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7/30

おねえさん、俺のバイト先に現れる

今日のキャンパスは、五月晴れの陽気も相まって、どこか浮ついて見えた。


 大教室へ向かう並木道を歩きながら、俺はわざとらしく革の鞄を肩にかけ直し、ワイヤレスではない、あえて「有線」のイヤフォンでシティポップを聴く。


 一年という「空白」を経てここにいる俺は、現役の連中より少しだけ、自分の見え方に敏感だ。中高の六年間、防具の匂いにまみれて竹刀を振っていたモテない陰キャを、今の俺はもう思い出せない。いや、正確には思い出さないようにしている。


 ファッションユーチューバーの勧める服を着て、髪型をゆるく無造作に見えるように整え、雰囲気を作っている。


「あ、おはよう鈴木くん」


 その成果もあって、こうしてさほど親しくない女子大生も挨拶をしてくれる程度のランクにはある。


「おはよ」


 こうして、当たり障りなく穏やかな笑顔を向ける程度の器用さも身についた。


「それ、何聞いてるの?」

「コルトレーンっていう人だよ。最近結構好きでさ」


 でも俺は、本当にコルトレーンが好きなのだろうか。好きな気もするし、本当はロボットアニメのOPのほうがテンションが上がるようにも思う。


 ……どうしてこんなことを考えるかというと、昨夜、山葉さんと話しているときに、ひさしぶりの感覚があったからだ。何と言うか、恥ずかしくて、痛くて、そのままの感じ、と言うべきだろうか。


 なんとなく、山葉さんに会いたくなった。そして、今日は火曜日なので、会おうと思えばすぐ会える。

 昼時の生協。ここにいる女神のバイトのシフトは、割と多くの学生が知っている。


「いらっしゃいませ。温め、三分いただきますね」


 レジの向こう側。山葉さんは、昨夜俺の部屋でラムコークを飲んでた彼女とは、もはや別人だった。

 パステルカラーのブラウスに、揺れるプリーツスカート。彼女は二年生で、俺たち一年生にとっては一歳上の「少し遠い先輩」だが、実際にはその圧倒的な清潔感のせいで、全学生から不可侵の存在として崇められている。


「……お預かりします」


 俺の番が来た。安物のアイスコーヒーをトレイに乗せる。

 彼女の視線が俺を捉える。そこにあるのは、完璧に統制された「接客用」の瞳だ。

 だが、俺がレシートを受け取ろうとした、その一瞬。


 彼女は空いた右手の指先で、自分の左耳の付け根――髪の下に隠された、あの無骨なインダストリアルピアスがある場所――を、トントン、と二回叩いた。


 そして、レジの喧騒に紛れるほどの小さく、ぺろっと舌を出してみせる。

 俺だけに見せた、女神の仮面の綻び。


「ありがとうございました。またどうぞ」

 完璧な笑顔で見送られ、俺は背筋に走る熱を隠すように足早に生協を後にした。


※※


 夕方。俺は駅前の商店街の端にある雑貨屋兼書店『ポラリス』のカウンターにいた。新刊や古本のみならず、レコードやアンティーク調の雑貨も売っている謎の評判の店だ。


 電子書籍や通販ですべてが完結する時代に、あえて物理的な本やレコードを並べるこの店は、時代遅れの博物館のような場所だ。


 だが、この紙とインクの匂いや、独特の埃っぽい静寂は、落ち着く気がする。あと、カッコいい。


「……鈴木。その豆、お前には苦いだろ。少し焼きすぎだな」


 奥のカウンターで、店長が静かに声をかけてきた。


 五十手前、ボサボサの髪。店長は、俺が家から持参したタンブラーのなかのコーヒーの香りを鼻先でなぞり、ゆっくりと目を閉じる。


「形から入るのもいいが、自分の好みも知ったほうが楽しいぞ」

「……はい」


 店長は、俺の薄さを笑わない。ただ、もう少し先にある景色を、煙草の煙のようにふわりと示してくれる。ここは、俺にとっていいバイト先だった。色々な意味で。

 客の途絶えた店内に、古いスピーカーから流れるブルーノートの調べが満ちる。そうすると、色々なことを考えてしまう。


 そういえば、冷蔵庫の食材が今日は何もない。ドラマも、シーズン1の最終回まで見終わってしまった。


 それでも、彼女はまた来るだろうか。冷静に考えれば、来ないかもしれないと言うのが普通だ。だが、なんとなくそんな気がしなかった。


 ふと、店の自動ドアが、弱々しい音を立てて開いた。


夕闇の差し込む店内に現れたのは――ボディラインを上品に拾うアイボリーのリブニットに、足元で軽やかに透ける長めのチュールスカート。ゆるくハーフアップにまとめられた、艶やかな髪。


 昼間の生協で見た、完璧な『女神』そのものだった。古本とコーヒーの匂いが漂う、時代に取り残されたこの空間に、彼女の清潔感はひどく場違いで、だからこそ強烈に目を引いた。


 奥にいた店長でさえ、一瞬だけ棚を整理する手を止めたのがわかった。


 山葉さんは、凛とした足取りで海外文学のコーナーへと向かう。迷いなく棚を巡り、一冊の古本を手に取った。


 それは、昨夜シットコムを観ながら、最近珍しく本当に読んで、そのうえで熱くウザく語ってしまった、「絶版になっている、九〇年代のカルトなドイツ文学の文庫本」だった。もし彼女が来るなら目に留まるかもしれないと、密かに目立つ場所に面陳列しておいたやつだ。


 トントン、とカウンターを指で叩く音が響く。


「……お願いします」

 たおやかで、清涼感のある声。


 俺は緊張で指先が凍りつきそうになりながらも、平静を装って裏表紙のバーコードをスキャンした。


「……六百五十円です」

「はい」

 小銭をトレイに乗せる時、彼女がふっと身を乗り出してきた。


 柔軟剤の、清潔でいい匂いがする。だが、その奥に昨夜の生温かい記憶がフラッシュバックして、俺の喉はカラカラになった。


「これ、昨日の話のやつだよね」


 女神の微笑みを貼り付けたまま、極限までボリュームを落とした囁き声。


「……はい。見つけやすいようにしといたんで」


 俺も、レジの下のストックを確認するふりをして、小声で応える。

「ありがと。……なんか、ここだと別人みたいだね。鈴木くん」


「……そっちこそ」


 彼女は少しだけ楽しそうに目を細めると、紙袋に入った本を受け取った。


「あ。これ、ついでに」

 彼女がポケットから取り出し、カウンターに置いたのは、一枚の割引クーポン――ではなく、見覚えのある、あの三十円のチョコ棒の包み紙だった。


「あ、あの、山葉さん。これは……」

「新商品。美味しかったから。……また夜にね」


 山葉さんはそれだけ言い残すと、流れるような動作で店を後にした。


 残されたのは、古びたカウンターの上の安っぽい駄菓子と、じっとりと汗ばんだ掌を持て余して立ち尽くす俺だけだった。


 奥から店長がのっそりと顔を出す。


「今の、すげえ美人だったな。お前の彼女か?」


 そんなわけないということくらいわかりそうなもんだろ、と思う。


「……いえ、ただの大学の先輩です」


 俺は、チョコ棒の包み紙をそっとポケットに隠し、昨夜と同じ熱を帯びているのを自覚した。女神が俺のテリトリーに現れた。



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