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おねえさん、テーブルの下でこっそり悪戯してくる

 指先に染み付いた専用クリーナーの微かなハッカの匂いも、夜が明ける頃にはすっかり消え去っていた。


太陽が昇り、大学の敷地に足を踏み入れれば、俺たちはまた、見えない分厚いガラスで隔てられた「ただの先輩と後輩」に逆戻りする。密室でのあの無防備な顔や、すり寄るような熱を帯びた吐息が、まるで俺の痛い自意識が見せた幻だったかのように。


なのに夜になると、また二人でダラダラする。何か食べたり、飲んだり、ゲームをしたり。もうシーズン9まで進んだ例のドラマを見たり。


そのたびに幻じゃないし、と囁かれる気がした。


そんな、奇妙な関係性の答え合わせもできないまま迎えた数日後の昼下がり。


 昼休みの学食は、2限目のチャイムが鳴り終わると同時に、まるで堰を切ったように学生たちで溢れかえる。


 無数の話し声と食器の触れ合う音が反響し、安っぽいカツカレーやうどんの匂いが充満する、ひどく騒々しくて無機質な空間。


 俺は運よく確保できた窓際の四人掛けテーブルに一人で座り、薄いプラスチックのトレイに乗った日替わりランチを黙々と口に運んでいた。


 ふと、入り口付近が少しだけざわついたのを感じて顔を上げる。


 人混みを掻き分けるようにして歩いてくる女子学生の姿に、周囲の視線が自然と吸い寄せられていた。

 淡い色のカーディガンに、清楚なミモレ丈のスカート。すれ違う知人に朗らかな声で挨拶を返し、誰にでも明るく愛想のいい微笑みを振りまく、大学の『生協の女神』。山葉さんだった。


 その後ろには、盆を持った同級生の本田が、まるでアイドルの熱狂的ファンのようにホクホク顔で付き従っている。どうやら同じ生協のバイトであることを口実に、「憧れの山葉先輩」をランチに連れ出すことに成功したらしい。そう言えば前から挑戦を続けていると言っていたことを思い出す。


 席を探してきょろきょろと見回していた山葉さんと、ふいに視線がぶつかった。


 彼女は一瞬だけ目を丸くした後、すぐに柔らかな『女神の笑顔』を貼り付けて、俺のテーブルの方へと歩み寄ってきた。



「あそこ、空いてるよ」


 山葉さんが指差した先――つまり俺の向かいの席を見て、本田の顔が露骨に渋く歪む。


「えー? 鈴木のとこですかぁ……」


 せっかく憧れの先輩を独占できると思ったのだろう。だが、女神の提案を無下にすることもできず、本田はしぶしぶといった様子で俺の向かいにトレイを置いた。


 山葉さんは俺の斜め向かいに腰を下ろすと、少し首を傾げて、さも『この前の飲み会で少し話しただけの相手』であるかのように丁寧に口を開いた。


「……鈴木くん、だよね。この前の飲み会はお疲れ様。相席いいかな?」


 昨夜、俺の部屋のソファで胡坐をかき、無防備にピアスホールをかき回させていた人と同一人物だとは到底思えない、完璧なよそ行きの声だった。


 俺も慌てて「あ、はい。お疲れ様です。どうぞ」と、ただの少し顔見知りになった程度の後輩を装って頭を下げる。


「先輩、鈴木とそんなに話す仲でしたっけ?」


 本田が、自分以外の誰かに先輩の意識が向いたのが気に入らないのか、少し不満げに口を挟んできた。

「ううん、この前は少し挨拶したくらいだけど。でも、生協でもよく見かけてたから。ね?」


 山葉さんは、本田の手前、あくまで「顔見知りの後輩」への接客スマイルを崩さない。


「あ、いえ……俺も、いつも生協でお見かけしてましたし」


「へえ……。あ、先輩、そういえば今日の講義のレポート課題って――」


 本田が必死に自分の方へ気を引こうと話題を振る。山葉さんは「あー、あれね。結構難しかったよね」と本田に愛想よく相槌を打ちながらも、ふと俺の方に視線を向けた。


「そういえば、鈴木くんって一人暮らし? いつもお弁当とか買ってないみたいだけど、自炊とかするの?」


 本田を蔑ろにせず、同席している俺にも自然に話を振る。いかにも気配りのできる『女神』らしい完璧な対応だ。俺の生活スタイルなど知り尽くしているくせに、よくもまあそんな白々しい声が出せるものだ。純粋にすごいと思う。


「あー……まあ、適当に。たまにパスタ茹でたりとか……」


「えっ、鈴木自炊すんの? マメじゃん。あたしなんか毎日コンビニか学食ですよ。先輩は料理とかするんですか?」


 本田が身を乗り出して尋ねると、山葉さんは「うーん、簡単なものならね」と微笑んだ。山葉さんの料理は何度もごちそうになっているが、確かに簡単そうなものをパパッと作ることが多い。なのに普通に美味い。


