはあまりに小さな障害であると思い、美衣はそのまま進んだ。男の横を通り過ぎようとした瞬間、幼い声が聞こえた。
《カラノミイ……だね?》
「っ!?」
自分の名前が呼ばれとっさに足を止めたが、声の音源が分からず少し戸惑う。美衣は男を横目で見やったが、さすがに彼の声ではないと、そう判断した。
《反応したって事は、やっぱり君がカラノミイなんだね。梔子さん、お願い頼むよ》
おもむろに男が壁から体を離し、美衣へと近づいた。
「へ? 何ですか? あなた誰ですか?」
おろおろと後退しながら男に声を掛ける美衣であったが、さすがに身の危険を感じているようで、いつでも走り出せるように準備していた。
――会議室まで行ければ、何とかなるっ!
そう思い、会議室へと目を向けた美衣は愕然とした。
会議室から真っ白のスーツを着た男女が二人、手に黒い鉄の塊を携えて出てきたのだ。そして、内一人の女が口を開いた。
「なんやなんや。何かと思えば、梔子君。君やったんかぁ。ウチの獲物に手ぇ出さんでくれる?」
「関西弁!?」
全く場違いな声を上げる美衣を横に、梔子と呼ばれた蜘蛛男は女へと体を向けた。
《死火下さん本人がお出ましってのも乙なもんだね。そんなに必死だったとは思わなかったよ》
再び、どこから聞こえるのか分からない幼い声を耳にし、美衣はより混乱した。
――へぇぇ!? どっちに行くのが良いのかな? 普通白い方が良い者だったりするんだけどな。……多分、どっちも駄目なんですけどー!
足の速さにさほど自信が無い美衣はオフィスまで走れば逃れられるという考え自体が思い浮かばない様子でただおろおろと視線を泳がせる事しかできなかった。
すると、梔子は美衣を庇う様に死火下と呼ばれた女の前に立ちはだかった。
今にも戦闘が始まりそうなピリピリとした空気の中で死火下が口を開いた。
「やっぱ、梔子君にはヨモヤちゃんがおらんとなぁ。きゃはははは、無口キャラの梔子君は一人じゃおしゃべりもできんからなぁ」
死火下はそう言いながら、安全装置の外れた拳銃の銃口でこめかみをボリボリと掻いた。その引き金には中指が掛けられたままであった。
――変わった拳銃の持ち方するんだなぁ。
死火本が手元がよく見えるポーズを取ったせいで、美衣はそんな事を思った。
そうこうしている間に、死火下が銃をこめかみから外し美衣に向けてた。そして、引き金を引いた。
梔子は美衣をあさっての方向に押しやり、自身は死火下に向かって右へと飛びのいた。対象に当たらなかった銃弾は、窓下にある手すりに当たって甲高い音を響かせた。更に死火下が放った第二陣の二発の銃弾を、梔子はキュッキュッとバスケットボールを連想させるような音を響かせながら左右に大きくステップを踏む事でかわした。
「ちっ、やっぱ当たらんなぁ。ウチの精密射撃で当たらんちゅうんやから、そんじょそこらのもんや無いで、君ぃ。しっかしめんどいし、ウチ諦めるわ。ほな」
そう言って死火本は会議室へと戻っていった。
一人残った白づくめの男は、会議室の方向を向いて少し困った顔をしたがすぐに無表情を取り戻し、銃口を梔子に向けた。つもりだったのだが。
その時にはもう、その男の体は宙を舞っていた。
男が会議室に顔を向けている間に、梔子は男との距離を詰めており、男が銃を構える頃には豪快な突き蹴りが男の顎にヒットしていた。
普通突き蹴りと言うものは、高い位置から鳩尾や胸、腹などに決める技なのだが、梔子は上半身を極限まで後ろに反らせ、右足を自らの頭よりも高い位置まで伸ばして、突き蹴りを完成させていた。
地面にだらしなく倒れこむ男を余所目に、梔子は会議室の扉を開いたのだが、そこにはもう、誰も居なかった。
それはそうと。
いつの間にか美衣は気絶していた。
〓=〓=〓=〓=〓=〓
美衣が目を覚ますと、そこはワンボックスカーの後部座席であった。
「目、覚めた?」
例の幼い声が運転席から聞こえてきた。横になった状態のまま、バックミラーを覗くと、小さい男の子の目元が見えた。少年もバックミラー越しに美衣を見て、微笑んだ。
「ぼくはヨモヤ、よろしくね」
「ヨモヤ……?」
「日本名だけどね」
何が面白かったのか、はははっとヨモヤは笑った。
美衣は動揺して助手席に目をやって、余計動揺した。
助手席からはみ出る肩、頭。後ろから見ただけ彼、梔子だと分かるシルエット。
「ひっ!」
美衣は思わず、声を上げた。それに気付き、ヨモヤは助手席を指差しながら言った。
「あぁ、この人は梔子って言うんだ。これも日本名だけど」
なお怯える美衣にヨモヤは困ったように言った。
「梔子さんは君を助けてくれたんだよ? ここまで運んできたのもこの人だし」
――それがまずいんですけどー!
