おねえさん、俺を変態呼ばわりする
すみません…6/7の投稿ですが、下書きからの投稿順を間違えました。
今は訂正済なのですが、31話と32話を逆にしてました…6/7夜から6/8夕方までに読まれた方は、本来の31話を飛ばして読まれてしまっていると思います…
食後の食器をシンクに下げ、俺はケトルに火をかけた。
換気扇の回る音が、静かな部屋に低く響く。
ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、細口のケトルからゆっくりとお湯を落としていく。コーヒー粉がふっくらと膨らみ、香ばしい匂いが味噌汁の残り香を優しく上書きしていった。
マグカップを二つ用意し、一つにはたっぷりとミルクと砂糖を入れる。
「お待たせしました」
「んー。ありがと」
ローテーブルの前に戻ると、山葉さんはいつものようにクッションを抱え込み、少しだらしない姿勢で座っていた。俺の大きすぎる黒Tシャツから伸びる白い足が、朝の光に照らされている。マグカップを両手で包み込み、ふー、と息を吹きかけてから一口飲む姿は、ひどく無防備だった。
俺も自分のブラックコーヒーに口をつけた。
窓の外の陽射しは、すっかり高くなっている。たっぷりと寝たせいか、あるいは昨夜のアルコールと一緒に何か重たいものを吐き出したせいか、不思議と頭はクリアだった。
静かで、ゆったりとした朝の時間が流れる。
……というか、これ、客観的に見たら完全に『事後』の翌朝のモーニングコーヒーなんじゃないだろうか。
もちろん、実際には一線など越えておらず、ただ同じ布団で添い寝をして朝を迎えただけだ。だが、部屋に漂うこの妙に生活感のある生温かい空気と昨夜の余韻が、俺の自意識をどうしようもなく刺激してくる。
だが、そんな俺の内心の焦りをよそに流れていた穏やかな空気を、テーブルの上の小さなプラスチックの塊が微かな振動で切り裂いた。
ブブッ。
山葉さんのスマホの画面が明るくなる。
彼女はマグカップから口を離し、視線を落とした。
その瞬間、彼女のタレ目気味の三白眼から、さっきまでの柔らかい朝の光がスッと消え失せたのがわかった。
「……あー、めんどくさいなー」
マグカップをコトリとテーブルに置き、山葉さんは深くため息をついた。
「どうかしたんですか?」
「今日さ、四限終わったあとに、またあの上井から誘い来てて。なんか学食前のベンチに来てよ、とか。絶対だるいやつじゃん」
上井先輩。この間、学食で無遠慮に話しかけてきた、あの体の大きな『ウェイ先輩』だ。
「断ればいいじゃないですか。適当な理由つけて」
「それができたら苦労しないって。今までも『体調悪くて』とか『バイト入っちゃって』とか送って躱してきたけど、そろそろ言い訳考えるのもしんどいし……」
山葉さんはスマホを裏返しにし、その上から手のひらでバンと軽く叩いた。
面倒くさいと言いながらも、彼女はその『面倒な関係』を完全に断ち切ることを諦めているようだった。外の世界で、誰にでも愛想の良い『生協の女神』であり続けるために。
俺はコーヒーの黒い水面を見つめながら、昨夜の暗闇の中で感じた、柔らかな重みと規則正しい寝息を思い出した。
俺の腕の中で、あんなに無防備に、安心して眠っていた彼女。
それを思い出すと、無理に重たい鎧なんて着続けずに、外の世界でももっと彼女自身の好きなように、自由に息をしてほしいという思いが静かに湧き上がってきたのだ。
「あの、山葉さん」
俺はマグカップを置き、まっすぐに彼女を見た。昨日寝落ちする前に思いついた提案をする。
「だったら、もうハッキリ『興味ないから誘うな』って、乗らない意思を伝えればいいじゃないですか」
「えー……さすがにそれは角が立たん? ほら、大学でのあたしのキャラと合わないしさ」
山葉さんが困ったように眉尻を下げる。
「じゃあ、いっそ素の姿で行って、バシッと言ってくればいいんですよ」
「……素の姿?」
