おねえさん、俺に膝枕からの耳掃除をする
「……はい?」
「だから、お返し。耳かきしてあげるから、貸してみ」
何を貸すのか。考えるまでもない。彼女が叩いているのは、さっきまで俺が意識しないように必死に視線を逸らしていた、あの白くて滑らかな生足である。
「い、いやいやいや! いいですよそんなの! 俺が勝手にやりたくてやっただけなんで!」
「いいから。ほら」
有無を言わさない、でもどこか猫のように甘えたような響き。
いつもダルそうにしているくせに、この人は、自分のペースに他人を、いや違うな、俺を巻き込むのがひどく上手い。逆らうことができず、俺は恐る恐る、ソファの前に正座するような不格好な体勢から、彼女の太ももに頭を乗せた。
――少しひんやりとした、滑らかな素肌の感触。
だが、そのすぐ奥には生々しい血液の巡りと体温が確かにあって、俺の頭の重みを受け止めるように柔らかく沈み込んだ。
「……鈴木くん、身体ガチガチだけど」
「そ、そりゃあ……」
上から覗き込んでくる山葉さんの顔が近い。逆さまに見る彼女のタレ目は、普段より少しだけ丸く見えて、なんだかひどく可愛らしい。
だが、問題はそこだけではない。見上げているせいで、ダルダルのパーカーの襟元が重力で下がり、華奢な鎖骨のラインと、その奥の柔らかなふくらみの谷間が、暗がりの中でどうしようもなく視界に入ってしまうのだ。
「顔、めっちゃ赤い。熱あんの?」
「っ、すいません……ちょっと、部屋が暑くて」
俺の苦しい言い訳に、山葉さんは「ふふっ」と小さく笑い、綿棒をそっと俺の右耳に差し入れてきた。
「んじゃ、動かないでね」
カリッ、と。
耳の奥を優しく擦られる、背筋に電流が走るようなゾクゾクとした感覚。
他人に耳の穴という無防備な器官を委ねる恐怖と、それを上回る圧倒的な心地よさ。緊張で石のように固まっていた俺の肩の力が、その快感に抗えず、ふっと抜けてしまう。
カリ、サリ、という小さな摩擦音が、脳内に直接響く。
俺の頭が動かないように、山葉さんの左手が俺の頬に添えられている。彼女の手のひらは少し冷たくて、対照的に、俺の頭を乗せている太ももからはじわじわと熱が移ってくる。
上から降り注ぐ彼女の規則正しい吐息。ほんのりと混じる柑橘系チューハイの残り香と、洗い立ての髪からふわりと落ちてくる華やかな花の香り。そして、それらを包み込むように立ち上る、体温で温められた女の子の肌特有の瑞々しい甘さ。
五感のすべてが彼女で満たされていく。
「だいじょぶそ? 気持ちいい?」
俺の反応を見透かしたように、上から囁くような声が降ってきた。
少しだけ掠れた、夜の温度を持った声。
「あ……はい。すごく」
「キモチよさそーな顔しちゃって。ふふっ、かーわい」
からかうような、くすくすという笑い声。
生協の女神としての完璧な微笑みではなく、俺の部屋でだけ見せる、隙だらけで意地悪な素の笑顔。
心地よさと恥ずかしさ、そして『この無防備な顔を向けられているのは世界で俺だけだ』という事実が、頭の芯をぐずぐずにしていく。いっそこのまま必死に保っている理性を投げ出して、彼女の太ももの上で溶けてなくなってしまえればどれほど楽だろうか。
俺が視線を彷徨わせ、必死にパーカーの奥を見ないようにしていると、不意に、山葉さんが綿棒を動かす手を少しだけ緩め、部屋の中を見回してポツリと口を開いた。
「鈴木くんの部屋ってさ、なんか落ち着くよね」
突然の褒め言葉に、俺は一瞬戸惑った。
俺の部屋は、どこまでが本当の好きで、どこからが見栄による虚飾なのか、わからない。この間接照明も、壁のポスターも、レコードも。すべては「それっぽいやつ」だ。それも、高校生の陰キャ剣道部が考えたような。
彼女が『完璧な女神』として全学生から愛されているような人だからか、俺はつい自虐的な予防線を張ってしまう。
「えっ。あ、いや……俺、結構形から入るタイプなんで。本とかもカッコつけで読んでるってのもありますし、本当は浅いっていうか……わりと痛い奴なんですよ」
自分で言っていて、情けなくなる。でも多分、俺のことをそう評する人がいるのも事実だと思う。ただ、そもそもの話として、こんなことを素直に人に言えたのが驚きであった。
だが、山葉さんは俺の頬を撫でるように添えた手を離さず、ふっと柔らかく笑った。
「えー? 別によくね? 形からでも、実際コーヒー美味しいし。昨日作ってくれたカレーも面白かったし」
「……」
「一生懸命『いいな』って思うもの集めて、ちょっと無理して自分の城作ってさ。……そういうの、好きだよ」
――好きだよ。
その言葉が、耳の奥に残る心地よい余韻と混ざり合って、俺の脳を甘く溶かした。
俺は、何者でもない自分を隠すために、必死にサブカルチャーという鎧を着込んで武装しているのかもしれない。
だけど、この狭いの部屋の中だけでは。
ちょっと無理をした不器用で痛い俺のままでも。シークレットブーツを履くように生きていても、いいのかもしれない、少しだけそう思えた。
「ん。やっぱ鈴木くんといるとラクだわー。最初、あたしにしては素な感じでテキトーに絡んだじゃん?」
「え? ああ、そういえば、そうですね」
「普段あんなことしないし、あとから、ちょっとミスったなー。って思ったけど、結果良かったかも」
ふっ、と耳に息をかけられる。肉体的な感覚としても、精神的な感触としても、こそばゆい。そういえば、俺も疑問に感じていた点だ。
山葉さんは、外ではかなりちゃんとしている。誰に対しても礼儀正しくて明るく朗らかで笑顔が素敵だ。じゃあなんで、あの日俺にはああだったのか。それは彼女にしてもイレギュラーなことだったと知って、どこか納得した。
どんな理由かは知らないが、あの日の彼女はたまたまガードが下がっていた。そこに隣のバカがコーヒーを淹れる香りを立たせていた。多分、たまたまの偶然。
でも俺は。
「……そうですね。俺も、あのとき、コーヒー淹れててよかったと思ってます。山葉さんとこうして話せるようになって、嬉しいです」
そう口にしていた。こう言葉にしようと決めたものではない。意図せず、ただ、思ったことが漏れただけだ。
「……」
不意に、山葉さんが黙った。
「山葉さん?」
「……急に素直か。照れるじゃん」
膝枕から頭を起こして山葉さんに視線を向ける。インナーカラーの隙間から覗く耳が、驚くほど真っ赤になっている。目が細くなって、泣きほくろが垂れる夜の匂いがする、少し妖しくて、湿度がある微笑み。多分、俺しか知らない表情。
「……じゃあ、明日はまた別のコーヒー、淹れますね。店長に嫌味言われながら買った、ちょっと高いやつ」
照れてしまったことを誤魔化そうとして、俺は早口で言った。
「ん。楽しみにしてる」
反対側の耳もお願い、と言う覚悟を俺が決めるより早く、彼女は当然のように俺の頭をゆっくりと転がして、左耳へと耳かきを差し入れた。
耳の奥を撫でる優しい感触と、規則正しい彼女の呼吸。
俺はこのダラダラと生温い泥沼のような関係に、もう二度と引き返せないところまで沈み込んでいくのを感じていた。




