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おねえさん、俺と並んでベッドに寝転がる

昼間のあの一件から、どうにも胸の奥に居座った得体の知れないモヤモヤが消えなかった。


 彼女があの先輩に向けていた笑顔が、ただの『処世術』であることくらい、俺はわかっている。彼女が外の世界で「生協の女神」を演じていることは、最初から知っていたはずだ。


 だけど、あの完璧な笑顔を他の男に向けられているのを遠くから見ていた時、なぜだか無性に面白くないと感じてしまった。


 俺は彼女の素顔を知っている。ダル着でストゼロを煽り、力の抜けた顔で笑う隙だらけの姿を知っている。そんな下らない優越感でやり過ごそうとしても、どうしても胸の奥のざわつきは収まらない。


 それが『嫉妬』だとか『独占欲』だとか、そんな大層な名前をつけるのもおこがましくて、俺はこの感情をどう処理していいのかわわからずにいた。


 自室のローテーブルに向かい、気を紛らわそうと文庫本を開く。


本棚に『計算された無造作さ』で飾ってカッコつけていただけで、ずっと「いずれ読む予定」のまま放置されていたフランス文学だ。山葉さんが俺の勧めた本をちゃんと読んでくれたことに触発されて、ついに自分もページをめくってみようと思ったのだが、活字はただの記号の羅列となって滑り落ちていくだけで、全く頭に入ってこない。



 窓の外が、急に暗くなった。


 ポツ、ポツとガラスを叩く音がしたかと思うと、瞬く間に激しい雨音に変わった。アスファルトの匂いが、網戸越しにむっと立ち込める。


 不意に、雨音を切り裂くように無機質なチャイムが部屋に響いた。


 時計を見ると、まだ夕方の五時を過ぎたばかりだ。山葉さんが来るには早すぎるし、今日はそんな約束もしていない。


 訝しみながらドアを開けると、そこには、信じられないほどずぶ濡れになった山葉さんが立っていた。


「ちわ」


オフホワイトのサマーニットはたっぷりと雨水を吸って重たげに肌に張り付き、濡れて透けた編み目の向こうには、下着の淡いレースの輪郭や滑らかな素肌の質感がなまめかしく浮き出ている。


丁寧に巻かれていたはずの髪は束になってぺったりと首筋に張り付き、そこから滴る水滴が、雨の冷たさでほんのりと赤みを帯びた白い鎖骨へとツーッと滑り落ちていった。


 濡れた肌から立ち上る微かな体温が、雨の匂いと混ざり合って、むせ返るような生々しさを放っている。


 着ているのは昼間に大学で見かけたのと同じ服のはずなのに、完璧な『女神』の面影はどこにもない。その顔に浮かんでいるのは愛想の良い作り笑いなどではなく、いつもの半分閉じたようなジト目だった。


「えっ、山葉さん!? なんでそんなずぶ濡れで……」


「いやー、いきなり降ってきちゃってさ。おまけにどっかで鍵落としたっぽくて、今大家さん連絡待ち」


山葉さんはずぶ濡れのまま、「やっちまった」とばかりに小さく肩をすくめ、へらっと気の抜けた笑みをこぼした。まあまあな惨状だというのに、その佇まいから焦りや悲壮感は微塵も感じられない。


 外の世界の『女神』の服装のまま、表情だけが俺の知っている『ダウナーなオフモード』になっている。その奇妙なアンバランスさと、見上げられた時の圧倒的な無防備さに、昼間から抱えていたモヤモヤが、ちょっとどこかに行った。


「大家さん来るまで、避難してもい?」


「っ、早く入ってください! 風邪引きますよ!」


 俺は慌てて彼女の腕を引き、部屋の中へ招き入れた。


 洗面所からバスタオルを二枚引っ張り出してきて、彼女の頭からバサリと被せる。


「とりあえず、これで拭いてください。……着替え、俺の服でよければ貸しますから」


「彼シャツじゃん。ウケる」


「彼氏じゃないですし、ただのデカいTシャツですっ。ほら、風邪引くから」


 タオル越しの笑い声。俺は視線のやり場に困りながら、クローゼットを漁った。俺の服の中でも一番大きめの、黒いバンドTシャツと、適当なハーフパンツを取り出す。


「これ、置いておきます。俺、ちょっとベランダの方見てるんで、着替えてください」


「いやん、鈴木くんのえっち」


「だから見ないですって!」


「だよねー。わかってる」


 くすくすと笑う山葉さんに俺が背を向けると、背中越しに衣類が擦れる微かな音が聞こえてきた。


雨音に混じっても鮮明なその音に、俺は必死に耳を塞ぎたくなった。変な想像をするなと自意識にブレーキをかけるが、先ほど一瞬だけ見えた、雨に透けたサマーニット越しの肌の白さが脳裏に焼き付いて離れない。


「……着替えたよー。ん、なんか鈴木くんの匂いする」


「だから変なこと言わないでくださいって……っ」


 振り向くと、そこには俺の予想を遥かに超える破壊力を持った彼女がいた。


俺の呼吸は一瞬止まりかけた。


「デカすぎ。ワンピースみたいになってるんだけど」

 俺のバンドTシャツを着た山葉さんは、照れ隠しのように裾を引っ張って笑った。


 元々大きめサイズのTシャツは、華奢な彼女が着ると完全に肩のラインが落ち、首元からは白い鎖骨が露わになっていた。裾が長すぎて下にはいたハーフパンツは完全に隠れてしまい、まるで下を穿いていないように見える。