「この前の、ロックな感じのやつです。インナーカラー出して、ピアスがバチボコで、メイクも強くてきれいで、ライダース着てたやつ。あれで待ち合わせ場所に行って、がっつり振ってくるんです。俺でもちょっと圧を感じたくらいだから、一発ですよ多分」
俺の提案に、山葉さんはきょとんと瞬きをした。
「あのウェイ先輩って人、なんだかんだプライド高そうだったし、仮にそんな風に振られたとしても、周りに言いふらしたりしないんじゃないですか。それに、万が一言ったとしても……普段の山葉さんを知ってる周りの連中は、誰も信じないですよ。……ずっとあの姿でいろとは言いませんけど、たまには、いいじゃないですか。そういうの」
言ってしまってから、少し踏み込みすぎただろうか、と一瞬だけ息を呑んだ。彼女が必死に守ってきた『仮面』に自らヒビを入れろと言っているようなものだ。
でも、不思議と後悔はなかった。むしろ、今まで言えなかった本音をぶつけられて、少しすがすがしいような気分だった。
案の定、山葉さんは「うーん」と唸り、視線を泳がせた。
彼女は抱えていたクッションに顎を乗せ、指先でその縁を無意識にいじり始めた。
「あたしって『正露丸糖衣A』なんだよね」
「……胃腸薬の?」
「そ。甘く包んでないと誰も飲まないよ、黒くて苦くて変な味で」
山葉さんは自嘲するように、ふっ、と短く鼻を鳴らした。
ぽつり、と漏らした比喩。でもそれは彼女の深いところから零れたもの。そんなことくらい、わかる。
俺は、何も言わずに自分のマグカップを手に取った。
少しだけぬるくなったコーヒーを喉の奥に流し込み、カップを置く。
「俺は、正露丸、好きですよ」
深く考えなくても、知っているカルチャーの知識や文学的な表現を思い出さなくても、自然と言葉が出ていた。唇が、勝手に動いていく。
「痛さに効くし。……それに、前にそういう味のウイスキー、飲んだじゃないですか。俺は美味しいと思いました」
俺の言葉に山葉さんが弾かれたように顔を上げた。少しだけ目を見開いたまま、瞬きもせずに俺を見つめていた。
数秒の、深い沈黙。
やがて、その瞳に、じんわりと柔らかい水面のような光が広がっていく。
彼女は小さく息を吸い込み、きゅっと、微かに唇を噛み締めた。
「そっか。鈴木くん、通という名の変態だもんね」
ふにゃりと、唇の端が綻んだ。
からかうような言葉とは裏腹に、その声は微かに潤んで震えているようにも聞こえた。
彼女は両手で顔を覆い、大きく深呼吸を一つした。
そして、次に顔を上げた時、そこにはもう迷いの影はなかった。代わりに、朝の光に透けるような、悪戯っぽくて、思わず息を呑むほどに澄み切った笑みが浮かんでいた。
単純な表現になるけど、とても綺麗だった。
「じゃあさ。鈴木くんも、こっそり見てなよ」
「えっ? 俺もですか?」
「そ。何食わぬ顔してその辺にいといてさ。あたしがバチクソに振るとこ、特等席で見せてあげる」
山葉さんは身を乗り出し、俺の顔を覗き込むようにしてにっこりと笑った。
「だから、近くにいて」
悪ふざけのように響くその言葉の最後に、ほんのわずかだけ混ざった、微かな震え。
俺は、どうしようもなくざわつく胸の奥を誤魔化すように、わざとらしくため息をついてみせた。
「……わかりました。見届けますよ」
俺の答えを聞いて、山葉さんは満足そうに目を細め、残っていた甘いコーヒーを一気に飲み干した。
そして、空になったマグカップをコトリとテーブルに置くと、不意にふっと吹き出した。
「……ってか、ウェイ先輩って」
「え?」
「鈴木くん、さっき上井のことナチュラルにそう呼んでたじゃん。ひそかにそんなあだ名付けてたわけ?」
「あ……いや、まあ、つい」
「ピッタリ過ぎてマジでウケるわ。ウェイ先輩。ウェーイ」
山葉さんは小文字のWが語尾に重ねてつくような声を上げて笑い、クッションに顔を押し付けた。俺も笑った。それにしてもウェーイ、ってちょっと古いよな、とか思って、それもまたなんか面白くなってくる。
少しだけ肩の力が抜けたその笑い声が、初夏の眩しい朝の空気に心地よく溶けていった。




