婚約破棄寸前令嬢の第二の人生 ~居場所を失った私を、帝国は必要としてくれるそうです~
発注ミス?
三日前に新調したばかりの姿見が、私の全身を映しきれずに途中で切れている。
幅が足りないのではない。高さだ。
背を伸ばすと、ちょうど自分の首から上がフレームから押し出されて消える。
……まあ、二メートルあればそうなるか。
体重は百キロをちょっと超えたくらいで安定している。
骨密度を測ったら、きっと恐ろしい数値が出るんだろうけれど試したことはない。
顔自体は、なんというか自分でも悪くないと思っている。
パーツの配置は整っているし、肌だって綺麗だ。
ただ、顎の真ん中に一本、グサッと縦の筋が入っている。割れ顎というやつだ。
鏡に映る自分の顎を指で撫でてみる。
かっちかちだ。
「レティシア、頼むから腕ぐみをしないでくれ。圧がすごい」
傍らのソファで、ルシアンが体を小さく丸めていた。
侯爵家の三男。
顔だけは本当に、溜息が出るくらい綺麗だ。
肌が白くって、ちょっと向こうが透けるんじゃないかと思うくらいか細い。
昔はこの「今にも折れそうな感じ」が可愛くて仕方がなかった。
守ってあげたいというか、持ち歩きたいというか。
いや、持ち歩くのは変か。
でも最近は、なんていうか……物足りない。
「ルシアン。私、甘いものが食べたい」
「……厨房に言えば? 僕が持ってきたタルトがあると思うけど」
「そうじゃなくて。こう、もっと重厚なやつ。お茶を飲みながら、横で誰かが本気で取っ組み合ってるような空間で食べる肉入りケーキ」
「それケーキの味しないよね? 血の匂いしかしないでしょ」
膝の上に置いた自分の拳を見る。
中指部分を中心に皮膚が厚くなっているのは、庭の丸太を叩き続けているからだ。
ルシアンの線の細さは魅力的。
だけど彼と結婚しても、きっと静かな屋敷で穏やかなお茶会が続くだけ……。
侯爵家の三男なんて、ぶっちゃけ将来の立場もフワフワしている。
領地を継ぐわけでもないし、軍に入る度胸もなさそうだし。
うちの男爵家に来られても、食費が増えるだけで贅沢なんてできやしない。
だったら、もういっそのこと――。
「ねえ、婚約破棄しない?」
「……は?」
ルシアンが淹れたてのお茶に手を伸ばしかけたまま、ピタリと止まった。
磁器のカップが、カチャっと小さな音を立てる。
「だから、婚約破棄。お互いのために」
「理由を聞いてもいい? 僕、なんかやらかした? 浮気とか絶対してないし、君の誕生日に花も贈ったよね」
「ううん。あなたは何も悪くない。強いて言えば……なんか、刺激が足りない」
「刺激で婚約破棄されるの!?」
声が裏返っている。
でも、本当にそうなのだ。
私は、人生で大きな花火を打ち上げたい。
ルシアンの肩を掴もうとして手を伸ばしたら、彼が本気でビクッとしたので途中で手を引いた。
あ。爪のあいだに泥が。抜き手の修行で入ったのかしら。
「言葉で説明するの、苦手なの。だから……ちょっと外出ようよ」
「やだ」
「なんで」
「絶対ろくなことにならないもん。僕を投げる気でしょ」
「投げないよ。持ち上げて軽く締めるだけ」
「それが嫌なんだよ!」
ルシアンの襟首を掴んで、そのまま半分引きずるようにして廊下へ出た。
軽すぎる。
本当にこの男は肉を食べているんだろうか。
庭に出ると、熱い風が頬を叩いた。菜園のニラが猛烈に揺れている。
……あれ?
