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おねえさん、カレーとストゼロをキメる

 俺は狭い自室で、明らかなパニック状態に陥っていた。


 キッチンの換気扇が、ゴーゴーと虚しく空気を吸い込んでいる。

 俺の部屋は、一浪して大学デビューを飾った俺の「自意識の城」だ。壁際には中古で買ったプロジェクターが鎮座し、本棚にはいずれ読む予定のフランス文学の文庫本が『計算された無造作さ』で並んでいる。


 そんな部屋に漂う、暴力的なまでのスパイスの香り。


「……俺は、お洒落でこだわりの自炊もこなす料理男子。スパイスの調合は趣味の一つ……」

 無地のカフェエプロンまで着込んだ自分を正当化するため、ブツブツと呟きながらフライパンを揺する。


 カルディで買い集めたスパイスの瓶――クミン、コリアンダー、ターメリック――を並べ、オリーブオイルにホールスパイスを落として弱火でじっくりと香りを引き出していく。玉ねぎは当然、飴色になるまで炒めた。


 どう考えても異常だ。隣に住む生協のレジのお姉さんが「タンブラーを返しに来る」というだけで、なぜ俺はガチのスパイスカレーを仕込んでいるのか。


 もちろん、夕食のついでではある。だが本音を言えば、『不意の来客に対しても、普段から凝った手料理を作っているお洒落な俺』という状況を演出したかったからに他ならない。


 隣の山葉さんが来るタイミングを狙ってこんなものを仕込んでいるわけだが、もしこの痛々しさが人に知られたら、俺は恥ずかしさのあまりこのカレーを頭から被って実家に逃げ帰るだろう。


 そんな俺の空回りを嘲笑うように、ピンポーン、と無機質なチャイムが鳴った。

 心臓が跳ね上がる。


 一度、銀色のボウルに映る自分の顔をチェックする。ゆるいパーマをかけたセンターパートの髪は乱れていないか。よし。俺は精一杯の「料理をしていたら偶然、客が来た」というていを作り、ドアを開けた。


「ちわ」


 そこに立っていたのは、昼間の『完璧な女神』とは似ても似つかない、相変わらずのダウナーなねえちゃんだった。


 ヨレヨレのオーバーサイズのフーディ。その下のタンクトップからのぞく鎖骨。短いスウェットパンツから伸びる生足は、廊下の薄暗い蛍光灯の下でやけに白く発光して見える。


「夜分にどーも。はい、これ返すね。ありがと」


 山葉さんは玄関先に立ったまま、レジ袋から取り出した保温タンブラーを差し出した。綺麗に洗われ、水滴一つついていない。


「あ、わざわざすいません」

「いいよ。……てかさ」


 山葉さんが、くんくんと猫のように鼻を鳴らした。


「ドア開けた瞬間からめっちゃいい匂いしてんだけど。鈴木くん、何作ってんの? カレー?」


「あ、えっと……はい」

「インド人住んでるのかと思った」


 山葉さんは、小首を少しだけ傾けて、ちらりと俺の部屋の奥に視線を向けた。考えてみれば、お隣と間取りは同じなわけで、キッチンの位置も知っているわけだ。


 パーカーの襟元がだらしなく崩れ、華奢な鎖骨のラインが露わになる。


 きゅう。


 不意に、妙に可愛らしい音が聞こえた。それが、山葉さんの腹の音だと気づくのに数秒を要した。


「………聞こえなかったことにしようか」

 そう言って俯いている山葉さんは、ほんの少しだけ頬を赤くしていた。今目の前にいるダルそうな彼女とも、生協の女神の素敵な笑顔とも違っていて、なんだか隙だらけに見える。


 ふと、俺の中に変な勇気が湧いた。


「あの……山葉さん。もしよければ、食べていきます? ちょうど、できたところなんで」

「え……でも、悪いし」


「いや、いいんです。一人じゃ食べきれないくらい作っちゃったんで。……それに、正直誰かに食べてみてほしいってのがあります」


 これも本音だ。意識の高いカレーを一人で作って一人で食べる。これはこれで楽しいのだが、俺は一体何をやっているのか、とも思うし、このカレーは他人からするとどう感じるものなのかも聞いてみたい。