美衣が不安を恐怖に変換していると、梔子が顔を出し、美衣に向かって一礼した。それにより、美衣の恐怖値はまた一段上がった。
「ななな、何なんですか!? あなた方! 私に何の用なんですか?」
美衣は体が左へ揺れて、その車が走行中だと言う事に初めて気付く。
「うん。今から説明するよ」
「ちょっと待ってください? え? 何? どこに向かっているんですか? っていうか、免許持ってるんですか?」
一般的には的を得た、しかしこの場合少しずれた質問を耳にして、少年は力なく笑った。
「面白い事を言うんだね。まぁいいよ。それもおいおい説明する」
また車体が大きく揺れて一旦止まってから、スピードを上げた。高速度道路に乗ったようだ。
美衣はそれに気付いたようで、あたふたした。
――そんな遠くに行くの!? っていうかどうやって乗ったの!?
運転しているのが少年であるのだから、その疑問は実に妥当であった。しかし、この面々にとってはそんな事、本当に些細なことでもあった。
それじゃあ、とヨモヤが話し出した。
「まず、梔子さんの顔を見て。君の身の安心はぼくが保障する」
こんな小さな、具体的に言えば十代入りたての少年に身の安心を保障されても何の説得力も無いだろうが、美衣は何故か頷いた。
梔子が静かに後ろを向いて、美衣を正面から見つめた。そして右手で自らのネック部分に手を掛け、何の音も鳴らさずに下ろした。
人は本当に驚いた時、案外声は出ないもので、それに従い美衣も息を呑む以上の事は何もできなかった。ただ、目だけは大きく見開かれていた。
何が美衣の瞳に映ったのか。襟を下ろしたそこに一体何があったのか。梔子という男の鼻の下に何があったのか。大きく見開かれた美衣の瞳に何が映ったのか。
蜘蛛のような男、『梔子』の顔面下半分には。
何も無かった。
鼻の下の他の部分より濃い色を持った唇があるべき場所には、食道につながっていて物を食べる時に必ず必要になるその部分には、少し薄い肌色の皮膚が広がっているだけであった。
その部位だけで七十もの慣用句を作る、言わば感情を表に出す数少ない器官の一つが欠落したその顔は、『不気味』以外の何物でも無かった。
『口』が無いだけでこれまでも見た目が気持ち悪くなるのか、と美衣は心の中で思い、しかしこれを現実として受け止めているのかどうか怪しいものだとも思った。
暫くすると梔子が、もういいだろ? と言ったようにネック部分を戻し、勿論無言のまま前方を向いてしまった。美衣が唖然とする中、ヨモヤが可笑しそうに語りだした。
「まぁ何が言いたいのかって、『今この世界は変わり始めている』って事なんだよね。表社会では何も起きていないように見えるけど、というより表では何も起こってないんだけれどね。裏では違う。スコットランドで『クリスタル』がとある少年に打ち砕かれて……、まぁこんな話は意味無いよね」
面倒くさそうな口調ではあったが、ヨモヤ本人はとても楽しそうな顔をしていた。
「とにかくね、梔子さんみたいな、そういうよくわからない連中が現れ始めているんだよ。そして、君はさ、その中の一人なんだよ」
――…………
口では勿論、頭の中でも勘善に固まってしまっていた美衣は何とか思考を保とうと頑張ってはいたが、その糸口を掴み損ねてしまったようだ。
「あ、へぇ。そうなんですかー。分かりました。では、私はここらで……」
「ちょっと! 今、高速道路の上だから、梔子さん! 彼女を抑えて!」
車両のドアを開けて身を高速道路の猛風にさらす美衣の肩を梔子が身を助手席から乗り出し押さえ、なんとか車内に彼女に落ち着かせた。
「帰ります! 放して下さい!」
「だぁぁぁ! もういいや。梔子さん!」
梔子はヨモヤの声に頷き、長い腕を駆使し、なお暴れる美衣の後頭部に軽く手刀を入れた。音を付けるならば『ストン』といった所だ。美衣は一瞬白目になり、そのまま瞼を閉じつつ体を座席に投げ出した。それは勿論美衣の意志などではなく、というか、美衣は気絶していた。
さて。
一応連載とはなっていますが、どうなるかは僕にも分かりません^^;
評判によっては、すぐに更新するかもですし、その逆もあり得ます。練習なのでそういう事になるのですが、あしからず。