芝生の上に、見たこともない巨大な馬車が停まっていた。
黒塗りで、金の装飾が無駄にギラギラしている。
馬車の横には、全身を鉄の鎧で固めた男たちが五人、背筋を伸ばして立っていた。
甲冑の継ぎ目から見える服の仕立てが、うちの国のものじゃない。
「……何あれ。ルシアン、うちの庭って駐車場だっけ」
「僕に聞かないでよ! うわ、帝国の紋章じゃん……なんでここに?」
甲冑のひとりが、こちらに気づいてドタドタと歩み寄ってきた。
バイザーを上げると、髭面のいかついおっさんの顔が現れる。
目が小さくて、頑固そうだ。
「貴様が、この屋敷の……いや、なんだその体躯は」
「男爵家の長女、レティシアですが。何か?」
「男爵令嬢……? これが……?」
おっさんが二度見した。
不躾だな。
私はルシアンを地面に下ろした。
足元でルシアンが「ひい」と小さく喘いで、服のシワを伸ばしている。
「あのね、おじさん。今、大事な話の途中なの。このモヤシ野郎と婚約破棄するかどうか揉めてて」
「誰がモヤシだ! ……いやモヤシだけど!」
「黙ってて。今、雰囲気作ってるんだから」
おっさんは私とルシアンを何度も往復して見比べると、
手にしていた筒から綺麗に丸められた書状を取り出した。
羊皮紙の匂いがふわっと漂う。
「……なるほど。辺境の怪力令嬢の噂は真実だったか」
「怪力って言わないで。骨格がしっかりしてるだけだから」
「よし、決まりだ。皇帝陛下の名において、貴様を『各国選抜・宗主国武闘大会』の選手に指名する」
「……はい?」
風が止まった。
芝生の上に、嫌な感じの静寂が広がる。
武闘大会……、帝国……。
あの、世界で一番広くて、一番殺伐としていて、一番金を持っている国。
「いや無理です。私、これから婚約破棄して、どっかの金持ちのイケメン捕まえて優雅にお茶とケーキとプロテインを楽しむ予定なので」
「優勝すれば、皇帝陛下が、望むものを何でも一つ下さるぞ。金でも、領地でも、地位でもだ」
「……何でも?」
頭の中で、カチリと重いギアが噛み合った感覚があった。
レバーを倒して回路が繋がる――みたいな。
優勝する。
↓
大観衆の前で、返り血を浴びた状態で表彰台に立つ。
↓
皇帝が重々しい口調で「望みを言ってみよ」と問う。
↓
そこで私が「婚約破棄と、一生遊んで暮らせるケーキ代を」と可憐に答える。
え、嘘っ……完璧だわ。
それに待って。
皇帝って確か、去年くらいに皇后を亡くしたイケオジじゃなかった?
息子の皇太子も、写真で見た限りではかなりの男前だったはず。
……この際、二人とも私のハーレムに入れちゃえばいいのでは?
玉座で、両脇に皇帝と皇太子を侍らせる自分。
二人は私の威圧感に青ざめて、震えながら紅茶を注いでいる。
で、王城の隅っこで、ルシアンが「僕の立場は!?」って泣いている。
「……フフっ」
思わず口元がゆるんだ。
ヤバい。今、私かなり気持ち悪い顔をしているかもしれない。
「レティシア……? なんか、すごく良からぬことを考えてない?」
ルシアンが半歩後ろに引いた。
「考えてないよ。すごく健全な将来設計」
「顔が全然健全じゃない! 顎がいつも以上に割れてるもん!」
「顎は元からこうなの!」
おっさんは私の反応を見て、満足そうに深く頷いている。
「うむ、覚悟が決まったようだな。大会は来月だ。すぐに出発の準備を――」
「あ、おじさん」
「なんだ?」
「このモヤシも連れてっていい?」
ルシアンを指さすと驚いたように「えっ」と声を漏らす。
「荷物持ちが必要だし。あと、向こうで寂しくなった時に、つつくと面白いから」
「僕は玩具か何かか!?」
「玩具じゃないよ。大事な、元・婚約者」
おっさんは少し考え込むように首をひねったが、
面倒くさくなったのか「好きにしろ」と短く言った。
鷹揚だな。
帝国の人間って、みんなこうなのかな。
庭の隅に、父様が使っていた鍛錬用の人形が転がっているのが目に入った。
鉄製なので雨ざらしになって錆びている。
重さはたしか、百二十キロくらいあったはず。
歩み寄って片手でひょいと持ち上げると、指先が錆で茶色くなった。
ガシャンとルシアンの足元に投げ落とす。
芝生が凹んで土が跳ねた。
「ルシアン」
「……なに」
「帝国に着くまでに、それ持てるようになって」
「死ぬよ!? 普通に腰椎が砕けて物理的に死ぬよ!?」
「大丈夫。折れたら私が直してあげる。昔、馬の骨折治したことあるから」
「人間と馬は構造が違うと思うけどっ!?」
叫ぶルシアンの首根っこを再び掴み、私は屋敷へと歩き出した。
武闘大会か。
ドレスが汚れるのは嫌だけど、まあ向こうの皇帝の奢りで新しいのを仕立てさせればいいか。
「ねえレティシア、本当に冗談だよね? 持てなくても怒らないよね?」
「怒らないよ。ただ、持ち上げるまで肉しか食わせないけど」
空を見上げると、日が傾き始めていた。
(明日から忙しくなるわ)
でもまあ、とりあえず厨房に行って残りのタルトを全部食べておこう――話はそれからよね。
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