 ただ同時に、俺は何をいきなりアグレッシブなことを、という後悔の念もある。人間は意外と一瞬でいろんなことを考えるものである。


 それは山葉さんも同様だったのか、すこしだけ躊躇うような素振りを見せたが、やがて「んー……」と物憂げに視線を彷徨わせた後、ふっと口角を上げた。


「……じゃあ、お言葉に甘えよっかな。ちょうど、コンビニ行くのめんどかったし。……この際だし」


 この際、というのがどの際なのかはわからない。昨日のヤケクソの延長なのだろうか。でも、とりあえず。


 どうぞ、と言う俺の言葉に、おじゃまします、と小さく答えた彼女は玄関でサンダルを脱ぐと、「城」へと足を踏み入れた。


 ミッドセンチュリー風を意識し、プロジェクターや英字のポスターが並ぶ室内を、彼女は珍しそうに、興味があるのかないのか分からない気の抜けた眼差しで眺める。


「鈴木くんの部屋、なんか……こだわってんね。カフェっぽ」

「あ、まあ、趣味なんで」


 嘘だ。いや完全に嘘でもないが、どちらかというと、これは武装だ。ただ、精一杯の武装は、自分が頑張って作っている自分の外側だ。知らなかったが、それを褒められると、嬉しいらしい。


 そんな感情を悟られるのもダサいので、俺は逃げるようにキッチンへ戻り、皿にターメリックライスとカレーを盛り付けた。


 ローテーブルに向かい合い、二人の食事が始まる。


 山葉さんは、飲んでいい? と俺に確認をしたあと、一度帰った自室から持参したストロングゼロをプシュッと開け、俺の作ったカレーを前に手をあわせた。

 俺は自分のスプーンを握ったまま、彼女の反応を待つ。


「いただきます」


 山葉さんはスプーンでカレーを掬うと、美しい所作ながらためらいなく口に運んだ。

 固唾をのむ。形から入ったとはいえ、動画を何度も見て研究したレシピだ。不味くはないはずだが、万人受けするかと言われると自信がない。


「……ん」


 山葉さんは数回咀嚼した後、少しだけ首を傾げた。


「なにこれ。食べたことない味。本格的なん?」

「あ、はい……一応、スパイスから調合してて……」

「へー。すごいね。面白い。スパイス? のザラザラした感じとか、後からくる熱いのとか……。なんか、鈴木くんっぽいのかな」


 山葉さんはクスッと笑って、もう一口カレーを口に運んだ。


「こういうの、あたし好きかも」


 それは「美味しい」という味覚への単純な賛辞ではなく、俺のこのひどく面倒くさいこだわりや、意味のないかもしれないカッコつけに対する「面白さ」への肯定だった。


「……それなら、良かったです」


「あたし、カレーとかいつもボンカレーチンして終わりだからさ。なんか新鮮」


 そう言って、彼女はストゼロをあおる。


 正直に言えば、俺だって普段はレトルトのボンカレーの方が馴染みがあって美味いと思っている。だが、こうしてわざわざスパイスを買い集め、時間をかけて調合する無駄な手間が『自分を特別なものにしてくれるような気がして楽しい』という感覚は、確かにあったのだ。痛い、とは自覚してるし、ネットの住民には意識高い(笑)とされそうでもあるが、たしかに楽しい。


 俺のそういう「痛い武装」を、彼女は馬鹿にするでも、「美味しい」と適当におだてるでもなく、あっさりと「新鮮で面白い」と受け入れてくれた。


 決して絶品ではないはずのカレーが、彼女のペースで消費されていく。合間にストゼロが煽られる。そのちぐはぐな光景を眺めているだけで、俺の胸の奥の満たされない何かが、静かに埋まっていくような気がした。


 彼女はそのまま、無造作にお団子にまとめた髪を揺らしながら、パクパクとカレーを食べ進めていく。ストゼロを煽り、唇を湿らせる彼女の横顔を、俺は直視できなかった。


 意外なほど、いや、生協の姿であれば想像通りに綺麗な食事作法でカレーはぺろりとなくなった。


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