 Tシャツの裾から伸びる、白くて長い生足。


 濡れた髪をタオルで無造作に拭きながら、彼女は小さくくしゃみをした。


「……ドライヤー、使います?」


「んー、自然乾燥でいいや。でも、ちょっと寒いっす」


 山葉さんはそう言うと、いつものソファではなく、俺のベッドの縁にペタンと座り込んだ。


 俺は慌ててエアコンの温度を上げ、温かい紅茶を淹れて彼女に差し出した。茶葉は前に彼女が好きだと言っていたマルコ・ポーロを一応選んでみる。


「大家さん、いつ頃来れるんですか?」


「一時間くらいかかるってさ。……あれ、鈴木くん本読んでたん?」


 山葉さんはマグカップを両手で包み込みながら、ローテーブルの上に放り出された文庫本に目を向けた。


「あ、いや、全然頭に入ってこなかったんでいいんです。……ちょっと、難しすぎて」


「ふーん。どれ? あたしにも見せてよ」


 俺が文庫本を手渡すと、山葉さんはマグカップをサイドテーブルに置き、俺のベッドの上にゴロンとうつ伏せに寝転がった。


 大きすぎるTシャツの裾がめくれ上がり、無防備な白い生足がシーツの上に投げ出される。俺は慌てて視線を逸らしたが、彼女は気にする素振りもなくパラパラとページをめくり始めた。


「……『不条理な現実に直面した時、男は己の影すらも愛することを拒絶した』……なにこれ。全然頭に入ってこないんだけど」


 音読する山葉さんの声が、硬く芝居かかっていて少し面白かった、


「ですよね。俺も、雰囲気で読んでるだけで、三行前になに書いてあったかもう忘れてます」


 俺の答えに、山葉さんはケラケラと声を上げて笑った。


「鈴木くん、よくこんなの読んでんね」


「カッコつけですから。でも、たまに、すごく綺麗な言葉があったりするんですよ」


 そんなやり取りをしながら、彼女は適当にページをめくっていたが、不意にその手が止まった。


「……あ。ねえ鈴木くん、ここ」


 ベッドの上から手招きされる。さすがにベッドの上に並んで寝転がるのはどうなんだと、俺が躊躇して立ち尽くしていると、山葉さんは「ん」と自分のすぐ隣のシーツをぽんぽんと叩いて促してきた。


 観念して、俺はドギマギしながらもベッドに上がり、彼女の隣に並んで寝転がるようにして、開かれた本を覗き込んだ。


 肩と肩が、触れ合う。


 大きすぎるTシャツの隙間から、雨の匂いと、少し濡れた彼女の体温が直接伝わってくるような気がした。昼間の、あの完璧に計算された柔軟剤や香水によるフローラル系の香りじゃない。もっと生々しくて、無防備な匂い。


 俺たちは、雨音が響く薄暗い部屋で、一つのベッドに並んで寝転がり、一冊の文庫本を見つめた。

 山葉さんの細い指先が、ページの一点を指し示している。


『最も美しく消費された時間とは、あなたと何もしなかった夜のことだ』


文字をなぞるように、少しだけ掠れた声で彼女がその一文を読み上げる。


その響きに、窓ガラスを打ち据える激しい雨音が、一瞬だけ遠のいたような気がした。触れ合う肩から伝わってくる生温かい体温と、微かに鼻をくすぐる濡れた髪の匂い。世界が、止まったような錯覚。


だが、訪れた数秒のひどく濃密な沈黙を、彼女はあっさりと蹴り破った。


「なにこれ、意味わかんね」


 山葉さんはふはっと吹き出し、ツボに入ったように肩を震わせて笑い声を上げた。


「昔のフランス人、生産性ガン無視かよ」


「ほんとですね」


 俺もつられて笑った。


「タイパとかの概念についてどう思うか聞いてみたいです」


「意味わかんね、っていうよ多分」


そう言って悶える彼女の肘が、俺の脇腹を遠慮なく小突く。狭いベッドの上で、逃げ場のない笑いの波が寄せては返し、二人してシーツをくしゃくしゃに丸めてのたうち回った。


やがて、ひきつけのような笑い声が少しずつ落ち着いていく。


すると、熱を帯びた呼気とともに、さっきまでよりもずっと色濃くなった彼女の体温が、触れ合う腕を通じてじわりと伝わってきた。


叩きつけるような激しい雨音さえ、今はもう、この小さな箱庭のような密室を外界から守るための心地よいホワイトノイズにしか聞こえない。


 意味わかんね、と笑い飛ばしたはずなのに。その一文は不思議と、ストンと胸の奥に落ちてきた。きっと、山葉さんも。


 この数週間、俺たちがこの部屋で過ごしてきた、ダラダラとした何の意味もない時間。


 それが、理屈抜きで肯定されているような気がして、なんだか妙に印象に残ったのだ。


 ページから指を離し、ゆっくりと俺の方へ顔を向けた彼女のタレ目気味の三白眼には、先ほどまでのふざけた笑いとは違う、少しだけ柔らかい光が灯っていた。


「……でも、あたしは結構好きかも。こういうショーヒの仕方。美しいかは知らんけど」


 外の世界で誰にでも向けられる『女神の笑顔』なんかじゃない。俺の部屋で、俺の服を着て、俺だけに向けられた、特別で、少しだけ湿度を帯びた微笑み。


 俺の胸の奥で燻っていた嫉妬やモヤモヤは、もう跡形もなく消え去っていた。


 激しい雨が、外の世界を完全に遮断してくれる。

 今夜、この部屋で、俺たちが消費した時間も、美しかったりするのだろうか、なんてことをふと考えた。


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