「でも最近は、人が作ってくれたご飯の方が美味しいかもって思っちゃうな」


 その言葉に、俺は思わずむせそうになった。昨夜、俺の部屋で俺がスキレットで気取って作ったアヒージョをつつき、本を読んで作ってみたサングリアで酔ったことを思い出し、一人で面白がっているに違いない。彼女の瞳の奥が、ほんの一瞬だけ、からかうように細められた気がした。


言葉の代わりに飛んできたのは、物理的な不意打ちだった。白日の下から隠されたテーブルの下で、ミュールの硬いつま先が俺の足首にツンッと触れる。


「んっ……」


 変な声が出そうになるのを、慌てて咳払いで誤魔化す。


 テーブルの上では、再び本田が「先輩、今度すっごく美味しいカフェ見つけたんで、一緒に行きませんか?」などと必死に話題を振っている。山葉さんは「ふふ、機会があったらね」と、完璧な笑顔で相槌を打っている。


 だが、俺の視界の端に映る彼女の口角は、ほんのわずかだけ、悪戯っぽく歪んでいた。


 ツン、ツン。


 今度は、スネのあたりをミュールの裏で軽く撫で上げられる。


 周囲には何十人もの学生がいて、すぐ目の前には本田がいる。そんな白日の下で、俺と山葉さんだけが、テーブルという壁一枚を隔ててくすぐったい接触を繰り返している。


 いやマジで何やってんだこの人。


 数日前、密室の中で嗅いだあの重たい香水の匂いが、フラッシュバックのように脳裏に蘇る。白日の下、誰の目にも触れないテーブルの下の暗がりだけで、俺たちだけが夜の続きをなぞっている。そんな共犯者のような甘いスリルに、背中に汗がつたう。


 テーブルの上では本田の他愛ないおしゃべりが続き、俺は必死にポーカーフェイスを保ちながら、味がよくわからなくなった日替わりランチを機械的に胃に流し込んでいた。


足元で気まぐれに繰り返される柔らかな刺激が、時折鼓動を跳ねさせる。


そんな神経をゴリゴリとすり減らすような秘密の時間がようやく終わりを見せ始め、食事も後半に差し掛かった頃だった。


 通路を歩いてきた見覚えのある大柄な男が、不躾に俺たちのテーブルの横で立ち止まった。


「あ、山葉ちゃんじゃん! 今日は学食でご飯?」


 先日の飲み会で幹事をやっていて、昨夜、俺の部屋でゲームをしていた山葉さんのスマホにメッセージを送ってきた、あのやたらと距離感の近い、山葉さんと同じ二年生の――俺が密かに心の中で『ウェイ先輩』と呼んでいる男だった。ちなみに本名は上井さんと言う。


 男が馴れ馴れしく声をかけた瞬間、山葉さんの瞳から一瞬だけ、スッと光が消えた。数日前、自室で見たあの「ウンザリした凪の表情」だ。


 だが、それはほんの一瞬のことで。


「あ、お疲れ様です」


 次の瞬間には、彼女の顔には寸分の狂いもない『女神の笑顔』が張り付いていた。


「ねぇ、今度の日曜さ、二人で映画でもどう? 話題のやつ見に行こうよ」


 周囲の目も憚らず、無遠慮な声で男が誘いをかける。あの強気な本田でさえ、一瞬圧倒されて黙るほどの手慣れたムーブだ。


「お誘いありがとうございます。……でも、まだちょっと予定が分からなくて」


 山葉さんは声のトーンをわずかに上げ、申し訳なさそうに眉を下げて見せた。誰も傷つけず、しかし確実に踏み込ませない、完璧な模範解答。


 ウェイ先輩は「そっかー、じゃあまたメッセするわ!」と軽く手を振って立ち去っていった。


 残されたテーブルには、微妙な空気が漂う。本田は「あの人、いつもあんな感じなんですか?」と少し引いたように聞いている。山葉さんは「うーん、まあね」とだけ言って、冷めたお茶をすすった。


 テーブルの下で、俺の足に触れていた彼女の靴の感触は、いつの間にか消えていた。


 目の前には、本田の他愛ない話に愛想よく相槌を打つ『女神』がいる。俺の部屋のクッションに顔を埋め、不機嫌に唇を尖らせていた彼女は、もうここにはいない。


 隙のない綺麗な作り笑いを見ていると、なんだかこちらまで少し息苦しくなってくる。


 本当は今すぐ、あんな重たい仮面なんて外してしまいたいんじゃないだろうか。そんな根拠のない想像と、ほんの少しの居心地の悪さを誤魔化すように、俺は冷たくなったグラスの水を一気に飲み干した。


お伝え忘れてましたが、カクヨムでも連載してます。タイミングの兼ね合いで、カクヨムのほうが2〜3話くらい先の話まで更新してますが、内容はだいたい同じです





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